第八話 成島泰子

 いかにも田舎らしい頼りない街灯が、ぽつんぽつんと人気のない路上を照らす。そっか。田舎だと、八時でもこんなに人通りがなくなっちゃうんだ。わたしは、三人じゃないと暗闇が怖くて来れなかったかもなあ、と。ふと思った。


 成島さんの住んでる宿舎は、公園入り口のすぐ近くにあった。


「こんなに……近かったんだね」

「うん。これなら、まるで成島さんの庭みたいだなー」


 宿舎は十世帯以上入居できそうな大きさだったけど、灯りが点いているのは、三階の成島さんのところだけだった。


「なんかぁ、寂しいなー」


 ポケットに手を突っ込んだまま、ケイが不安そうに窓を見上げた。


「行こか」

「うん」


 幽霊屋敷に入るみたいにびくびくしながら階段を上がって、ドア横のインターフォンを鳴らす。呼び出し音の余韻が消えないうちに、くっきりした成島さんの返事が聞こえた。


「はい、開いてますよ。どうぞー」


 なにもおかしくはないはずなのに。わたしの脳裏には、さっき電話した時の違和感が鮮明によみがえった。すごく気味が……悪い。おそるおそるドアを開けると、居間から成島さんがゆっくり出て来た。


「聞きたいことがあるって? まあ、どうぞ入ってください」

「済みません、夜分遅くに押し掛けて。お邪魔します」


 先に引っ込もうとした成島さんに菓子折りを差し出して、それからこわごわ居間に上がった。わたしはその光景を見た途端に、吐きそうなくらい気持ち悪くなった。


 世帯用の宿舎に、男やもめが一人。普通はごしゃごしゃになるよね。でも部屋の中は、とんでもなくきれいに片付いていた。

 生活感はある。まだ夕食が終わって間がないんだろう。洗い終わった食器が、食器桶に並んでいた。洗濯物はすでに取り込んであったようで、部屋の隅にきれいに畳んである。テレビからは、小さな音だけどバラエティ番組の笑い声が響いていた。


 そう。何もおかしいところはない。でも、そのことがどう考えてもおかしいの。こんなに破綻がないなんて。ねえ、佑実もケイも気付かない? この変なクウキ、気付かない? いや、気付いたのはわたしだけじゃなかった。やっぱり、佑実もケイも強い違和感を覚えたみたいだ。


「あの。昼は案内してくださって、どうもありがとうございました」


 成島さんの表情を確かめるようにして、丁寧にお礼を言う。


「はっはっは。肝試しが案内代わりじゃあ、ちょっとあれだったかな」


 成島さんが屈託なく笑った。その笑顔を見て。わたしの違和感の原因は、すぐに分かった。


「で、聞きたいことってなんだい?」


 どうしようか。わたしの単なる思い違いかもしれない。下衆な勘ぐりをして成島さんにいやな思いをさせたくないけど……。わたしがしばらく躊躇していたら、佑実が静かに話しかけた。


「泰子さん。昼間は……本当にありがとうございました。わたしたち三人の中では、たぶんわたしが一番助けられたと思います」


 あ! 佑実ったら、いきなり! でもわたしも、目の前の人が昼間の成島さんではないことに、なんとなく気付いていた。泰子さんじゃないかなーと。


 成島さんは、とても雰囲気が重い。決して無愛想な人ではないんだけど、気軽に冗談を飛ばすような感じではない。なんつーか、ものすごくメタリックな感じがする。それに対して。今目の前にいる人は、とても軽やかな雰囲気を持っている。

 昼に鏡を介してやりとりした時。怖い会話をしてるのに、泰子さんにはどこか空気感みたいのがあってふんわり軽かったんだ。


 ……どういうこと?


 目の前でわたしたちを見回してた成島さんが、頭をぽりぽり掻いて苦笑いした。


「ちぇ。わたしは出歩かないから、まずばれることはないんだけどなー。しゃあないねー」


 げ……。口調が、完全に女口調だ。


「まあ、いい機会だね。わたしも、今日あなたたちのを聞かせてもらったし。わたしのも聞いてもらうかな」


 泰子さんは、すっと立ち上がるとお茶をいれに行った。


「お菓子開けましょ。食べながら話しようよ」


◇ ◇ ◇


 佑実が話の口火を切った。


「あの……成島さんは昼に、泰子さんが三十年前に殺されたって言ってましたけど……」

「ああ、あれね」


 箱の中から大きなクッキーをつまみ出した泰子さんが、嬉しそうにそれにかぶりつく。ぼりぼりぼり。


「あれは英なりのレトリックよ。そんなにご大層なもんじゃないわ」


 ほえ?


