第6話 羽川③
「『誰かが僕の敵であろうとも、べつに僕がその男の敵にならなくてならぬ、ということはない』」
また始まった。そう思い、僕はうんざりする。
「なんだよ、それ」
「シューマンの言葉だよ」
橋本はいつものように暑苦しい笑顔で言った。
授業が終わった直後の事だ。就職活動もあるというのに、未だに必修の授業が残っている。だが、これは何も僕がサボっていた訳ではなく、四回生にならねば取れない授業なのだから仕方がない。まあ、そういう授業があること自体は構わない。そうでもしないと三回生までに全ての単位を揃えて、四回生は履修ゼロという人間が出てくる。そういう事態を防ぐための措置だろう。だが、それならそれでもう少し楽な授業を残しておいてくれればよかったのではないかと思う。四回生必修である以上は、落とせば後がない。にも関わらず、妙に難解で、しかもレポートではなくテスト。その上、それがかなり難易度だというのは、橋本の談だ。当然、その成績が悪ければ単位が取れず留年確定。唯一の救いはテストが毎年ほぼ同じ内容なので過去問さえ入手できれば、どうにかなるという事だ。友人の居ない僕は当然橋本を伝手に手に入れるしかないから、今こいつの機嫌を損ねる訳にはいかない。
「ああ、シューマン。シューマンね」
「シューマンわかってる? シューマイとは関係ないよ」
下らねえ。心底吐き捨てたかったが、ぐっと堪えて僕は笑っておいた。
「シューマンはドイツの作曲家だよ。一番有名な曲は『トロイメライ』かな。『子供の情景』って曲集の中の一曲だけど」
僕は橋本の言葉をいつものように聞き流そうとして、何かひっかかるものを感じて思わず尋ねる。
「『トロイメライ』……どういう意味だっけ」
「ドイツ語で『夢』っていう意味だよ」
「夢……」
僕はいつもの美しい夢の世界を思い出す。
「今、アイポッドに入ってるよ。聞く?」
『トロイメライ』。何故か僕はその言葉にどうしようもなく引き付けられていた。理由は解らない。ただの直感だった。
「ほら」
橋本からイヤホンを受け取り、耳に当てる。
「再生」
穏やかで優しいピアノの音が僕の脳を揺さぶった。ゆったりと流れるメロディはどこか懐かしい。僕はピアノの事など何も解らない。だが、この曲がすごい曲だという事は理解できた。なんと言うのだろうか。絶妙なのだ。決して複雑な曲というわけではないだろう。だが、決して単純と言う訳ではない。そこには、絶妙な素朴さがあった。
そして、僕は、あの夢世界を思い出していた。
風に棚引く緑の草原。透き通るような青い空。風が穏やかな草花の香りを運んでくる。草原に身体を横たえる。地面から大地の息吹が全身を伝わっていく。
この曲は、きっとあの世界とつながっている。
「……作曲者って誰だっけ」
「シューマンだよ」
「シューマン……」
彼はあの世界を知っているのではないだろうか。そんな妄想に取りつかれそうになる。
「『誰かが僕の敵であろうとも、べつに僕がその男の敵にならなくてならぬ、ということはない』」
橋本は先程の言葉を繰り返す。
「敵であっても……」
誰かと敵対するという事がありえない世界。そんな世界を彼は知っていたのではないだろうか。
「僕の敵に、僕は必ずしも敵対する訳ではないけど、僕が味方した人間は、常に僕の味方であってほしいよね」
そんな事を言う橋本の醜い笑顔を見て、僕は現実に引き戻された。
「では乾杯!」
僕は何故こんなところに居るのだろう。
「今日はね、親睦会という事で、楽しんでいきましょう。就活の事とかは忘れてね」
「それ言っちゃだめじゃん」
「それNGワード!」
「てめえ、内定貰ったからって調子のんなよ!」
「これは失敬」
橋本がおどけたように言うと、一同は皆下卑た笑い声をあげた。
「今日は初対面の人も多いと思うけど、仲良くやって行きましょう。親睦会なんでね」
僕は橋本が主催した「親睦会」なる物に出席していた。有り体を言えば、これは「合コン」だった。あえて、そのワードを避けているのは、何か意味があるのかはよく解らなかった。
どうしても人数が足りないという事で、僕は橋本に半ば無理矢理連れてこられていた。僕だって決して暇ではないし、こういう場は苦手なので断ったのだが、授業の過去問を人質に取られてはどうしようもない。僕には、橋本くらいしか過去問入手のあてがないのだ。友人の少ない者の悲しさである。
どこでもよく見るチェーンの居酒屋だったが、実際に入ったのは初めてだった。サークルにも所属してないし、バイトも家庭教師なので、ゼミ関係くらいしか飲み会に参加した事ない僕は、ほとんど居酒屋に入ったことはなかった。
