エッセイ 考える
ただ一人でたたずむには広すぎる。光を反射する板間に安座する。背筋を伸ばし、目を閉じ、深呼吸する。結手を置くお腹に力が入る。
目をつむり、真っ暗な中、邪心を飛ばす。暗闇のその先を見つめて、心の中をまっさらにする。
そして考える。いつも考える。
「ああああああ!」
「おおおおお!!!」
相手との間合いを取り、睨みつける。今、こいつは敵だ。そんな緊迫感を必要とする。
互いの間合いが合わないとけがをする。これは実戦ではない。実戦ではないからこそ集中力がいるのだ。
「せいやっ!」
ドドンっ。
相手の体が宙に浮き、足が板間に打ち付けられる。さらに追い打ちをかけるように関節を固め、床をタップするのを待つ。
相手の体を持ち上げ、中段に蹴りを決める、「やぁ!」
そして、やっと相手の手を放す。
後ろ受け身から逃れるように立ち上がる相手に一歩滲みより、互いに睨みあった。
相手と合掌礼をし、審判員の先生方にも合掌礼をし、捌ける。
コートの外で着座をすれば、次の組が待機を始めた。
ドキドキと心臓が波打ち、息が上がっている。緊張はまだ取れない。
審判員の得点を見て、ふぅと息を吐き出す。これもいつものことだ。
最後の組演武が終わるまで、他道院の演武を観察し、善し悪しを自分の中で確認しているのもいつものこと。
「第一位 武蔵野南道院 山岸 根本組」
「はいっ!」
立ち上がり、正面に合掌礼をする。そしてすぐに優秀演武に向かう。これもいつものこと。
同じ道院の仲間たちからは、「やっぱりな」とあいつら取って当たり前だよ。という声が上がる。これもいつものことだった。
だからだろうか、首にかかった金メダルは、私をむなしくさせた。
人を倒すことを目的としていない。人を生かすことを目的とした武道の勝ち負けが私の心をむなしくする。
一番とは何か。優勝することの意味は何か。だんだんとわからなくなってきた。
「部活に入って、そちらに集中したいので、しばらく稽古をお休みします。」
「よっちゃんバスケ部に入ったんだって。忙しくて練習来れないらしいよ。」
小学生から中学生になり、親同伴で道場にやってくる先輩が毎いる。それも中学に上がった大体の先輩が、「部活動」を理由に道場を離れていった。
そして大半がそのまま道場を離れたままになってしまう。部活はただの理由で、きっかけで、結局は拳法が嫌になってしまったのではないかと私はいつもいつも苦しかった。
「少林寺は殺人拳じゃない。活人拳と言って、人を活かすための武道だ。守主攻柔という言葉が読本にあるように、先手必勝を目的としていない。ほら、足の指をいじるな。」
先生が通称バッドと呼ばれる柔らかい棒で一人の男の子の頭をたたいた。
法話の時間は眠くなる。拳法の歴史や、人としての生き方を先生が語る。その間に子供たちは暇になり自分の足をいじったり、静かにしていられない。
もしいじめられている人がいたらどうするか。そんな人たちが世の中にあふれたらどうなるか。考えてみて。
そう問いかける。
もしいじめられている人がいたら、いじめている人を止める。けれど、必ずしもいじめている側に原因があるわけではないという意見も出てくる。
いじめられていると感じる状況になった時点で、それはもういじめである。そこでどう折り合いをつけるか。明確な線引きの無いものが多い中で、何が正しいか、何を根本において解決に導くか、頭の中で必死に考えた。
そして、いじめる人が世の中にあふれたら、それは弱肉強食のなかで、弱い者は生きることを認めてもらえなくなるのではないか。
そんな世の中にしてはいけない。だからよく考える。大人たちが世界を作っているのではない。子供の中の世界にも自分の目で見て感じて、行動をしなければいけない世界がある。
もし力技で相手が向ってきたら、その時に自分を守り、そして周囲にいる人を守れるようにならなければ。
この頃は私の頭は空っぽだった。
学校の勉強にはあまり興味はない。聞いているだけで億劫だった。