「車にはねられたの」

「ひき逃げ……ですか?」

「いやあ、単なる酔っぱらい運転の巻き添えよ。運転してた男も、わたしをはねた後で電柱に激突して死んだ。わたしも即死だった。よくある交通事故ね」


 二枚目のクッキーを取り出した泰子さんが、こともなげにそう言い放つ。


「ちょっと因縁みたいのがあるとすれば、それがわたしたちの結婚式当日だったってことかな」


 うげーーっ! わたしたちは全力でのけぞった。


「む、むっちゃ悲惨だあ」


 ケイが、とんでもなくげっそりした表情でこぼす。


「ありがと。ほんとについてなかったわー」


 それをけらけら笑い飛ばす泰子さん。


 わたしには、泰子さんのあっけらかんとしたキャラクターが、どうしても成島さんの重苦しい雰囲気と重ならなかった。でも……成島さんが泰子さんに惹かれる理由は痛いほど分かった。

 突き抜けた、からっとした明るさ。物事に対して強いこだわりを持ってない。さばさば。でも祠のところでやり取りした時感じたみたいに、根底にとても優しい、ほっとするものが流れている。一緒にいて、とても安らぐ感じがするんだ。


「あの……」

「ん?」


 クッキーをくわえた泰子さんが、佑実の方を見た。


「泰子さんは、ご主人とはどうやって知り合われたんですか?」


 おいおい、佑実ぃ。それ、幽霊相手に聞くかあ?


「ああ、見合いだよ」

「ええっ? お見合いですか?! てっきり恋愛かと……」

「英は根暗だからなー。恋愛向きじゃないよ。真面目だけど、感情表現は乏しいし、極端な照れ屋だし。それに」


 泰子さんが、急に笑顔を消した。


「英には猛烈な執着癖があるの。もし英に想われた女がそれに応えられなかったら、そいつが壊れるまでつきまとうだろね」


 ぞっ。わたしたちは言葉を失った。そして、これから泰子さんが話すであろう話の中身を大体想像出来た。怖い。もう帰りたい。でも、わたしたちは泰子さんに助けてもらった。だから、せめて泰子さんの話は聞いてあげたい。


「さて」


 手に付いたクッキーの粉をぱんぱんと払い落とした泰子さんが、ゆっくりと口を開いた。


◇ ◇ ◇


「英はツイてないやつでねー。家庭は早くから壊れてて、愛情に飢えて育ってるの。英の感情表現の不器用さは、そっから来てる。性格はねじけてないけど、無口で愛想のない英はすごく誤解されやすいの。もらえないはずのものがもらえるってことになった時に必死にしがみつくのは、本当は執着とは違う。でも、それは周囲に理解してもらえないでしょう?」


 うん……。


「わたしはね、ごく平凡なサラリーマンの三人姉妹の末っ子なの。末っ子ってのは、はしっこくなるんだよね。愛嬌振りまいて、おいしいところだけちょろまかす。んで、こういうお気楽極楽人間が出来上がるってわけさぁ」


 佑実が、わたしも末っ子だけど違うぞっていう顔してる。くくくっ。


「親が、成人しても落ち着きなくちょろちょろしてるわたしを心配して、見合いの話を持ってきたの。口数は少ないけど、真面目ないい青年だぞってことでね」

「泰子さんと英さんが、おいくつの時……ですか?」

「二人とも二十二だよ」

「うわ、はっやー!」


 ケイが、信じられんという風に首を振った。


「田舎はそんなもんだよ。三十年前だしね」

「そっかー」


 佑実が、ゆっくりと質問をつなぐ。


「どういう……印象だったんですか?」

「最悪だよ。丸っきりわたしのタイプではなかった。絶対にこいつだけは嫌って感じぃ。会話がふつーにできないんだもん。論外だよ」

「それなのに……どうして?」

「さっき言ったでしょ? あいつは執着するって。英がわたしにがっつり入れ込んじゃったの」


 げーっ。でも、英さんは泰子さんにすがったんだろうなあ。わたしや佑実がアツシに逃げ込んだみたいに……。


「まあ、人間てのは蓋を開けてみないと分かんないことがあるね。英の言葉とか感情とかそういうのが見えてきたら、まあそんな悪い人じゃないなーと思うようになったの。なんつーか、めっちゃ寂しがりやなんだよ。そりゃそうだよね。今まで、自分を抱きしめてくれる人が誰もいなかったんだから。そういうのを見るとね、きゅうんとなっちゃうんだよ」


