第四話 寺前佑実
ううう、やっぱり止めれば良かったかなあ。気の強いケイが泣きじゃくるくらい怖いところに、怖がりのわたしが行けるわけなんかない。でも、わたしは。どうしてか分からないけど、わたしはそこに行かなくちゃならない気がしたんだ。ううう。でも、へっぴり腰になっちゃうよー。
ええと。祠はこれね。ふう。扉を開く前に、ちょっと心の準備を。深呼吸しながら、ゆっくり祠の周りを見回す。祠のあるところは木漏れ日が当たってて、真っ暗にはなってない。厳かだけど、そんなにおどろおどろしい感じはしない。さっきのおじさんの話が、脳裏によみがえる。
山の神は女性。本来山は女人禁制で、女性は不浄のもの。だから入山に当たっては、充分神様に敬意を払うこと。うん。もっともだ。おじさんの話があっても、なくても。山は不思議なエネルギーで満たされている感じがする。不浄なものを持ち込んじゃいけないっていうか。わたしは……わたしは大丈夫なのかなあ。
祠に向かって目を瞑り、手を合わせて祈る。どうか、わたしが神様に失礼なことをしませんように。それから、ゆっくりと扉を開けて中を覗き込んだ。
あ、鏡だ。神鏡ね。勾玉、剣、鏡が三種の神器だったっけ。そうかあ。いかにもそれっぽい……。あ、え? ちょ、ちょっと。なに、これ? なんで、わたしが今来た道の方を見てるの? どういうことっ!? えと。今鏡覗き込んでるのって、わたしよね。でも、わたしはここにいて……。あんた、誰っ!?
ちょっと! ちょっとーっ! 出してっ! 出してよーーーっ!
「あんたも、大した食わせもんねー」
ちょっと、あんた誰なの? 何言ってるのよーっ! 出してっ! ここから出してよーっ!
「だめよ。ずっとそこにいなさい」
ひ、ひどいっ! どういうことなのっ!? おじさん、こんなの聞いてないよっ! 出してーーーーーっ!
◇ ◇ ◇
どうして? どうして、こんなにもつれてしまったんだろう? わたしがおかしいの? わたしが変なの? そんなことは……ないと思う。
そりゃあ、小さい時から引っ込み思案で、自己主張は控えめだったかもしれない。やんちゃでやり手のお姉ちゃんの後ろを、闇雲にくっついて回って。でも、それじゃあおこぼれしか来ないってことにも、早くから気が付いた。だから、わたしはわたしなりのやり方で、手探りで自分の空間を確保して来た。臆病で恐がりのわたしなりに。
友達と上手にコミュニケートするために、わたしは聞き役に徹した。だいたいの子は、溜まっていた悩みやストレスを吐き出せばすっきりする。解決策までは欲しがっていないんだ。みんな、それは持っててきっかけが欲しいだけ。道を塞いでいた障壁がなくなれば、自力で走り出すんだもの。わたしが何か提示するのは、最後の最後の手段。自分をさらけ出さなきゃならない、わたしにとっての非常事態を覚悟しなければならないから。
そう。わたしはずーっとそうやってきた。それで何も不都合はなかったはず。なのに、なぜか最後は疎まれてしまう。友達が離れていく。軽蔑の言葉を吐き散らかしながら。
「佑実ってさ。ずるいよね」
どこが? どこがずるいの? わたしはえらぶるつもりなんかない。優越感に浸るつもりもない。もったいぶってるわけでもない。わたしは、わたしに出来ることをするしかないんだもん。そのちっぽけなことをしてるだけだよ? なのに、なんでそんなひどいことを言うの? ねえ?
