第七話 鼎談(ていだん)
顔に付いた泥が乾いてきて、肌がぴりっと引きつった。それで、はっと我に返る。成島さんのあの言葉のあと、わたしたちは何も言えなくなっていた。黙っているしか……なくなったんだ。
亡くなった人を生き返らせようとするほどの強い想い。わたしたちが自分を見ることだけで精一杯になっているのと対照的に、どこまでも深く深く人を恋うこと。それは感動的であると同時に、底なしに恐ろしくもあった。だからこそ成島さんも、それを説明出来ないと言ったんだろう。
申し訳ないけど……怖さ、重さ、息苦しさ……全部ごっちゃになってのしかかってきて。もう限界だった。
「あの、これで失礼します」
わたしがそう言ってそそくさと立ち上がったら、同じように尻がむずむずしていたらしい佑実とケイも、弾かれたようにベンチから飛び降りた。成島さんは、そんなわたしたちの様子を見ることなく、まるで録音してあるガイド音声を流すみたいにして、ぼそりと言った。
「ああ、桜はまだだけど、他の花はいろいろ咲いているからね。楽しんでいってください」
成島さん、それは無理。
わたしたちは、貴重な経験をさせてくれた成島さんにお礼を言って公園を離れ、無言のままホテルに逃げ帰った。
◇ ◇ ◇
田舎のホテル。宿泊費を安く抑えるために、わたしたちは和室を借りていた。古ぼけた部屋の少し毛羽立った畳の上で。わたしたちはしばらくの間、放心していた。
わたしがもらったチャンス。それは、実は二つあったんだろう。一つは、自分自身を見直す、やり直すチャンス。ケイも佑実も黙ってるけど、たぶんそれは同じだったんじゃないかな。
もう一つは、この世に留まるチャンス。もしわたしがどこまでも後ろ向きだったとしたら。
わたしは、成島さんとその奥様のことをもっと深く知りたくなった。興味本位かもしれない。でも、やっとスタート地点に立ったばかりのわたしには、まだ見なければならないものが残ってる。そんな直感が自分の中で燻っていた。
「ふう……」
わたしの溜息の後につなぐようにして、佑実が小声で何か話しだした。
「ねえ、菊香」
「なに?」
「わたしね、菊香とケイに言わないとならないことがある。楽しい話じゃない。でも今言わないと、もう二度と言えない気がする。そして、それを抱えたままじゃ、わたし……生きていけない」
「うん。聞くよ。ケイは?」
「聞きます。あたしも、先輩たちに言わないとなんないことがあるから」
「そっか。考えてることはみんな同じだね」
わたしは、きちんと正座した。
「おじさんがくれたチャンス。わたしたちにとっては、自分の命が掛かったとっても重いものだった。だから、そのチャンスはきちんと生かそう」
佑実とケイが頷いた。
わたしと同じように正座した佑実が、自分の手のひらを開いて、それをじっと見ている。そうして、それをきゅっと握って……話を切り出した。
「わたしね。今回の旅行で……するつもりだったことがあったの」
え?
「最初に菊香から電話をもらった時に、すぐに計画を立てた。あとは……タイミングだけだったの」
佑実の顔が歪んだ。ぼろぼろと涙を流して、背中を丸めて。
「ちょ! ど、どしたの?」
「わたしね……」
さっと顔を上げた佑実が絞り出すように。恐ろしいことを……口にした。
「菊香とケイを……殺……すつもり……だったの」
ぐっ。息が詰まった。全身の血の気が引く。手が……震える。佑実は畳に体を投げ出して、突っ伏したまま叫んだ。
「アツシをわたしから取り上げてっ! わたしをバカにしてっ! わたしが何も知らないと思って、影でこそこそとーっ! 絶対にっ! 絶対に許せないーっ!」
だん! だん! だん!
畳に両拳を叩き付けながら、わあわあと佑実が泣きじゃくった。
わたしが初めて見た、佑実の激情。わたしたちの命が狙われるほどの激情。確かにものすごくショックだった。佑実が、殺したいと思い詰めるほどわたしやケイに憎悪の感情を抱いていたことが。でももっとショックなのは、それに気付けなかったわたし自身の鈍さ、傲慢さ、汚らしさ。
佑実の気持ちなんか、これっぽっちも考えなかった。ケイの気持ちなんか、これっぽっちも考えなかった。わたしは、自分の足下しか見てなかった。仮面を剥いだら、ものすごい腐臭がする。それが……わたしだった。
わたしは、ためらいながら佑実の背中にそっと手を当ててさすった。ごめんね。こんな汚らしいわたしの手で。
ごめんね。
ケイは……告白の衝撃で顔を引きつらせていた。でも、その表情はどんどん悲しげになり。いきなり泣き出した。
「佑実先輩ぃ、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさーい。ひーっく。うわう」
二人が突っ伏してわんわん泣く中。わたしもぽたぽた涙をこぼしていた。佑実に、こんな悲しい告白をさせなければならないなんて。どうして、わたしはこんなにバカなんだろう? もっと楽しいことで。わくわくすることで。心をやり取りすれば良かったのに。
「佑実。ごめんね。わたしがちゃんと佑実のこと知ろうとしてたら……こ、こんなこと……ならな……かったよね。ごめん。ごめんよー。わあん。わああん。うわあああん」
恥も外聞もなかった。こんなに声を上げて人前で泣いたのは、生まれて初めてだっ
たかも知れない。どんなに涙を流しても、わたしやケイのしたことが許されるわけじゃないけど。でも、わたしはそれ以外の方法を知らなかった。知らなかったんだ……。
畳をびしょびしょに濡らして、しゃくりあげながら。わたしたちはしばらく泣き続けた。
佑実が顔を上げる。目が腫れて。化粧が流れて。鼻水が出て。ひどい顔。でも、佑実もわたしを見て笑ったから同じ顔してるんだろう。
「せ、先輩たち。すごい顔ですよぅ」
まだひっくひっく言ってるケイが、そう言ってぎごちなく笑った。
「顔……洗って来ようか」
「そうね」
「はい」
◇ ◇ ◇
顔を洗って、ついでに浴衣に着替えた。もう一度きちんと正座した佑実が、さっきの続きを話し始めた。
「わたしね。菊香が眩しかったの。でも、わたしは菊香にはなれない。だから、菊香の代わりが欲しかった。それが……アツシだったの」
……。同じ……か。
「菊香はなんでも持ってる。わたしにないものを何でも持ってる。それなのに、なんでアツシまで持ってくの?」
さっきまでは固く握りしめていた拳。佑実は、今度はそれをそっと開いていった。
「でもね……分かっちゃった。わたしね、今まで菊香に対して心を開いたことがなかった。わたしのことを知ってもらおうって努力を……何もしなかった。臆病で。嫌われるのがイヤで。こんなにいつも……側にいたのに」
ふう。俯いて、佑実が大きな溜息をついた。
「だから、わたしのは逆恨み。わたしがアツシに逃げ込まずに堂々と付き合っていれば、こんなことにはならなかったんだもん。わたしは……アツシを菊香の身代わりにしちゃった。それがね。あそこで分かっちゃったの」
「先輩……どうする……んですか?」
ケイが、顔を伏せたままでおずおずと聞いた。
「別れるわ。恋心のない相手とよりを戻すのは無理でしょ?」
「えっ!?」
ぎょっとしたように、ケイが目を見開いた。
「だ、だって」
「だってもあさってもないわよ。ケイにも菊香にもほいほい付いてくような、尻軽で軽薄な男は大嫌い」
もちろん、わたしもびっくりしていた。だってわたしは、佑実のそんな言い方を一度も聞いたことなかったから。いつも慎重に言葉を選んで、わたしたちの反応を見ながらそっと並べる佑実。でも、今のはそうじゃない。