 泰子さん……。すごい趣味だ。


「まあ、変わってるって言われてもしゃあないけどさ。こういうのも縁なんだよね」


 泰子さんは、微笑みを浮かべたままで天井を見上げる。


「楽しかったね。英は、わたしの前で少しずつ閉じていた心の箱を開けた。恵まれない生い立ちでありながら、英の心はとても純粋できれいだった。わたしは……それを汚しちゃいけないって思ったの。だから、英のプロポーズを受けた」


 そっか……。


「結婚式の前の日。打ち合わせで行った式場の前で英に言ったの。一人分の幸せを、束ねて二人分以上にしようねって。でも、それが英に伝えたわたしの最後の言葉になった。そして英の幸せは、次の日に全部なくなった」


 泰子さんは、しばらくそのまま口をつぐんでいた。


「わたしはいいよ。わたしは。わたしは短い間に、たくさん楽しいことがあった。英とのことも含めてね。でも、英はやっと手にしようとした小さな幸せまで壊された。そこから……」


 大きな溜息をついて、泰子さんが俯いた。


「英のすさまじい執着が始まったの」


◇ ◇ ◇


 硬くなった空気をほぐすかのように、泰子さんがまたクッキーに手を伸ばした。静まり返った部屋の中に、クッキーを噛み砕く音だけが響く。ぼりぼりぼり。


「わたしは、事故のあと自分がどうなったか全く覚えてない。たぶん、無だったんだろうと思う」

「無……ですか……」


 佑実が、ぽつりと呟く。


「わたしが意識を取り戻したのが、あの鏡の中だったの」

「そ、そんなこと、出来るんですかぁ?」


 ケイが怯えた口調で尋ねた。


「出来るから、わたしがここにいるんでしょ? もちろん、英が最初っからそんな術を使えるわけなんかない。英は執念で、わたしを呼び戻す方法を探したんでしょ」


 泰子さんが、またクッキーに手を伸ばす。ぼりぼりぼり。


「わたしを鏡に呼び出すのは、招魂。これは黄泉への間道がある場所と彼我の鏡があれば、特別な術者でなくても出来るみたいね」


 佑実が怯えの混じった声で聞いた。


「恐山のイタコ……みたいなものですか?」

「そうなんじゃないの? わたしは詳しくは知らない。英も、出来るっていう事実しか知らないと思う」


 あくまでもからっと話す泰子さん。


「英の最終的な目的は、わたしを蘇らせること。でも、この鏡を使って反魂に成功したっていう事実はどこにもないの。そりゃそうよね。それは、この世にとって最大のタブーだもん」


 だよなあ……。


「だから英はとりあえず、他人の体にわたしの魂魄を移すことが可能かどうかを探ったの」

「憑依……ですか」

「まあ、そんなおおげさなもんじゃないよ。わたしを鏡の外に出せるかどうかってこと」

「あ、そうか」

「うん」


 泰子さんは机に肘をついて、ぼおっと視線を泳がせた。


「無愛想で口下手な英が、最初から第三者の依り代を連れてくることなんか出来ないよね。最初の実験体は自分自身にならざるをえない。英は、自分の中にわたしを呼び込もうと必死に念じたの。会いたい。会って抱きしめたい。それが叶うなら、自分なんかなくなってもいいから。そうまで思い詰めて」


 わたしたちは成島さんの想いの強さ、深さに打ちのめされる。


「それが……」


 泰子さんは、寂しそうに笑って自分を指差した。


「この結果よ」


 あ……。


「確かにわたしは鏡から出られた。でも、それは英と入れ替わりだった。わたしたちが互いに手を取ることは……」


 泰子さんの深い溜息が漏れる。


「……出来なかったの」


 悲しい。なんて……悲しい。感動ではなく。どこまでも深い悲しみの淵に突き落とされて。わたしたちは涙が止まらなくなった。


 泰子さんは、目を瞑ってしばらく沈黙した。わたしたちのように感情を露にすることなく。心に立ったさざ波が消えるのを静かに待つかのように。それから、またゆっくりと語り出した。