◇ ◇ ◇
わたしが高校で菊香に出会ったのは、運命だったかもしれない。菊香は、わたしにないものを全部持っていた。積極性、知性、包容力、明るさ。わたしが自分の中にしまいこんでなかなか出せなかったものを、惜しげも無く全てさらけ出して。与えることを厭わない太陽のように。でも、わたしは菊香のようになろうとは思わなかった。お姉ちゃんの時の二の舞だけは絶対にいや。眩しい太陽の下なら、必ず日陰を探す人がいるだろう。わたしは月の役をこなすことにした。
性格に角がない、おおらかな菊香。でも、陰影の乏しい分かりやすい輪郭は、人によってはすんなり飲み込めない。熱いお茶は冷まさないと飲めないってことを、菊香は時々忘れるから。
菊香が部長で、わたしが副部長。いろんな子が様々な人間模様を作る。それを菊香が大まかにさばき、わたしが細部をフォローする。まるで長く付き添っていた夫婦のように、わたしたちは抜群のコンビネーションを誇っていたと思う。
ケイが来た時だってそう。二言めにはウザい、タルいを連発する超わがままな問題児。だったらさっさと止めればいいのにと言いたくなるのを、ぐっとこらえて。辛抱強く、ケイの深いところから出てくるはずのコンプレクスの吐露を待った。
菊香が話しやすい雰囲気を作り、わたしが聞き出した。フォローもわたしがした。わがままの根底にあるもの。ぐちゃぐちゃした汚い気持ち。人のせいにしないで、自分でそれを整理しないとだめだよって諭した。わたしにしては珍しい越権行為だった。ケイは、わたしの言うことを素直に聞き入れた。徐々にではあったけど、その角を丸めていった。
ただ……わたしは割り切れない思いをずっと抱えていた。ケイのサポートをしたのはわたしだ。菊香じゃなくて、わたしだ。でも、ケイはずっと菊香を見ていた。憧れて。信頼して。太陽を追い続けるひまわりのように。その足元にいたわたしは歯牙にさえ掛けてもらえなかった……。
◇ ◇ ◇
わたしと菊香との蜜月関係は、高校までだった。仲が良かったわたしたちは、卒業後も連絡を取り合ってつるもうとした。一緒にバイトしたり、旅行に行ったり。でも、高校の部活っていう容れ物から放たれたわたしたちには、コンビを組む意味がもうなかった。嫌でも対面になって、お互いの深いところに目を向けざるをえなくなっちゃった。
わたしには、高校の時には気付かなかった菊香の別の面が見えるようになってきた。積極性や推進力は、力任せ。明るさは、無神経。包容力は、無関心。そう。みんな表裏なんだ。でもわたしだって、菊香のことを偉そうに言えるわけなんかない。いつも腰が引けて、逃げ回ってばかりいるのは変わらないんだもの。
だからわたしは、菊香から距離を置くことにした。何かと頼りにしていた菊香から離れて自分をしっかり作り直さないと、わたしは進歩しない。菊香は、神様でも理想像でもない。そう思ったから。
幸か不幸か菊香とわたしは違う大学だったから、学年が上がって忙しくなってからは自然と疎遠になった。菊香が近くにいないことで、わたしの人間関係はうんと狭くなったけど、それも仕方ないこととして受け入れた。そのままずっと離れていれば。わたしはそれなりに暮らしていけたんだろう。それなりに……。
◇ ◇ ◇
わたしの歯車が狂い出したのは、就職が決まってから。わたしは菊香のことを忘れていた。もう菊香は過去の人だった。時々メールで生存確認するくらいで、会うこともなく。だから入社式で菊香の姿を見つけた時は、心臓が止まるかと思った。向こうもびっくりしたことだろう。
幸い勤務する課は違っていたから、わたしたちが直接比べられることはなかった。でも、めきめきと頭角を現してリーダーシップを発揮する菊香を、多くの社員が賞賛した。その他大勢のわたしは、埋もれたままなのに。
いや。わたしにはそれが似合ってる。月が太陽の真似をしても破滅するだけだ。わたしは羨望の気持ちを押し隠しながら、無理に目を外に向けようとした。その視線の先にアツシがいた。アツシは菊香に良く似ていた。おおらかで、積極的で、明るい。
わたしは菊香への嫉妬と羨望の気持ちを、アツシへの想いに昇華させてアプローチした。まるで高校の時の名コンビ復活っていうみたいに、わたしとアツシは恋人同士になった。わたしの中に、ちくりとした痛みを伴いながら。
◇ ◇ ◇
そのまま。そのまま時が流れてくれればいいと、どれほど望んだことだろう。でも運命の神様は、わたしをおもちゃにすることを決めたらしい。わたしは、ある日アツシの態度が急によそよそしくなってきたことに気付いたんだ。
浮気? ううん、そんな単純なもんじゃない。誰かが、わたしからアツシを取り上げようとたくらんでいる。わたしがアツシに注ぎ込んだ想いを全て踏みにじって、否定して、それを嘲笑おうとしている。わたしの血は憤怒で沸騰した。アツシに対してではなく、アツシをおもちゃにしようとしている相手に対して、どす黒い怨嗟がぐつぐつ煮えたぎった。
わたしは、慎重にアツシの行動を追尾した。相手が誰かを突き止めるために。そして……愕然とした。なんてこと! なんてことなの!
相手はケイだった。しかも、ケイにはアツシへの好意なんかこれっぽっちもない
ようだった。単なるセフレ。単なる暇潰し。しかもあろうことか、菊香がアツシにアプローチを始めていた。菊香がわたしの彼氏のことを知らないはずはない。後ろめたさがあるから、こっそりのアプローチなんだろう。
幻滅。絶望。わたしの心は凍って、砕けた。ケイも菊香も、わたしは何も知らないと思ってるのかしら。何も気付いてないと思ってるのかしら。昔のままで。ただ大人しく、ふんふんと話を聞くだけの頷き人形だと思ってるのかしら。
冗談じゃないっ! わたしの怒りは、どこまでもどす黒く膨れ上がった。アツシを取られたからじゃなく、わたしが、ケイにも菊香にもそういう女だと思われていることが……どうしても許せなかった。
わたしの中の怨嗟のマグマが煮えくり返っている最中に、菊香からメールじゃなくて、電話が入った。花見に行かないかって。ケイも一緒に行くって。わたしはそれを聞いてほくそえんだ。チャンスが来たって。
見てなさい、あんたたち。わたしはどんなことをしても、あんたたちを地獄に突き落としてやるっ!