ああ、そうか……。佑実は、自分の感情を素直に出そうと決心したんだろう。わたしがいつも感じていた、佑実の遠慮のポーズ。たぶん、自信のなさや心を明かすことへの怖れがそうさせていたんだと思う。それをもう吹っ切ろうとしてる。
「えと……」
「なに?」
ケイがまた、少し上目遣いで佑実を見ながら聞いた。
「佑実先輩は、もうあたしたちの命を狙うなんてことは……」
わはは。いや、笑えない話のはずなんだけど、笑っちゃう。佑実はちょっと悪戯っぽく笑って、ケイの額を小突いた。
「それは……ケイの行い次第ね」
「ええー? そんなあ!」
「あはは」
わたしも佑実も笑ったけど、ケイには笑えないだろなあ。でも申し訳ないけど、ケイにはそのくらいじゃないと重石にならないから。
佑実は、今度はわたしの方を向いた。
「菊香はどうすんの?」
「どうするって?」
「アツシのこと」
「うーん……」
わたしは腕組みして、今後のことを考える。いや、考える以前に、もう結論は出ている。もう、いいよね。仮面は外せたんだ。二度と被りたくない。
「アツシがどうのこうのと言う前に」
「は?」
「わたしは会社を辞めると思う」
げげっ! 予想外のわたしの返事に、佑実とケイが派手にのけぞった。
「ちょ、ちょっと! どう言うこと!?」
「先輩、まじっすか!?」
「ははは、まじもまじも大真面目さ。佑実はあの会社が好きで入ったんでしょ?」
「うん」
「わたしは、好人物と優等生の仮面を被り続けてた。本当はね。わたしには、佑実やケイがわたしに向ける憧れとか依存とが重っ苦しくてしょうがなかったんだ」
「う……」
「そしてね。大学にいる間、被ってしまった仮面のせいで友達がいなくなったんだ」
「えええっ!?」
佑実が口をぱっくり開けて驚いてる。そうなの。わたしも、佑実のことなんか言えなかったんだよ。寂しい自嘲の笑いが、口の端からこぼれた。
「ふ……」
「し、信じられない」
「だって、本心を見せない相手に自分の本心なんか明かさないだろ? 実務こなす能力を隠しちゃったら、わたしゃ単なる人形だよ。いつもへらへら笑ってる変なやつ。気味悪いだけ。みんな、わたしを敬遠して離れてく。寂しくてね……」
佑実もケイもひっそり俯いた。そういう寂しさを、わたしと同じように持ってたんだろな。
「だから。わたしは人恋しくておっきな会社に入ったんだよ。そこでばりばりやれば、また人は集まってくるだろうと思って。高校の時みたいにね」
「そっかあ……」
ケイが、なんかすごく納得してるのがおかしい。
「でもね、そりゃあ下の下の下だったね。確かに人はいっぱい周りに来たけど、みんなわたしの腕しか見ないんだもん。わたしの心の中を見てくれるわけじゃない。寂しさばっかり増えて。責任ばっかり増えて。わたしは何もかも放り出して逃げたくなったんだ。その先がアツシだった」
「あ!」
佑実が口に手を当てて驚いてる。そう。佑実と同じだったんだよ。
「でもね。わたしは今日、祠んとこで仮面を外せた。気楽にやりたい。何も自分に課さずに伸び伸びと。誰にもいいかっこせずに。言いたいことを言って、やりたいことをやって。そうやって生きたい。だから会社は辞めると思う。今の会社は、わたしには重すぎるもの」
ケイが、わたしと佑実の顔をかわりばんこに見ていた。それから、ほっと溜息をついて呟いた。
「あたしね。本当は、わがまま言ったことがないんです」
へ? 佑実と顔を見合わせる。
「わがままって言うのは、ちゃんと自分があって初めて言えること。でも、あたしにはそれが何もなかった。自分の中身が空っぽで……。だから、不安で不安でしょうがなかったの。わがままじゃなくて、単なるヒステリー」
ケイの声がどんどん小さくなる。
「かっこいい菊香先輩の側にいれば、先輩があたしの足んないところを埋めてくれるかもしれない。だから、あたしはどんな手を使ってでも先輩の近くにいたかった。でも、先輩はあたしじゃない。そんなん、絶対に埋まるはずなんかない。ちゃんと自分でやらなきゃならなかったのに。ただふて腐れるだけで。いらいらして。とんでもないことして。佑実先輩、菊香先輩、ごめんなさい……」