「でもね。英は考え方を切り替えた。誰か自分以外の依り代を連れて来て、その人とわたしの魂魄を入れ替えれば、わたしは蘇るんじゃないかと」


 ざわっ! 戦慄が走った。どこまでも背筋が寒くなる。今日のあれ。成島さんは、それをわたしたちに隠していない。成島さんのあがきは、まだ続いてるってことだ。でも……。


「あの、泰子さん」


 わたしはあえて聞いてみることにする。


「ごめんなさい。わたしには、ご主人がされてることは狂気そのものに思えます。でも、山でお会いした時には、そういう恐ろしさ、怖さみたいなものを全然感じなかった。むしろ、淡々と事実だけを説明するような。それも、自分を押さえ込んでるっていうより、ごく自然にそう話しているように……思えたんですけど」


 泰子さんは、わたしの顔を見つめてにこりと笑った。


「それがね。三十年経ったってことなの」


 あ……。


 湯のみを口に運んだ泰子さんが、ふっと一息ついた。


「わたしはね。因果っていうのは信じない。全てのことは、偶然の積み重ねで出来てると思ってる。英がわたしを呼び出せたのも偶然。呼び出されたわたしが、英を覚えていたのも偶然。わたしが英に持っていた感情が変わってなかったのも偶然。だからね、わたしたちは運命を偶然の手に任せることにしたの」


 ケイも佑実も首をひねる。わたしもよく分かんない。どういうこと?


「あの……?」

「形は普通の家庭とは違う。でもね。わたしたちは、夫婦としての生活をやってみようと思ったの」


 わたしたちは顔を見合わせた。


「わたしたちは入れ替われる。だから、入れ替わることで家事を分担することにしたの」


 あえ?


「ええと。ということは、今の状態は……」

「そう。わたしが主婦として、掃除、洗濯、炊事をこなしてるってことね」


 うわ。


 佑実がこわごわ聞く。


「あの……じゃあ、今ご主人は?」

「鏡の中で寝てる。あの人は朝とても早起きで、その分寝るのも早いの。仕事から帰ってきたら、わたしとバトンタッチして早々に寝ちゃう」


 ううう。もう、何が何だか分からなくなってきた。ケイも天を仰いでる。


「わたしはこっちに出てから、自分の夕食を作り、明日の朝食とお弁当を用意する。洗濯機を回して洗濯物を干し、部屋を掃除する。家事の大半が夜中になっちゃうから、都会じゃなかなか出来ないわ。英は仕事を山仕事に変えて、田舎を点々としてきた」

「ばれないようにするため……ですか?」

「それもあるね。でもそれより、鏡からわたしが出られる場所を探すのが優先だったの」

「あのー、どういうことなんですかぁ?」


 泰子さんの説明は、もうケイの思考能力の限界を突破しつつあったみたい。


「さっき言ったでしょ? わたしを呼び出すには鏡の他に、黄泉への間道がある場所が必要って」

「あ、そうかあ……。で、それはぁ、どういうところなんですかぁ?」

「あら、あなた方が昼話してたじゃない」


 あ!


「そう、あなた方が言うところのパワースポットよ。寺社や遺跡のあるところ。大樹や巨岩の近く。でもね、そういうところは点でしかない。そこに一々鏡を持っていって入れ替わるのは、とっても大変」

「……そうですよね」

「それに、万が一第三者に覚られると、わたしたちはもうこんな形では暮らせなくなる」

「あの……昼間口止めしたのって、もしかして」

「もちろん、そのためよ」


 泰子さんは、悪戯っぽく笑った。


「だから今までは、交代生活を維持するのがすごく大変だった。去年ここに来てからだね。こんな風にわたしが落ち着いてテレビを見ていられるようになったの」


 はあ……。


 佑実がまた質問した。


「あの……ここは、そんなにすごいところなんですか?」

「そりゃそうよ。旗山自体が、でっかい遺跡みたいなもんだもん。で、ここは、そのすぐ近くでしょ?」

「うわ、そうだったのかぁ」


 ケイが怖そうに、顔を歪ませた。


「だから英があなたたちに警告したでしょ? 浮ついた気持ちでうろうろすると、心を食われるぞって」


 ひいっ。思わず身を縮めてしまった。


 泰子さんは、畳んだ洗濯ものの山を指差した。


「でもね。家事って言っても、その中にわたしのものは何もない。わたしは英としてそれをこなしてるだけで、それにそんなに意味はないの。英はそう思ってないかもしれないけど。わたしにとって大事だったのは、生活の延長上で英と会話すること。そこで生活に必要なことだけでなく、いろんな話をしてきたの。それがわたしたちをずっと繋いできた」


 ええと。


「泰子さん。ご主人の体で生活してるなら、記憶とか感情も共有できるんじゃないんですか?」


 わたしの質問に。泰子さんは、初めて絶望に近い嘆きの表情を見せた。それから……ゆっくり右手をわたしに差し出した。


「触ってみて」


 え?