◇ ◇ ◇
ふう……計画は完璧だったのにね。
人気の少ない時期に、寂れた山の中を歩く。崖地の多いところだもの。身を乗り出すように下を覗き込ませて、そこを後ろから突き落とすチャンスなんかいくらでもある。わたしたちの姿はいっぱい見られてるから、わたしがやったってことはすぐにばれるだろう。それでも構わなかった。わたしは復讐さえ出来れば、あとはどうなってもよかった。それなのに。こんな肝試し、やっぱりするんじゃなかった。頭がすっかり冷えちゃった。
うん。分かってるんだ。アツシの心がわたしから離れたのは、菊香のせいじゃない。ケイのちょっかいも頭には来るけど、ケイのせいでもない。わたし自身が原因だもの。わたしがアツシに対して抱いていたのは恋心じゃない。アツシは菊香の身代わりだ。それにアツシが勘付いて、わたしから心が離れたんだろう。
わたしがずーっと見てきた菊香の姿。それが近くでも遠くでも、わたしはそこから離れることが出来なかった。菊香とわたしは違う。その違うということを、本心ではずーっと納得出来てなかった。いつもどこかに並べて、比べていた。自分がなれない姿が、菊香であって。自分はその影から出られない。そうやって。自分が、自分自身にかけていた呪詛。わたしはわたしって言いながら、結局お姉ちゃんの代わりが菊香だっただけ。こんな年になってもまだ。
「ふうん。そういうことかー」
突然前から声がして。驚いて顔を上げる。そこにはわたしの顔をした誰かさんがいた。ふふ。わたしは思わず笑ってしまう。
「邪魔して悪かったね」
いや、もういい。気持ちの整理がついたから。
「これからどうすんの?」
うん。もう一度考えるわ。答えが出るかどうか分かんないけど。
「会社、辞めんの?」
辞めないよ。わたしが好きで選んだ会社だもん。今の仕事も気に入ってるし。
「菊香いるよ?」
そうね。でもわたしがそこを離れても、今のままならわたしはずーっと第二、第三の菊香を探しちゃう。そんなん、一生引きずりたくないもん。
「そか」
うん。
わたしは、なんかおかしかった。自分が自分としゃべってるなんてね。でも、こんな風に真剣に自分と向き合ったことって、本当はなかったんじゃないかな。自分すらきちんと見なかったわたしには、空気を読めないケイのことをああだこうだ偉そうに言う資格なんかなかったかもしれない。
わたしはいろんなものを隠し過ぎてたね。菊香の幻を振り切るなら、わたしはもっと自分を剥き出しにしないとだめだ。傷付くことを怖れずに。黙っていても、今回みたいに傷付くんだ。ちゃんと言葉と態度にして、相手に見せる。それなら、自分も相手も納得できる。怖がりもほどほどにしないと……ね。
ふっと顔を上げたら、わたしは祠の前に立っていた。いつの間に?
「あ、あれえ?」
慌ててスマホで時間を確認する。
「五分も経ってない……」
古い銅の鏡を覗き込む。そこには、わたしが見た事のない女の人が微笑んでいた。いつものわたしなら、腰が抜けておしっこを漏らしていたかもしれない。でも、わたしは嬉しかった。どうしてか分からないけど、その人がわたしにチャンスをくれた気がして。やり直すチャンスをくれた気がして。
「ありがとうございます」
手を合わせ、目を瞑って拝む。
「まあ、がんばってちょうだい」
鏡の中の女性は、まるでずっと前からわたしと友達だったかのように、そう言ってにこりと笑った。
「あ、一つだけ忠告しとく。ここであったことを決して他言しないようにね。漏らしたら、命の保証はしない」
「ええ……」
ここであったこと。それは全て、わたしの心の中の出来事だ。人に話したところで、何の意味もない。
「ま、そういうこと。じゃね」
わたしがそっと祠の扉を閉めると、堰を切ったように涙が溢れ始めた。それは、わたしが怖かったからなのか。嬉しかったからなのか。分からない。わたしは祠に背を向けて、止まらない涙をそのままに歩き始めた。木立の暗闇が薄れて、明るい現実が戻ってくる。それでも涙が止まらない。どうしても止まらない……。
よろめきながらベンチに戻ったら、菊香がわたしを見て真っ青になってる。
「ちょ! ゆ、佑実まで。そ、そんなに怖いの?」
うん。いいよね。このくらいの意地悪はしても。
「すっごく怖かった……」
顔を逸らしてあらぬ方向を見てるおじさんが、なぜか笑いをこらえているように見えた。
「そう。怖いはずだよ。君は……見たんだから」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます