エッセイ ラーメンと台所


田舎に帰り空気の良いところで生活を続ければ、心の病にもきっといいだろうと、父の配慮で、山や海に囲まれ、穏やかな気候に恵まれた瀬戸内での生活は実に体に合っていた。

東京は人のジャングルで、いつも流れるように人と人とが肩をぶつけ合い余裕をなくしてしまう。母もそんな人々の中で生活をつづけたせいか、強く、折れない人間になってしまった。家より外へ行くことがステータスとでも言わんばかりの働き方に私は家事ばかりする日々に溺れた。しかも傲慢にも、一家の台所を守るはずの母が娘の家事を今でTVを見ながら待つという態度である。私は腹立たしく、そして悲しい気持ちで胸が張り裂けそうだった。

田舎へ行と生活が一変した。

祖母は、私からおたまを取り上げ、洗濯物を取り上げ、「ばあちゃんに任せて好きなことをせい」と笑うのであった。私はそんな祖母の言葉に困惑したのだが、本を読み、カメラを片手に海へ行き、潮風にあたりながら一日を過ごすことが増えた。あまり遠出はできないものの、私には世界が美しく映っていた。日々の忙しさに路肩に咲くタンポポにすら目がいかなくなっていたことに気が付くと、一本道の信号もない、長い長い道が雑草と呼ばれる、美しい花で囲われているのを見ると心が躍った。雑草ですら、生きているのだ。狭かった私の世界は開けて、まだまだ広がることを知ったのだ。

東京へ帰ることがあった。本来の実家である東京の家へ帰るという感覚は薄く、どちらかといえばホームステイに行くように思えた。しかし台所に立つと一気に世界がよみがえる。

そして夢を見た。

兄は疲弊しきっていた。家にあるすべての鍋が使われた状態で所狭しと置かれている。コンロは焦げ付き、電子レンジも開きっぱなしだ。

母は居間で呆然と座っており、テレビもついていない。その背中にはすべての絶望を背負ってしまったような悲しすぎる背であった。髪の毛も傷み、私の声に母は振り返ることもせず、どこか一点をずっとみつめていた。

ご飯にしよう。

私は祖母が言っていたことを思い出した。家族で一緒にご飯が食べられることは至極幸せなことであると。私もそう思った。今の家族を笑顔にするには、みんなで食卓を囲むことが必要だと思い、腕まくりをした。

冷蔵庫の中にはなぜか肉が詰め込まれていた。左下の隅に玉ねぎの切れ端と、リンゴが入っていた。

ラーメンにしよう。乾麺があるよね。

私は明るく兄に言うと、兄は乾麺の袋を無言で取り出し、シンクに置いた。

口げんかもした、趣味もあい、良く語り合った兄が、何も言わず、一点を見つめる母のもとへ行った。母に何かを話しかけ、やっと振り返った母は私にぺこりと頭を下げたのだった。

私は鍋を金だわしでこすった。汚れがこびりつき、なかなか落ちない。ごしごしと力強くこすると、自分の手が傷つきそうだったが、それでもかまわなかった。

私が台所を片付け、食事の支度をしている間、母は二度台所へやってきて、冷蔵庫に積まれている肉を取り出しては、電子レンジで意味もなく温めた。母は、ただ、肉を温めてそのまま座ってしまうのだ。何かを作ることも忘れ、呆然と一点を見つめる母と、それに寄り添う兄の背中が悲しかった。

少しだけ、昔の台所によみがえり、私は母と兄のもとへ温かいラーメンを運んだ。玉ねぎともやし、そして、母が温め続けた肉を炒めて乗せた簡単なラーメンだが、豪華な食卓に見えた。母は、箸をつかむと、ラーメンをむさぼるように食べ始めたむさぼるように食べ始めた。兄はそれを見てほっと安堵した表情を見せ、ゆっくりとラーメンをすすり、「うまい」と一言だけ口にしたのだった。母は子供のように食べ続ける。口うるさい、気の強い母が子供帰りした姿をみると思わず、私は涙があふれた。子供のようになるまで思いつめたこの人の心は今、どんな世界を映しているのだろうか。

父は食卓の席に来なかった。顔を合わせたくない事実上別居状態の母のことを知っているのか甚だ疑問だった。会談のほうを見つめ、「おいしい」を繰り返す母の声を耳にしながら、父が「いい匂いだな。父さんの分は?」と降りてこないかなと考えるのであった。

夢から覚めると、目に涙が浮かび、目やにで開かなかった。風邪をこじらせ、一人暮らしの部屋で一人寝入っていた時に見る夢にしては酷だった。

現実、母が子供帰りしていることもなく、兄と口を利かなくなっているわけでもなく、家事がめちゃくちゃというわけでもない。けれど、一種、私が家を離れたことでありえたかもしれない現実を夢に見た。私は母が強い人間と思うが、それでもどこか弱いところを折られてしまったら人が変わってしまう恐怖も抱いていた。いつかまた食卓を家族で囲む。その時には母と台所に立つと決めている。なぜかって、私は母のトン汁が世界一うまいと思っているからだ。

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