エッセイ 自分が嫌になる瞬間
自分のことを嫌になる瞬間。
先生に怒られたことがあるだろうか。私自身が怒られたことはほとんどなく先生からすれば手のかからない「優等生」であったと思う。
けれど、私は「優等生」であることがとても嫌いだった。
隣の席の子が怒られていると気が気ではなかった。自分も同じように怒られるのではないかと、そわそわとしていた記憶がある。
私は「ゆとり教育」の世代であり、怒られるよりも、褒められて伸びるタイプですと素面で行ってしまう人間が多い。
けれど、決して、褒められて伸びるタイプの人間なのではなくて、怒られる耐性がついていないタイプの人間であふれている。
自分にも言えることだが、忍耐力がない。忍び耐え、乗り越える、そんなことがまだまだ短い人生の中で何度あったことだろうか。
自分と同世代で気になる言動がある。それは「明日があるから」と言う言葉だ。
久しぶりに仲間内で集まり、和気藹々と食事とお酒を楽しみ、日々の愚痴や、楽しかったことを語らい、解散するにも名残惜しい余韻が残っているときに一人が言った言葉だ。
「俺、明日があるから帰るわ。」
何ということだろう。ほかの面々はなんだかんだもう一軒行こうかと言う空気を醸し出していた瞬間だった。一気に場がしらけて、何人かは帰ってしまった。
「明日があるのは皆同じ」
そんな風に言ってやってもよかったが、どうも言う気にはなれなかった。
明日と言うもは誰にでも来るもので、明日を理由に今日楽しむことを辞めたら、いつも明日を考え続けてしまうではないかと私は思うのだった。
余裕がない。
一言でいうとそう言える言動だ。
何かに追われ、何かを追い続け自分の中に、今日と言う余裕を持つことができない。これでは仕事もいっぱいいっぱいだろう。
休みの日は疲れてしまって一日中自室にこもってゴロゴロとしている。
休みの日くらい、休ませてくれよ。
そんな風に言われるが、私があなたに仕事を疲れきるまでやれとは一言も言っていないのだから、この言葉はぶつける相手が間違っている。
私たちの世代はどうも「休み」と「遊び」の時間を天秤にかけて、ふらふらとしている。
けじめよくどちらかを選択する余裕もなく、だらだらと、流れに任せているから「明日があるから」や「休みの日くらい休ませてくれよ」と言う言葉が出てくる。
私の友人の中で一人、呼ばれればくる奴がいる。
簡単に言えば、「いつ呼んでもOK」な奴だ。私はこの友人Aが大好きである。呼べば来るというのは下僕や言いなりなわけではなく、Aが行きたいと思って呼ばれれば来るのだ。
仲間内で集まり、顔を合わせられるそのチャンスをいつも持っている人間と言うわけだ。
私が思う理想は
自分の足で、仲間のもとへ行き、今を存分に楽しむ。明日のことは明日になってから考える。
と言う理想だ。
ついつい、仲間からお呼びの電話をもらうと自転車でひとっ走りしてでも会いに行きたくなる。私を呼んでくれるという行為自体がうれしくて仕方ないのだ。
まるで犬だ。そう思うかもしれないが、犬のように忠実ではない。
来てくれと言う気持ちと、行きたいという気持ちが=になった時だけが私が自転車をかっ飛ばしてでも行く理由になる。
もちろん、来てくれと言われても、気持ちが乗らない時にはいかない。
自分中心で考えてもいいが、決してそれを「明日」や「疲れているから」と、誰もが理由にする内容で断ったりはしない。
そして、わかれよ。察しろよ。と言うような空気を出すこともしない。同情相哀れむ。ではないが、私は同情してほしいわけではない。人それぞれ仕事の職種が違うわけで、(たまに被ると同感してしまうこともある)分かり合おうなどと思っても分かり合えないのだ。
社会人だから、学生だから、そんな理由いつまでも通ると思うなよ。
と、今の自分に一喝しておきたい。フリーターといっても社会人である。社会に出ている人すべて社会人である。学生だった社会の一分として考えることが当たり前である。
上司に怒られた、部下ができた。そんなときに、こんな上司が良いと思う上司でありたいとともに、私だからできる上司でありたいとも思う。
自分の周りに理想の上司がいないとしても、ともに働いている人々の中にもみくちゃにされて、ミスも、説教も、褒められることも全部ひっくるめて覚えることができるのが今なのだ。その時間を大切にできないやつは、仲間を大切にできないと考える。
それができるから仲間の大切さを知り、仲間と過ごす時間も大切だと思えるようになるのに、「明日があるから」なんて言っていたらすべて一瞬にしてぶち壊してしまうのではないだろうか。
家で一人で「疲れた」とぐったりしているよりも、心のリフレッシュをはかりに友人と出かけるなり、外に出るなりしたほうがよっぽど休んだ気になるのではないだろうか。
最近の若い私たちの世代はゲームで遊ぶことが主流となり、SNSの発達により、パソコンを前にして会話が楽しめる時代になった。
外に出るということをしなくなり、休みの日はオンラインゲームでグラブっているとかなんとか…
私には理解できない。
そんな世代が、これから親になっていく時代に突入した。子供たちはどんどん外で遊ばなくなり、私たち世代も、外で遊んだ記憶が薄れていく。
それはとても寂しいことであり、悲しいことである。
元気よく外で遊ぶのが子供の仕事なんて昔言われたことがあるが、私たちがそれを忘れてはいけないのではないだろうか。
自分が嫌になる瞬間は、そんな瞬間を感じ取った瞬間である。
人それぞれ言い分があるから、と心の奥底に押し込める自分がとても嫌になる。人を目の前にしてそれが言えず、文にして書き起こすと、それが自分であり、自分の分身である人たちなんだなとなんだか感慨深くなってしまうのだ。
できれば、そんな風に「明日があるから」と言う人間にならないようになろう。
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