体が弱い。体育も医師によって止められてあまり参加できずにいた。もしも体が丈夫なら・・・・できることがたくさんあったのにと思う日々だ。
体の弱いものは、弱いままでいなくてはいけないのだろうか。
できないことが、できないと認めるほかないのだろうか。
いつも自問自答した。少林寺は私にとってできることの一つで、結果の出ることの一つでもあった。
「もう一回」
組演武の練習、一分半の中で六つの構成で技を組み立てる。何度も何度も繰り返し、体中があざだらけだった。
「やっぱり三構成目のつなぎ、回し蹴りにしない?上段からだとなんだか入りづらくて。」
「じゃあ、一回三構成目それでやってみよう。」
私と根本は休むことがなかった。毎回毎回変化する相手のスピードや正確性に互いに合わせていくうちに、休む暇がなかった。
周りの子供たちは練習に飽きがきてすぐに走り回る。けれど集中している私と根本の練習に突っかかって来る子供はいなかった。
結手構で正対する。互いに息を整え、視線を合わせ続ける。ゆっくりと合掌礼をし、結手を帯に戻した瞬間
「あああああ!!!」
どこから出しているかわからない。けれど、道場内に響き渡る気合いで根本を睨みつけた。
しんと静まり返る心。この瞬間がたまらなく好きだった。
互いに見合い、いつ来る。どこからくる?そんな風な駆け引きが見える。
たとえ、形ができあがている組演武だとしても、どのタイミングで根本が仕掛けてくるかわからない。
私はいつも根元から視線を逸らせなかった。
「やぁ!」
「ん!」
回し蹴りから、払い受けで躱し、中段に蹴り返す。根元の水月に前足底が入る感触を覚えながら、連撃を追加する。中段から下受けを受けた。
「そおれっ!」
投げ技で飛ぶと、床に足を打ち付けた。急いで立ち上がると、にじり寄る根本との間合いをはかった。
汗が滝のように流れる。息を切らし、それでも「もう一度」と繰り返す。
練習が終わるころには手も足も青あざだらけになっていた。お風呂に入れば、おなかにもあざができている。
とても痛い。痛いけれど、根本が本気になって突蹴りをしてくれなければ、私たちの演武はお遊戯と変わらない。
そして、あざを作るということは、まだまだ自分たちが未熟であるということも理解していた。
それでも、お遊戯だと理解し始めた。
「部活を始めたので、しばらく休みます。」
まさか、自分がこの一言を言う日が来るなんて思ってもみなかった。毎年、毎年、似たようなメンバーでローテンションを重ねた組演武。段々飽きが着てきた。
違う相手と組みたい。その希望は、なかなかかなわなかった。大会に出れば、賞を取るのはその同じメンバーだったからだ。
拳法の楽しさが分からなくなり、麻痺してきた。
小学生で黒帯を取った。私は、違和感しか感じられなかった。今までの練習は、何のためにあったのだろう。今までのメダルは何のためにあったのだろう。
他道院の人との交流から、ふと自分が浮いているように感じた。
私が思う拳法はこれでいいのだろうか。そう思えたころ、中学生に上がり、部活動を始めた。
「せっかくだから、大学生の大会を見に行かないか」
来年から部活に行くと決めた少林寺にかける最後の一年、先生は私たちをいろいろな大会に連れていってくださった。
大学生の大会は迫力があり、武道館の上のほうから見ていても、一寸乱れぬ動きに感動した。それと同時に狂気に感じた。
ピシピシと動きをそろえ、迫力のある気合をだし、大会の上位に入賞する。これが「少林寺拳法」なのだろうか。
私は道場で何をしてきたのだろうか。
道着を着て、久しぶりに道場に入る。
脚下照顧、合掌礼、身だしなみ、作務。
忘れることのない基本的な拳法の教え。私は道場に帰ることで、拳法が生きていることに気が付いた。
少林寺拳法は人の基礎を考えさせる。そして実行させる。
何事も行動しなければそれは教えとして受け継がれていない。
私は、道場の存続を思う。
今、何を人が求めているか。
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