第20話 早乙女 謙也

「…今、謙也くんの声しなかった?」

「おい東条びびらすな!」

「もうあんたは目でも瞑ってなさいよ」


突然、右手が後ろに引かれた。


「早乙女くん!?」

「ひなちゃん!」


そのままどこかへ引き摺られていく。

前を歩いていたひなちゃん達は、闇に呑まれてしまった。


「…兄ちゃん」

「…謙也?」


ここは、裏方だろうか。若干明るく、小道具が散乱している。

私の右手を引いたのは、謙也だった。


「…俺、会えないって言ったじゃん」

「ねえ、謙也」

「俺のせいなんだよ!!」


声を荒らげて、私を突き放す。


「…俺が…あの時、ピアノの勉強したいなんて言ったから…」

「待って、謙也、どういう事!?」


謙也がピアノをしていて、発表会に出ているのは知っていた。小さい頃から習っていて、最近は難しい曲も弾けるようになったと嬉しそうに言っていたのを覚えている。


「…俺、何回かピアノのコンクール出てたんだ。そこで、優勝して…ドイツの人に『こっちでピアノをやる気はないか』って聞かれて…俺、うんって言ったんだ」


俯いて、言葉を紡ぐ。

コンクールで優勝してドイツ人にスカウトされたって…それ凄いことじゃない。


「俺、知らなかった。お母さん、体が弱いから外国とか行けないって…。一緒に、行くんだと思ってたから!」

「それが、どうして離婚なんて…」

「…俺、ドイツ人になるんだって。その方が、いろんな大会に出やすくなるみたいで…」


父さんは、謙也をドイツに連れて行く。謙也一人では行かせられないから。そして、父さんもドイツの国籍を取得する。


「もう、帰ってこられないかもしれない。父さんも、母さんには幸せになってほしいんだって」


…まさか。


「母さんに樹さんを紹介したのって…父さん…?」

「樹さん…っていう名前かは知らないけど、人を紹介したっては言ってたよ」


謙也に、ドイツでピアノをさせるために。母さんを一人にしないために。

父さんは、どんな思いでこの決断をしたんだろう。

父さんと母さんは仲良しだった。子供の私達が見てて恥ずかしいくらいには。

だから、本当にびっくりした。

突然父さんが謙也を連れて出て行って、その後すぐくらいに母さんが樹さんを連れてきて。

私は、何も知らなかった。

何も…知らされてなかった。


「…どうして…? 言ってくれればよかったじゃない!? 何で私だけ…!」

「俺だって、こんな事になるとは思わなかったんだよ!」


でも、と謙也が唇を噛む。


「俺の…せいなんだ」


大きな瞳から、一粒、二粒と涙が落ちる。


「あの時、俺は何のことだかわかんなかった。外国でピアノができるって、それだけしかわかんなかった。…だから最後まで反対した! 学校でも、先生に聞かれて訳わかんなくなって暴れたこともあった!…俺だって兄ちゃんといたかったよ! でも…母さんの事とか、これからの事聞いて…それでも俺は…」


涙は止まらない。

いつの間にか、私の頬も濡れていた。


「俺は、ピアノがやりたい…本気で、勉強したいって…」

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