第六話 鏡

 ストレートヘアの子が戻ってきたあと。三人はしばらく無言で、ぼんやりとベンチに座っていた。

 結果は出たんだ。私はそれを事実として受け止めなければならない。これで幕を下ろそう。


「一応ルールだからね。ご神体が何か確認しましょうか」


 三人は、それをどうしても口にしたくない風情だった。互いに顔を見合わせて、もごもご言っている。


「泰子に口止めされたんでしょう? 祠で起きたことをしゃべるなって」


 彼女たちが揃って青ざめる。


「あの鏡にいるのは私の女房です。泰子。成島泰子。私は成島なるしますぐる。そしてあの鏡は、彼我ひがの鏡と言います」

「彼我の鏡、ですか?」


 ストレートヘアの子が問い返した。


「そう。彼と我で、ひが。今流に言やあ、自他の鏡ってところですね」


 眼鏡の子が、伏し目がちにおずおずと、それでも核心を突く。


「なぜ……奥様が?」


 私はその質問を無視して、補足説明をした。


「あの鏡はね。その名の通り自分の中と外を写します。中が我、外は彼。君らは、自分の心の中に閉じ込められてきたってことですね。短い時間だったけどね」


 三人は、それぞれに鏡の中にいた時のことを思い出しているようだ。ストレートヘアの子が、柔らかい笑顔を浮かべてすっと立ち上がった。


「うん。成島さん。わたしね、怖いよりも何よりもすっきりしました。桜は見られなかったけど、自分の中の桜は咲いたかもしれない。満開に」

「そらあ、良かった」

「わたしは国本菊香と言います」

「国本さんか」

「はい。奥様には励ましていただきました」

「あいつは人がいいからね」

「ええー?」


 不満そうな声を出したのは、小柄な子だ。


「泰子さん、すっごく怖かったよう」

「君は?」

「あ、あたし南森みなもりケイって言います。さっきは失礼なこと言ってごめんなさい」


 おやおや。ずいぶんと泰子のお灸が効いたもんだ。すっかりしおらしくなっている。眼鏡の子はしばらく黙って空を見回していたが、ゆっくり立ち上がって笑顔を見せた。


「わたしは寺前佑実です。奥様には……助けていただきました。もっとしっかり御礼を言いたかったです」


 助けて、か。もしかしたら、この子が一番危うかったのかもな。


「ちょっとした退屈しのぎにはなったでしょう?」

「あのう……」


 寺前さんが、さっきと同じことを聞こうとしてるんだろう。


「女房のことかい?」

「はい」


 ゆっくり三人を見回す。彼女たちの視線が私に注がれる。それは好奇の視線ではない。三人が鏡で会ってきた人物。その正体と意図を、真剣に汲もうとするがゆえの問いかけだろう。


「いいでしょう。じゃあ、肝試しの余興にもう一つ話をしましょうか」


 私は、ベンチの横にあぐらをかいた。


「今日は天気が良くて明るい。怪談をしたところで怖くはならないでしょうから。ああ、座って聞いてください」


 怖くない? 本当にそうだろうかと、疑いと怯えのまじった視線を時折り投げかけながら。それでも神妙な面持ちで、彼女たちがベンチに腰を下ろした。さて……。


「女房のことを話す前に。もう少し鏡の話をしときます」


 彼女たちが、わずかに頷く。


「あの鏡。彼我の鏡は、とても変わった用途のために作られた鏡です。普通の姿見ではないんですよ」

「どういう……ことですか?」


 寺前さんが首を傾げた。


「普通、神社の神器としての鏡は、邪を遠ざけ、魔を封じ、鬼を見破り、真実のみを写す神聖なもの。そして、今私たちが使っている鏡は、服装や化粧の状態を確かめ、整えるために、自分を写すもの。そうですよね?」


「ええ、そうですね」

「しかし彼我の鏡は、反魂に使われる道具です」

「はんごんー!?」

「ケイ、知ってるの?」


 国本さんが驚いたように聞き返すと、南森さんがぶんぶん首を振った。


「いや、聞いたことない言葉だったからー」


 ずるっ。国本さんと寺前さんがベンチから滑り落ちた。うん、なかなか素敵なぼけだと思う。座布団の代わりに薄笑いを一つ置いて、話を続ける。


「反魂というのはね、死者を蘇らせることです」


 私がそれを口にした途端、三人の顔色がぐんと悪くなった。


「あ、あのっ!」


 国本さんが、慌てて聞き返す。


「ま、まさか奥様を……」

「そうですよ。そのまさかです。私はね、ずーっとその機会を待っているんです」


 私は、ゆっくり彼女たちの方に向き直る。彼女たちは慌てて俯き、私を遮断しようとするように顔を背けた。


「彼我の鏡。その彼と我には、もう一つ意味が重なっています」


 国本さんが、そっぽを向いたままぽつりと確かめた。


「この世とあの世、ですか」

「そう。彼岸と此岸しがん

「う……」

「あの鏡は、黄泉よみとこの世を隔てる境界に開いている窓です。向こうからこちらの世界が見え、こちらからは窓辺に立つ人が見える」

「それが……奥様ですか」

「そうです。でも、それは見えるだけだ」


 何もない薄い青空を見上げて、すうっと指差す。彼女たちの視線はその指を追わない。


「泰子がこちらに来るためには、依り代が要るんですよ。泰子は魂魄こんぱくだけで肉体を持たないから。わずかな時間だったけど、あなたたちと泰子は入れ替わっている。それを固定出来れば反魂は成功です」


 南森さんが、がたがた震え出した。


「あ、あ、あたしたちを……騙そうとしたんですか?」


 私は、その非難を一笑に付す。


「はっはっは。人聞きの悪い。私はそれをあなたたちに無理強いしてませんよ。あなたたちが、自分なんか要らないと自我を放り出してくれれば。もったいないから身を受け取ろうと思っただけです。泰子もそう言っていたでしょう?」


 しばらく重苦しい沈黙が続いた。言葉の絶えた空間を、かすかに小鳥の鳴き声が支える。沈黙に耐えかねたように、国本さんが顔を上げて私を見た。


「成島さん。どうして奥様を生き返らせようとなさるんですか?」


 ……。


「さあね。それを説明するのは本当に難しいです。自分自身にもうまく説明できない。ただね……」


 うららかな春の日差し。さわっと通った春風に乗って、私の一言が流れ去っていった。


「三十年前に殺された泰子を、どうにかして取り返したい。そうとしか言いようがありません」


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