第九話 桜

 旗山の頂上。ぽかぽかと暖かい日差しの下。私はベンチに座って、水筒のお茶を飲んでいた。昨日と同じように。いや昨日よりもさらにその足取りを早めて、春の気配が近付いてくる。春を讃えるように、そこかしこでうぐいすが鳴き交わしている。


 十時か。そろそろ下りの特急が駅に着く頃だ。昨日の子らは、それに乗って帰るんだろうな。


 山裾から目を移し、私は手をかざして太陽を見上げた。少し春霞にぼやかされた日差し。それでも着実に。着実に熱を増して。


 山が。木々が。そして私が、暖められていく。


◇ ◇ ◇


 今朝。泰子は、いつもと同じように朝食と弁当を用意してくれていた。だが泰子が鏡に戻ってから、昨日の子らが訪ねて来たこと、私と泰子のこれまでの経緯を話したことなどを伝えられ、そのあと長時間話し込んだ。これまで泰子が、ずっと言いたそうにしていたこと。それを、初めてしっかりと告げられた。


「この不自然な生活を続けていくのは、もう無理よ」


 ……うん。分かってたよ。それはずっと前からね。


 今まで。私は反魂を試す決断を先延ばしにしてきた。鏡を介して、泰子と会話出来ることをいいことに。泰子に体を貸して、夫婦の真似事が出来るのをいいことに。

それが泰子にとってどれほど辛い事かを、考えもせず。


 三十年と言う年月の間。泰子をもう一度だけでもこの手に抱きたいという凝り固まった想いは、私に諦めることを決して許してくれなかった。安らかに眠っていたはずの泰子を無理矢理叩き起こして、振り回して。私の中途半端な出来損ないの恋心に無垢な泰子を巻き込んでしまって。本当に申し訳なかったと思う。

 その償いが何一つ出来ないうちに、私だけが老いていく。泰子に何一つ残せずに、私だけが……朽ちていく。私の焦りは極限に来ていたんだ。


 さらに。一番黄泉への距離が近くて、一番泰子と一緒の時間を長く取れるここに来たことで、私は崖っぷちに追い込まれてしまった。これ以上の好条件は、もうどこにも望めないのだ。だから一縷の望みを託して、最後の賭けに出ることを決めた。失敗を恐れて、ずっと躊躇していた反魂の計画。私以外の人物と泰子との入れ替えを、試みることにしたんだ。


 黄泉への間道がもっとも太い祠に彼我の鏡を置き、泰子に待機していてもらう。そこへ依り代を連れて行き、鏡を覗き込ませて入れ替える。鏡に取り込まれた依り代の魂が黄泉の方を振り向けば、それは黄泉に落ちて、もう現世うつしよには戻れない。代わりに、泰子が現世に留まることが出来る。


 そして昨日。おあつらえ向きに、心に深い闇を抱えている女が三人やって来た。肝試しを持ちかけ、三人ともまんまとそれに乗った。


 泰子と入れ替わった後、鏡の中で彼女らの誰か一人でもいいから後ろを向いてくれれば……。それは私にとっては、切なる願いであると同時に耐え切れないほどの恐怖でもあった。もし反魂に成功しても、私は泰子を永遠に失うかもしれない。蘇生した泰子が私の側にいてくれる保証なぞ、どこにもないのだから。


 私は。私は、成功を望んでいたのだろうか? 失敗を望んでいたのだろうか?


