第8話

 部屋に戻った幸太郎は、シャワーを浴び、寝る準備を整えていた。

「とりあえず明日は家具を買いに行って、明後日から職探ししないとなあ。さすがに貯金を食い潰す生活はヤバイよな」

 布団は無いので、今日はゲームを買いに行った際に近くの服屋で購入したコートを羽織って寝ることに。それでもまだまだ寒いが、昨夜と比べればこれでもマシだ。はやく人並みの生活を送りたいものだ、と思いながら電灯を消す。

 その時である。

 暗くなった途端、怪奇現象が起こった。霊魂。青白く淡い光の玉が部屋中に充満していたのだ。

「な、なんだこれ!」

 一つや二つならば「このアパートだからな」と納得しただろうが、この数はどう考えてもおかしい。いや、一つだけでも充分に異常なのだが、それにも増して現状は異常事態と考えて間違いないだろう。

「幸太郎! 幸太郎!」

 玄関のドアが激しく叩かれる。声から察するにタマだろう。幸太郎は急いでドアを開けた。案の定、タマがそこにいた。ただその表情は焦りと困惑に染まっている。

「おい、タマ。こんなことって今までにあったのか!」

「ない! こんなことは一度もなかった! でも、黄泉の国から洩れ出した死霊たちに違いない。今は辛うじて建物内の結界が残っているから一気に外に溢れるような事態にはなっていないが、それも時間の問題だ。いつかは弾ける!」

「原因はわからないのか! 例えば、誰かが札を外したためとか!」

「それはない」

「なんでだ」

「この建物内の結界は大きく二つある。一つは黄泉の国に続く穴を塞いでいる結界。もう一つは仮に先の結界をすり抜けたとしても、建物の外には出られないようにする結界だ。冬香の部屋の札や注連縄が前者の結界で、私の部屋や幸太郎の部屋に貼られた札は後者のためのものだ」

「じゃあ、答えはもう一つじゃねえか」

「いや、だからそれはない。前者の結界は、冬香の部屋にあるのだぞ。もしもそれが剥がされたとすれば、実行犯は冬香ということになる。あの冬香が、どうしてそんなことをすると言うのだ」

「それは……」

 おそらく誰よりも祖母の意志を継ぎたいと考えているのは、冬香だ。そんな彼女が、祖母の意志を踏みにじるようなマネをするはずがない。

 たしかに幸太郎もそう思うし、そう思いたい。

 だが現状を見るに、もっとも可能性として考えられるのが、前者の結界が破られた線なのではないだろうか。

「タマ。とりあえず冬香の部屋に行くぞ! 原因究明はその後だ!」

「わかった!」

 しかし二人が冬香の部屋で見たのは、予測はしても信じたくなかった光景だった。

 クローゼットに貼られた札は剥がされ、注連縄は外されて床に放置されている。そして開かれたクローゼットの中には底なしの闇が広がっており、そこからおびただしい数の霊魂がゆらゆらと溢れ出していた。

 幸太郎は突然に吐き気をもよおし、片膝を屈する。何故かはわからない。だが、異様な寒気と重圧に体が悲鳴を上げていたのだ。

「霊障だな。耐性のない幸太郎ははやく退去した方が……」

「馬鹿を言うんじゃねえよ」

 幸太郎は脚に渇を入れて立ち上がり、前方を睨み据える。

 まるでクローゼットという生物の口から吐き出される霊魂の渦。そのすべてを正面で受け止めるように佇む一人の少女。友園冬香がそこにいる。

「こら、冬香! おまえ、なに考えてんだ!」

 怒鳴りつけると、冬香はゆっくりと振り返った。

 幸太郎は息を飲む。

 ただでさえ無表情の冬香の目が、まるで虚ろのようにくすんでいたのだ。そこから感受できるのは、絶望という感情。

 いったいなにがあったのか。

 困惑する幸太郎に、冬香は弱々しい声で言った。

「幸太郎……。おばあちゃん、死んじゃったって」

「……え?」

「私、死に際に立ち会えなかった。まだ酷いことを言ったあのときのことをちゃんと謝れてないのに、おばあちゃん、死んじゃったって」

「そんな……」

 こういうとき、なんと言ってやればいいのだろうか。

 幸太郎は頭で考えてみるが、明確な答えを導き出すことが出来なかった。

「ねえ、幸太郎。イザナギは死んだイザナミを追って黄泉の国に行ったでしょ。イザナギはイザナミの変わり果てた姿を見て逃げ帰ったけど、でもあれって、つまりはイザナミと再会することは出来たってことよね。じゃあ……」