 おそるおそる触る。


 え? ええーーっ!! 慌てて手を引っ込める。同じように手に触った佑実とケイも言葉を失った。


「冷たいでしょ?」


 冷や汗が出る。唇が震え出す。泰子さんは、そんなわたしたちを見回して静かに微笑んだ。


「わたしはね。もうすでにこの世にはいない者。イタコのように依り代の口をちょっとだけ借りるとかならともかく、体を預かってしまうと、その間は体が死人になってしまうの。英の体にいるなら、すぐに英が戻るからいいんだけど、誰かの体に完全に乗り移ってしまうと、すぐにその肉体は死体として腐り始める。だから反魂が成り立たないの」


 う……。


「これまで彼我の鏡で反魂を試みてきた者が、どうしてもそれをなし得なかったわけ。それが……これよ」


 あんぐりと口を開けていたケイが。ぽつりと言った。


「ゾンビ……すか」


 ケイったら! けーわいはすぐには直らないね。


「まあ、そうね」


 あっけらかんと答える泰子さん。


「わたしが英の体にいる間は、英は死人と同じ。その肉体には記憶が残らない。だから、日常生活を破綻させないように、二人でそれを摺り合わせる必要があるの」

「あの……」


 佑実がこわごわ聞いた。


「ご主人は、その……泰子さんと入れ替わってる間、自分の体が死んでるってこと……ご存じなんですか?」

「知らないわ」


 泰子さんが即答した。


「英は、入れ替わっている間の自分の体のことを知らない。だから、単に自分が眠ってるから覚えてないと考えてんの」


 微笑んだ泰子さんが、その表情のまま静かに目を伏せた。


「わたしたちが入れ替わる時に交わす会話。それは一見、普通の夫婦のものと変わんないでしょうね。でも……その時間がどんなに短くても、それはわたしたちにとってとても大事な時間なの。心と記憶を共有する。そのためのとても大切な時間なの。英は、その大切さを三十年かけて理解して来たんじゃないかなと思う」


 ああ……泰子さんは優しい。とても。とてもとても優しい。愛情ゆえに狂気に走ろうとした英さんの頑な想いを、ゆっくりと時間をかけて癒してきたんだろう。英さんも、それを感じて、受け止めて、少しずつ変わってきたんだろうと思う。わたしたちが鏡で自分に問うたこと。英さんは、それを三十年間ずっとやってきたんだ……。


「ねえ」


 泰子さんがわたしたちを見回した。そして自分を指差して聞いた。


「あなた方、英を見てて何か変だと思わない?」


 佑実が、小さな声で答えた。


「あの……ご主人は、もう五十二歳ってことですよね」

「そうよ」

「どうしても……その年に見えません」


 そうなんだよね。若作りと言うにも無理がある。おじさんというより、お兄さんと言う感じだったんだ。


「うん。そういうことなの」


 テーブルに肘をついた泰子さんが、横を向いた。


「わたしが英の体にいる間は、英の体は生の営みを止める。つまり、年を取らない。わたしと英が体を折半している間は、年の取り方が半分になってしまうの。つまり英の体は今三十七歳ってこと」


 そ……うか。成島さんから感じた違和感。年齢から来る落ち着きと、肉体の若々しさのギャップから……か。


「これからね、中年を過ぎて老年期に入ってくると、肉体と精神のバランスがどんどん崩れてくる。現実的にもおかしくなるよね。もう六十を過ぎてるのに、顔や体つきが四十歳そこそこってのは、さ。それじゃ、周囲が英を見る目が変わってしまう。そろそろね……限界」


 泰子さんが、すっと背筋を伸ばした。


「わたしは二十二から年を取らない。わたしの人生はそこで終わったから。英の肉体は三十七。そして、英の心は五十二の今を生きてる。もう、ちゃんとその矛盾に向き合わないとだめなの。それと……英はまだ、わたしが依り代に移れれば反魂が出来ると思ってる。わたしは、それが無理だって言うことを英に伝えてない」


 えーっ!?


