最終話 ハイキングに行こう
蛇行しながら谷底を走る列車。わたしたちは、春浅い山並みを車窓からぼんやりと見つめていた。
「ねえ、菊香」
「ん?」
「わたしたち、本当に行ってきたんだよね?」
「行ってきたから列車の中にいるんじゃないの?」
「そうなんだけどさ……」
「うー、あたしはしばらく悪い夢見そうですぅ」
「はっはっは。ケイには、そのくらいでちょうどいいんちゃうの?」
「せんぱ……じゃなかった、菊香さん、でもなかった菊香ぁ、ひどぉい!」
「ケイもしばらく苦労しそうねえ……」
「佑実先輩までぇ!」
「ほらあ、言ってる端から」
「うひー」
ケイが顔を赤くして俯いた。
「ふう、帰ったら仕事の山なんだろなあ」
「そんなこと言わないでよう」
佑実がぷうっと膨れる。ケイもうんざりって顔してる。
「現実は厳しいっすよねぇ」
「まあね。でもそれが、わたしたちが生きてるってことだからさ」
佑実もケイも黙った。そう、帰れる現実があるっていうことは、当たり前なんかじゃない。それは、間違いなく幸運なんだ。
「ふう……」
わたしは。次にここに来た時には、もう泰子さんがいないか、泰子さんも成島さんもいないような気がした。二人が。いいや、成島さんがどうやって心の整理をするのか。それはわたしには分からない。でも成島さんは、きっと今までとは違う生き方を探っていくんだろう。
泰子さんが側にいることだけに拘ってきた、自分の渇きと弱さを鏡の中で見つめて。泰子さんが注ぎ続けた愛情でゆっくりと癒されて。泰子さんが望むように、きっとどこかで前を向いてくれる。わたしは、そうあって欲しいと。わたしにやり直すチャンスをくれた二人にはどうしてもそうあって欲しいと。強く強く祈る。
わたしも。いや、わたしだけでなくて佑実もケイも。これまで散々悩まされてきた自分の心の曇りが、一瞬にして消えてなくなるなんてことはあり得ないと思う。そして、彼我の鏡が内省のチャンスをくれることも、泰子さんがわたしたちにアドバイスをくれることも、もう二度とないだろう。
だから。また迷ったら。苦しくなったら。逃げ出したくなったら。わたしは、あの山に行こう。今度は自分の力で、自分を見つめるために。何にも邪魔されずに、素直に自分を見つめるために。
「ねえ、菊香!」
ぼんやり考え込んでいたわたしを、佑実が揺すった。
「んんー?」
「何ぼやーっとしてんのよ」
「また行かないとなーと思ってさ」
「……成島さんたちに会いに?」
「いや」
わたしは、ううーんと伸びをした。
「桜は絶対見たいし、若葉の頃も気持ち良さそうだし。紅葉も素敵だと思うし、雪景色見ながら一杯やるのも楽しそう」
「きゃはははっ」
ケイが屈託なく笑う。
「そうっすよねー。あたしは、山なんか見てる余裕なかったしぃ」
「考えてみれば、結局頂上にも登ってなかったんだね」
「うん、そうなんだ。だからさ」
……また、ハイキングに行こうよ……
*** f i n ***
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