 冬香はクローゼットの底なしの闇を手の平で指し示す。

「じゃあこの先に行けば、私はおばあちゃんと再会できるってことよね」

「……なに言ってんだ、おまえ。黄泉の国には、俺を襲ったような奴らがうじゃうじゃいるんだろ? なら、自殺と同じじゃねえか」

「わかってるわよ、そんなこと」

「だったらやめろ。さっき、おまえが公園でなんて言ってたか思い出せよ。ばあちゃんに胸を張って役目をこなしたと伝えるんだろ?」

 幸太郎の懸命の言葉。しかし冬香は冷笑する。

「そのつもりだったわよ。でも、大切な人が死んだの。死んだんだよ!」

「覚悟はしてたんだろ!」

 幸太郎の声に、冬香はびくりと言葉を飲む。が、絞り出すように吐く。

「してたつもりになってた。でも、ぜんぜん出来てなかった。だって、胸が苦しいんだ。とても苦しいんだ。死にたいと思う。もう生きたくないって思う。なんで生きないといけないのか、わからない。苦しいんだよ、幸太郎」

 精一杯に吐き出された冬香の言葉。それがどれほどの苦しみなのか、想像するのは難しくない。きっと今の彼女の心は、黄泉の国に救いを求めている。

 だけど。

「……だから死のうってのかよ」

 ぎりっと奥歯を噛み締め、幸太郎は冬香を睨み据える。それと同時に腹の底から沸き上がってくる熱気。それに任せて言葉を吐き出したい。しかし、それで彼女の心は揺れるだろうか。それで彼女を説得できるのだろうか。そんな冷静な思考をねじ伏せ、幸太郎は腹の底に溜まった感情を言葉のままに放った。

「おまえ、自殺しようとしてた俺になんて言った。なんて言ったよ! おまえのために命を使えって言ったんだぞ! おまえの除霊を手伝うと言った俺に、おまえはこのアパートに一緒に暮らしてくれるだけでいいって、そう言ったんだぞ! おまえ、さっきの公園でなんて言った。私たちの家に帰ろうって、そう言ったんだぞ!」

「それは……」

「死のうとしてた俺に、さんざん生きる意味を押しつけておきながら、自分は無責任に死のうってのかよ! ふざけんな! そんな奴に、ばあちゃんに会う資格があるか!」

「――ッ」

 冬香はなにも言い返せない。それもそうだ。相手は帰る場所がないと絶望し、遂には自殺しようとしていた男なのだ。そんな人物に生きる目的を与えておきながら、自分はさっさと自殺と同等のことをしよういうのだから、怒られて当然か。

 黙り込む冬香に、幸太郎は続けて言葉を投げ掛ける。

「おまえが大好きなばあちゃんのことを思い出せよ。じいちゃんが死んで、後追いすら考えたばあちゃんが、どうして踏み留まったのか、思い出せよ。今、ここで黄泉の国に行って、おまえはばあちゃんに顔を合わせられんのか? 大好きなばあちゃんを失望させたいのか? 悲しませたいのか?」

 冬香は下唇を噛み締める。きっと彼女も自覚しているのだ。自分が間違っているとわかっているのだ。だけど、悲しみがその選択を強要する。

 ならばと、幸太郎は覚悟を決める。

 悲しみのために自殺を考えてしまうのならば、それを取り除くほかない。

「冬香、改めて俺はおまえに誓おう」

 幸太郎はまっすぐに冬香を見据える。そして大きな深呼吸ののち、その言葉を口にした。

「俺はずっとおまえの側にいる。おまえが悲しめば抱き締めよう。おまえが挫けそうなら支えよう。おまえが喜べば俺は騒ごう。だから共に生きよう」

「……」

 冬香は唖然とする。この人は、この期に及んでなんてことを言うのだ。こんな時に、そんなプロポーズ紛いの……いや、そうなのだろう。彼にとって今のは、そういうことなのだろう。つい先日まで死のうとしていた者が、よくそんなことを言えたものだ。