ケイがまた泣き出しそうになったから、肩を叩く。
「まあ、いいじゃん。終わったことさ」
ふう……。
「ねえ、ケイ」
佑実が少し首を傾げて、ケイに話し掛けた。
「はい……」
「あんた、もうちょっと自信持ちなさいよ」
高校の時と同じように。佑実はケイに話し掛ける。でも、あの時とは違う。わたしらは自分を見せたんだ。ちゃんと腹の底から自分を見せたんだ。だからこそ言えることがある。
「ケイは、ちゃんと仕事をしてる。会社の中で自分の居場所を作るのは大変かもしれないけど。でも、仕事してる。それでいいじゃない。だから自信持って」
「……はい」
「それがね。本当にわがまま言える第一歩だよ。きっと」
佑実の言葉は優しい。自分の中の汚いどろどろしたものをちゃんと自力で片付け
て、その上で人に目を向ける余裕がある。うらやましい。
「いいなあ……」
「え?」
佑実がわたしの方に振り返った。
「佑実はさ。わたしを眩しいって言ったじゃない」
「うん」
「わたしには、佑実が眩しかったんだよ」
「……」
「どんなことがあっても、ちゃんと人に気を配れる。わたしが踏んづけていってしまうものを、佑実はちゃんと囲って、守ってあげてる。そういう優しさが、わたしにはなかったの。いつでも自分のことだけで精一杯だった。だから、いつもうらやましかった」
「そ……か」
ケイがわたしたちを見比べた。
「あたしはこんなに恵まれてたんですね。もったいなかったなー」
「ちょいと」
釘を刺そう。
「ケイ、過去形にしないでよ。お互いにさ、持ってるもん、持ってないもんあるじゃん」
「うん」
「そいつをさ。お互いに生かせばいいと思うよ。楽しく」
「……そうだよね」
「だからさ」
「うん」
「先輩つけて言うのは、もう止めようよ。友達なら呼び捨てでいいじゃん」
「う。時間かかりそう……」
「はっはー、がんばってちょ」
「ちぇー」
「ふふふ」
◇ ◇ ◇
「うわあ!」
「すっごーいっ!」
「くわーっ!」
田舎の安宿だから期待してなかったのに、夕食はとっても豪華だった。ごちそうを目の前にしてテンションが跳ね上がる。せっかく旅行に来たんだもん。いっぱいいっぱい楽しまなきゃね。きゃあきゃあ言いながら、お腹いっぱい食べて、たくさんおしゃべりして。さっき部屋で湿っぽく泣いてたことなんか、ずっと昔のことに思えるくらい。わたしたちは、心の重荷を下ろした解放感に浸ってた。でも夕食を終えて部屋に戻ったわたしは、成島さんのことがどこまでも気になってきた。
わたしたちは明日の朝ここを発つ。話を聞かせてもらえるチャンスは今晩しかない。どうしてもそのチャンスを逃したくない。温泉に行かずに、また服に着替えたわたしを佑実が訝った。
「ちょっと菊香、どこ行くの?」
「成島さんに会ってくる。わたし、まだ聞きたいことがあるんだ」
「あ、やっぱりか……」
「気になりますよね」
「そうなんだ」
佑実もケイも同じ思いだったらしい。ホテルのフロントを通して、成島さんの家の住所と電話番号を調べた。
部屋の電話を使って成島さんのところにかける。成島さんはすぐに電話に出た。聞きたいことがあるので、これから伺ってよろしいでしょうか。そう持ちかけた。夜分家に押し掛けるのはどうかなと思ったけど、成島さんは特に嫌がる風でもなかった。
「いいですよ。まあ、なにもお構いできませんが、どうぞいらしてください」
ごく普通の受け答え。でも。わたしは、それに言いようのない気味悪さを感じていた。どこかおかしい。その違和感の理由は、成島さんに会えば分かる。きっと……ね。
わたしは考えたくないことを追い出そうとするみたいに頭をぶんぶん振って、街灯の下で佑実たちが来るのを待った。
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