第3話
翌朝、幸太郎は窓から差し込んでくる日差しで目を覚ました。場所は二〇六号室。家具の一切が無かったため、幸太郎は一夜をフローリングの床で過ごした。その固く冷たい寝床に、まったく以て最高の住居だと呟きたくなる。
「とりあえず顔を洗うか」
幸太郎は立ち上がると、洗面所へ。そして顔を洗いながら考える。
何故、こんなことになったのだろうか。
何故、自分はこんな所にいるのだろうか。
何故、自分は自殺を考えたのだろうか。
その大元を探ったとき、やはり家族のことを思い出してしまう。
真木家は比較的裕福な家庭である。母親は専業主婦で、父親はノンキャリアでありながら警視正の階級にまで上り詰めた希有な男で、性格は堅物。幸太郎が父親と会話するときは、常に緊張を強いられてきたのは言うまでもない。
だが、それこそ幸太郎の不満の大元だった。
幸太郎は家庭環境に不満があったのだ。
父親の教育方針上、家に娯楽と呼べる漫画やゲーム機の類は置けなかった。まだ少年の心を胸に宿す年齢には、息苦しい環境なのは間違いない。
無論、父親を軽蔑などしていない。むしろ尊敬している。父親が口癖のように「勉強しろ」や「苦労しておけ」と言うのも、自身がノンキャリアであるが故に苦労してきた過去があるからで、息子にはそのような苦労をしてほしくないのだろう。
でも、と幸太郎は呆れた様子で首を振る。
「今さらにそんなことを考えてどうする。もう俺には、帰る家が無いんだ」
そう。もはや真木幸太郎に帰る家はない。
だから死のうと考えた。
だが、死ねなかった。
訳のわからない事態に巻き込まれ、死ねずに今も生きている。
まったく、事実は小説よりも奇なりとはよく言ったものだ。
幸太郎は、昨夜の二〇一号室でのことを思い返した。
「私の名は『タマ』だ。人間の言うところの化け猫だな」
二〇一号室にて、そんなことをうそぶく猫耳少女。しかし幸太郎は驚かない。もはや訳のわからないことの連続で、驚くことに疲れてしまったのだ。
「化け猫ね。もういいよそれで。……じゃあ何百年と生きてたりすんの?」
「いいや。私はもっとピチピチの年齢だ」
「ピチピチって……。何歳?」
「一〇歳」
「思ったよりも遥かに若かった!」
「ちなみに人間で言うところの二重人格だ。お前が初めに会った大人しい人格と、今の私の二つ。名前はともにタマだ」
「同じかよ! 面倒くせえ!」
そんな幸太郎から事の経緯を聞いたタマは、疑問に答えてやると横柄に返事。なので幸太郎は疑問のすべてをぶつけることにした。
化け物のこと、友園冬香のこと、そのいっさいを尋ねる。
タマ曰く、それらに答えるには、まずこのアパートについて教える必要があるという。
「お前は黄泉の国というものを知っているか? 日本神話で出てくるアレだ」
「えーと、イザナギって男とイザナミって女が出てくるやつだよな。たしかアダムとイヴみたいな奴らで、最初の人間なんだっけ?」
「人ではなく神だ。そして最初でもない。……とにかく、イザナギとイザナミは、日本の国土や神々を創った神だ。国産みや神産みなどは習わなかったのか?」
「いや、一応は習ったけど、古典はあまり好きじゃなくて……」
「活字で覚えようとするから好きになれんのだ。私が今風に構成して教えてやろう」
イザナギとイザナミは海面を矛で掻き混ぜてオノゴロ島を作ると、そこに降り立ち、国と神を創ることにした。しかし創り方がわからない。
「そんな二人はお互いに自分の体を見てこう言い合ったのだ」
――なあイザナミ、お前の体ってどうなってる? 主に股間辺りはどうよ――
――どうって……あれ、無い部分があるんだけど? 主に股間辺りに無いんだけど――
――え、マジで? でも俺の方は余ってるわ。なんだ、これ? ……あ、そうだ! 俺の余ってる部分で、お前の足らない部分を埋めて
――あ、それナイスアイデア――
「とまあ、このような会話をしたわけだ」