「な、なぜですかっ!?」

「そりゃ、そうよ。英にとっての唯一の希望は、わたしを蘇らせることだもん。それを否定するようなことは、わたしの口からは言えないわ。だから、そろそろ気付いて欲しい。それは永遠に無理だってこと。わたしから、離れなければならないってこと。まあ今回の失敗で、英も薄々は悟ってると思うけどね。これで、前を向いてくれるといいんだけどなあ……」


 泰子さんは、静かに目を瞑ってテーブルの上で手を組んだ。祈るように。それから目を開けて、寂しそうに言い足した。


「でもね、わたしからは幕を引かない。いや、幕を引けないの。英がわたしを呼び出す限り、わたしは鏡に行かなくちゃならないからね」


 そうして。ふわりと笑った。


 あまりにも壮絶な、悲しい寄り添い方。でもそれは、わたしたちがわたしたちの目で見るからそう見えるのかもしれない。愛情……って。なんなんだろう? それはわたしたちをどう変えるんだろう? ちっぽけな自分しか見てなかった、見えなかったわたしたちに、その意味や重さを考えられる日が来るんだろうか?


 佑実が、じっと泰子さんを見つめていた。それから、すごいことを聞いた。


「泰子さんは……三十年の間、ご主人をずっと愛してらしたんですか?」


 泰子さんは困ったように笑った。


「ふふっ。それは意地の悪い質問だなー」


 クッキーを口に放り込んだ泰子さんが、それを勢いよく噛み砕く。ぼりぼりぼりっ。


「男女の間の愛情ってことで言えば、わたしは英には最初からそういうのを持ってなかったかもしれない。愛情と同情を区別するのは難しいね」


 うん……。


「でもわたしは英に、わたしの持っているものは全部あげるつもりだった。英も英の持ってるものを、わたしに惜しみなくくれたと思う。それは、今みたいな形でも、わたしがもし生きていて普通の結婚生活を送っていても、変わんなかったんじゃないかな」


 それは……俗っぽい、好きだ愛してるの言葉に格納することが出来ない、もっともっと崇高なもの。わたしにはそんな風に思えた。そして、わたしの感じたままを、泰子さんが言葉にしてくれた。


「わたしたちは交流した。心で語り合ってきた。そして、それをなんと呼ぶのかは……わたしには分かんない」


 ごくん。クッキーを飲み込んだ泰子さんが、わたしたちに聞いた。


「明日帰るの?」

「あ、はい。朝の列車で」

「そう。また旗山に遊びにおいで。わたしや英がいるかどうかは分かんないけどさ」


 引き込まれたように、三人揃って頷いていた。


「せせこましいところで心がささくれ立っちゃった時に、山の清々しい空気を吸うのはいいことだよ」


 泰子さんが、何かを抱きしめようとしるみたいにゆっくりと両腕を広げた。


「周りを広く見渡して。自分が生きてるってことを感じて、自分を見つめて。山で必死に生きてる動物や草花に、元気をもらって。深呼吸して、自分のごみ箱を空にしてまた明日を生きる」


 広げられた腕が、すうっと胸の前で合わさる。


 泰子さんは、にまっと笑ってケイを指差した。


「南森さん、二度と山をつまんないなんて言わないでね」

「う……は、はあい」

「山がつまんなく見える時は、あなたの心の目が全部塞がってる時。それを怖いと思わないとだめだよ」

「はい」

「つまんないものなんかどこにもないの。自分を満たそうと思うなら、感じたことの意味を考えなさいね。分かった?」


 念を押されたケイが、神妙な面持ちで頷いた。


「国本さん」

「あ、はい」

「自分から余計なものを背負っちゃだめだよ」


 うん。もうしない。いや、もうしません。


「背負ってる自分自身が一番重いの。そしてそれは、最後まで持ってないとならない。だから、それ以外はおまけ。自分が潰れたら、なんにもならないからね」

「はい!」


 心しよう。


「寺前さん」

「はい……」

「考えすぎないようにね。心の窓はいつも開いて、風を通して。自分がそのままに見えていれば、人からもあなたが見通せる。優しいあなたをちゃんと理解してもらえるはずよ」


 佑実が、俯いて涙をこぼした。


「あ、ありがとう……ございます」


 泰子さんはゆっくり立ち上がった。


「さ。お開きにしましょ。クッキーありがと。英は甘いものを食べないから、久しぶりだったの。おいしかったわー」


 その優しい笑顔を心の奥深くにしっかり焼き付けて、わたしたちは、成島さんの部屋を出た。


「おやすみなさい」


 わたしには……その言葉が本当のお休みになる予感が……した。


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