「ふう……」


 彼女らが無事に祠から戻って来た時。私の心の中でも一つの区切りがついた。これでいい、と。もし誰かの肉体に泰子の魂魄を移しても、それは泰子とは似て非なるものだ。私の渇きと罪悪感は、余計ひどくなったに違いない。


 そして。彼女らも、鏡の中で自分を取り戻した。もちろん、どこまでも優しい泰子のお節介もあったのだろう。彼女らが戻ってきてから流した、たくさんの涙。それは、自分の闇を直視した怖れと、自分を取り戻した喜びがもたらしたもの。


 人には、闇と光が表裏に貼り合わされている。だからいつも、迷いも葛藤もある。それをどのようにして見つめ、どのようにして苦境を乗り切っていくのか。私は。あれだけ長いこと鏡の中にいながら、そのことからずっと目を背け続けていたように思う。

 彼女らは、鏡の中にいたわずかな間に己の光と闇を見据え、その見識をもとに自分の生き方を立て直そうとしている。私は彼女らの再生の奇跡を目の当たりにして。自分の愚かさを思い知る。


 泰子が限りなく与え続けてくれた愛情を当たり前のように受け止めて、湯水のように日々使い捨ててきたことを。何一つ泰子に報いることなく、ただひたすら自らの妄執にしがみついてきたことを。その愚かさを。どこまでも思い知る。

 だから私は、それを消えぬとがとして自身に刻み込むことにした。決して。決して忘れるまい。泰子が、私のために全てを注ぎ込んでくれたことを。そして……私は、もう二度とそれを得られないということを。


「またね」


 泰子がそう言って、鏡から姿を消したあと。私は鏡に向かって手を合わせ、目を瞑った。済まない。直接おまえの顔を見て伝えられなかったことを。その私の弱さを……どうか。どうか許して欲しい。


「長い間私を支えてくれて、本当にありがとう。お休み、泰子」


 私は。三十年間欠かさず覗いてきた彼我の鏡を。


 ……静かに伏せた。


◇ ◇ ◇


「こんにちは」

「こんにちは。旗山にようこそ」

「ガイドの方ですか?」

「はい。整備も兼任してますけどね。今日はハイキングに来られたんですか?」

「ええ。いい天気になりましたね。家内も来た甲斐があったと喜んでます」

「ははは。あの滝以外はこれと言って見るものもないんですが、たまにはのどかな山里の風情をのんびり味わうのもいいものですよ」

「あらあ、とてもいいところですよ。沢音も気持ちいいし、小鳥もいっぱい鳴いてるし。かわいいお花もたくさん。あ、さっき咲き始めの桜を見つけました」

「えっ!? それは知らなかった。走り咲きですね」

「ほほほ、ガイドさんでもご存じないことがあるんですね」

「いやあ、お恥ずかしい」


 目を伏せた私を見て、ご夫婦がふと口を閉ざした。


「私は。足下ばかり見ていたのかもしれません」


 私はベンチから腰を上げて、ご夫婦に勧める。


「どうぞ、座って一服なさってください。私は桜を見回ってくることにします。これから、桜を見に来られるお客様が多くなるので、ちょっとチェックしておかないと」

「あら、なんかかえって申し訳ないことをしちゃったかしら」

「いえいえ、これでお給料をいただいてますからね。どうぞ楽しんでいってください」


◇ ◇ ◇


 うーん、どこに咲き初めの桜があったのかなあ。私は木々の間を見透かすようにして、桜花を探しながらゆっくり山を下りた。まあ、続きは昼飯を食べてからにしよう。ああ、そうだ。メシの作り方を覚えないとな。


 ぶつぶつ言いながら歩いていたところを、高桑のじいちゃんに捕まった。


「おう、成島さん。昼飯かい?」

「ええ」

「こんないい天気だ。宿舎の薄暗い部屋でメシぃ食わずに、うちで食ってきなよ。茶ぁくらいいれてやるよ」


 ……。


「そうですね。呼ばれようかな」

「はっはっはっ。いっつも素通りじゃ寂しいよ。たまには顔出しな」

「ありがとうございます」


 嬉しそうに歩いていくじいちゃんの背中越しに、熱を帯びてきた日差しを見上げる。春の色を乗せた桜が一輪、どこかで咲いている。私は、それを見つけることが出来るだろうか?


 淡い青空を震わせて、村役場の昼のサイレンが鳴った。


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