「なんか、今風に話されると神秘さもクソもねえな」
「若輩者にはこのように話した方が解りやすかろう?」
「一〇年しか生きてないやつに若輩と言われた悲しみたるや……」
「そして国と神々を創っていったこの夫婦。しかしイザナミが神産みの最中に死んでしまい、イザナギは死者の世界である黄泉の国へとイザナミを迎えに行くのだ。そして! その黄泉の国というのが、この建物の下にあるわけだ!」
「………………はあ? あまりのことに一瞬フリーズしたわ。このアパートの下に黄泉の国があるって? んなアホな。古事記に載ってるとは言え、日本神話は作り話だろ。なのに、黄泉の国があるって言われても……」
なまじ信用できない。
「それに黄泉の国との境とされる
「たしかにそうだが、これを信じなければ、これ以上はなにを話しても無駄となる。ということで、ここで話を打ち切るぞ」
「うっ……。わかった、信じるから続きを聞かせてくれ」
「よし。では、続きを話そう」
黄泉の国にイザナミを迎えに行ったイザナギだが、妻の変わり果てた姿を見て逃げ帰り、そんな黄泉の国から死者たちが出てこられぬように大きな岩で出入り口に蓋をした。
「いつからかは知らんが、友園は神社を設けてその岩を守り続けた家系だ。しかし冬香の父には俗に言う霊能力というものがなかった。そのため、黄泉だの岩だの霊だのを信じるのは馬鹿らしいと、神社を取り壊し、この建物を造ったわけだ」
「それはずいぶんと罰当たりだな」
「そして、このままでは黄泉の国から死者が溢れてしまうと考えた冬香の祖母が、この建物自体を岩に見立てて封印を施した。この建物の至る所に札が貼られているのは、そのためだ。だから剥がしてはならないのだ」
とは言え、封印は完璧ではなく、たびたび結界の隙間をかいくぐって死霊が外に出てきてしまうことがあらしい。それに加え、半年ほど前に当時の責任者だった冬香の祖母が倒れて以降、札の張り替えすらしていないため、結界が徐々に緩んできているというのだ。
「まさかだけど、その死霊ってのが俺を襲おうとした化け物なのか?」
「そうだ。冬香は祖母が務めていた大家の任を引き継ぎ、またそんな死者たちを改めて葬るために夜な夜な町を徘徊し、除霊して回っているのだ」
「なるほど。それで、その黄泉の国の死者が溢れ出してきたら、いったいどんな悪影響があるんだ?」
「さあ?」
「はあ?」
予想外の答えに幸太郎は口をぽかんと開け放つ。
「そもそもイザナギの時代から封印され続けているのだ。つまりは一度も開封されたことがないと言うこと。それなのに、どうなるかなどとわかるはずがないだろ」
「それはごもっともだけど……。なんだろ、この釈然としない気持ち」
「おそらくではあるが、生者の世界と死者の世界が混同し、生死という観念がうやむやになる可能性はあるな。それによってどのような弊害が生じるかは不明だが……。とりあえず、婆様が病院から戻ってくれば、すべては丸く収まる。それまでは冬香に頑張ってもらうことになるだろうがな」
こうして昨夜の問答は終わったのである。
まだわからないことはあるが、これ以上はこちらの脳内容量が追いつかない。真木幸太郎は、今までそのような世界とは無縁に生きてきたのだ。いきなりそのような非常識を受け入れろと言われても、とうてい叶わない話なのである。
「ま、なんにせよだ」
幸太郎は顔を上げる。洗った寝起きの顔が洗面所の鏡に映る。
「俺も何かすべきなんだろうな」
もしも死者がこの世界に溢れ返ってしまったら大変な事態となるだろう。自分はその危険性を知る数少ない人間。言い換えれば、それを防ぎうる人間と言うことだ。まさにヒーロー。人知れず人々を救う正義の味方だ。
そしてなによりも、一人の少女にすべてを任せるのはどう考えても間違っている。
幸太郎はそう結論づけた。
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