「……くくく、あはははは!」

 冬香は笑った。おかしくておかしくて、笑ってしまった。

 目の前にいるのは、帰る家が無いと死のうとした男。そんな人が、今は誰かと共に生きようなどと宣っている。これは滑稽というか、なんというか。

 でも、だからこそ説得力があるのだろう。

 大切なものを失った者同士。人によっては傷の舐め合いと馬鹿にするかもしれない。だけど、そこに生きる目的を見出せてしまったのだから仕方ない。

 もうちょっと。

 もうちょっとだけ頑張ってみようか。この悲しみを幸太郎と一緒に乗り越え、おばあちゃんに恥じない人生を生ききるまで、もうちょっとだけ頑張ってみよう。

 それが冬香の結論だった。

 気付けば心に掛かった靄は晴れ、清々しい気持ちとなっていた。

 ああ、これなら生きていける。

 そう覆った矢先、突如、黄泉の国から溢れ出していた霊魂が、その勢いを加速させたのである。まるで雪崩が押し寄せるように、膨大な数の霊魂が一斉に溢れ出した。

「おいおいおい、これってヤバイんじゃ……」

 幸太郎がそう零したのと同時に、脇を小さな影が駆けていった。

「退け、冬香!」

 声に反応して後退った冬香の前をタマが駆け抜ける。そして黄泉の国への入り口へと飛び込むと、変化。巨大な球体へと変化して穴を塞いだのだ。それはまるでラムネの瓶に詰められたビー玉のように、霊魂の排出を防いでいた。

「おおお、タマすげえ! 見直したぞ!」

「幸太郎、こんな時にそんな冗談は要らん。それよりも冬香、はやく封印を! こんな押さえでは、あまり時間が保たん。今も背中を凄まじい力で死霊どもに押されている」

「それはわかるけど、駄目よタマ。今のあなたの体は黄泉の国側にある。もしもこのまま封印したら、あなたはそのまま……」

「問題ない! はやくしろ!」

「でも……」

「いい加減にしてください!」

 タマの口調が変わる。もう一つの人格が出てきたのだ。

「私なら大丈夫です。だからはやく!」

 事は一刻を争う。ここで言い合いなどしている暇はないか。

「わ、わかったわ!」

 そうして床に落ちていた札や注連縄を拾い始めた冬香。幸太郎は問う。

「おい、それって使えるのか? だって剥がしたやつだろ?」

「おばあちゃんのお札だからと破らなかったのよ。とりあえずはこれで封じるわ」

 だが、冬香はここで気付いた。クローゼットの扉を閉めようにも、タマの体がずいぶんと押し出され、今にも飛び出そうとしていたのだ。

「これじゃあ閉められない……」

「おいおいおい、じゃあどうするんだよ!」

 慌てふためく幸太郎に、冬香は言い難そうに苦肉の策を告げる。

「たった一つだけあるわ」

「どんな!」

「黄泉の国側から押し込まれているのなら、それ以上の力で押し返し、タマの体を完全に向こう側へとねじ込む。そしてその隙に封印を施すの」

「そんなことが出来るのか?」

 問われると、冬香は札や注連縄を幸太郎に渡し、部屋の隅に立て掛けられていたそれを手にする。木製バットの除霊道具。雪月花である。

「これでタマの体を思いっきり叩く。だけど、化け猫に使うと……」

「魂の一つや二つは吹き飛びそうですね」

 タマが軽い調子で言った。それが強がりなのかは、幸太郎にはわからない。だが、覚悟は受け取った。それは冬香も同じようで、バットを強く握り締める。

「タマ、覚悟はいい?」

「もちろんです。と言うよりも――手を抜くなよ冬香!」

「ええ、わかってるわ。覚悟を決めた相手に手を抜くなど、野球人のすることじゃない」

 冬香は幸太郎に目配せ。自分が打ち込んだら、すかさずクローゼットの扉を閉め、札と注連縄を掛けろと、その目は言っていた。無論、幸太郎は真意を受け取って首肯。

「ふぅー……じゃあ行くわよ、タマ」

「大きいのを一発、来い!」

 瞬間、冬香は大きく振り被り、そして全身の力をバットに集約させるように、打ち込む。途端、凄まじい衝撃がほとばしり、タマの体は背後にいた死霊を巻き込んで闇の底へと吹き飛んでいく。幸太郎は扉を閉め、すぐに札を貼り付けると、続いて注連縄を扉の前に掛けた。時を同じくして、クローゼットがガタガタと揺れる。扉の内側を誰かがガンガンと叩く。しかしそれも程なくして無くなった。

 静寂が流れる。

 幸太郎と冬香は互いに顔を見合わせた。

「……これで終わったのか?」

「ええ。あとはすでに漏れ出した霊魂を処理すれば、問題はないはず」

「そうか。……でも、タマのことを思うと、どうも素直には喜べねえな」

「まあね。だけど、タマは覚悟してた。なら、私たちはそれを胸に留めることはあっても、引き摺るべきじゃない。じゃないと、あの世に行ったときにタマに笑われるわ」

「そうだな」

 ちょっと変わった人間ではない友人。そんな彼女が最後に見せてくれた覚悟の姿。二人はこの一件を永遠に忘れないと心に刻むと決めたのだった。

 そう。こうして悲しみを乗り越えようとしていたのだ。

 が。

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