それにしても、騒がしい。
自分達のテーブルでは、誰と誰が付き合っているだとか、何人とヤっただとか、下品で低劣な話題が場を覆っていた。くらくらするアルコールの香り。纏わりつくような煙草の臭い。僕は雰囲気にも当てられてすぐに気分が悪くなってしまった。「夢世界」の清浄さが、僕の潔癖性を強くしていたのかもしれない。
誰とも上手く会話で来ていなかったし、幸い端の席だったので、頻繁にトイレにいく振りをして抜け出しても、そう目立ちはしなかった。トイレの前のスペースでぼうっと立ち尽くす。
橋本への義理を考えてもこんなところへ来るべきではなかった。
やはりこの世界は醜い。
居酒屋の雑多な喧騒に包まれながら思考する。
『夢世界』では、あんな下卑た話題は皆無だった。
思春期の中学生にありがちな性的な話もなかった。
『夢世界』には性行為そのものが存在しなかったからだ。
つまり、生殖という概念を放棄していたのだ。
では、どのようにして人は産まれるのか。
彼らはそのシステムを『天命転生』と呼んでいた。
『安全機構』によって不慮の死が発生する可能性は限りなくゼロに近くなっていた。病死も事故死もしないのだ。そして、人はほぼ老いることはない。
不老不死。そういう風に聞こえるだろう。
だが、実際のところは少し違う。
彼らは百歳ちょうどの寿命を保障されているのだ。百歳というのが彼らの超科学を持ってして保障できる寿命ということらしかった。それを超えて生きようと思うと、「死」に見舞われる可能性があるらしい。
だから、多くの人間は百歳の誕生日に生まれ変わるのだ。
それが『天命転生』だ。
その現場を一度だけ見た事がある。『学び舎』での「社会科見学」でのことだ。百歳になった人間は『リインカーネイト・システム』、通称RSというシステムの中に入る。中は特殊な液体で満ちている。どうやらその中で身体が溶けてしまうようなのだ。その中でDNA情報を解析し、体細胞の中で再利用できるものを抽出する。そして、再利用できない部分を排除し、必要不可欠な細胞をhgiPSと呼ばれるクローン技術を使用して補うことで、新たな人間として生まれ変わるのだ。
以前の人間とは、別の人間として扱われるし、基本的に前世の記憶は保持しない。だが、「転生」を駆使する事で彼らはついに「死」を克服してしまっていたのだ。
現実の基準では考えられない事だった。もし、システム仕組みが完全に理解できたならノーベル賞どころの話ではないが、所詮は夢。さすがに細部までは覚えていないし、僕の頭で理解できるとも思えなかった。
転生した人間は最初から、現実でいう五歳程度の外見を持っている。そして、二十歳程度まで成長するとそこからは基本的に老いることはないのだ。彼らが一様に整った容姿を持っているのも、このシステムに関係しているのかも知れない。
一人の人間が、一人の人間を生み出して消える。
だから、彼らは生殖活動を行わない。
彼らにはそもそも性欲すらないようだった。
それゆえ、親子という概念もない。子供は産まれたときから一人で生きていくのだ。『安全機構』とあの世界の社会保障からいけば、一人で生きていく事は何も難しい事ではなかった。
現実に居る時にその事に気付き、恐怖感を覚えたが、あの美しい世界を思えば、それが当然なのかもしれない。あの病的なまでの美しさは生命の営みからすら外れた所から生まれているのだと考えれば、不思議と得心がいく様な気もするのだ。
「大丈夫ですか?」
突然に話しかけられて驚く。すっかり考えごとに集中していたためだ。
「あ、はい」
思わず間抜けな返事を漏らす。
目の前には美しい女性が立っていた。髪は長く、眼鏡をかけている。チュニックというのだろうか。ゆったりとした青い服を着ている。背はあまり高くないようだ。
まるで「夢世界」の人間の様だと思った。
それくらい彼女は美しかった。
「羽川さんですよね」
「あ、はい。えっと三笠さん……でしたっけ」
「はい、そうです」
三笠さんは、「親睦会」の参加者の一人だった。下品な人間が多い中で、一人上品な雰囲気を持っていたから、注目して名前を覚えていたのだ。
「なかなか戻ってらっしゃらないから、ちょっと様子を見に来たんです」
わざわざ僕の様子を見に、席を立ってくれたのか。僕はそれを純粋に喜んだ。
「合コン」を忌避していた僕であっても、女性に興味がないわけじゃない。ただ機会がなかっただけなのだ。彼女にとってはただの親切心に過ぎない事くらいは解っていたが、こうして、会話する機会を得ると俄かに欲が出てくる。
「わざわざすいません。もう大丈夫です。ちょっと空気に当てられちゃったみたいで。情けないです」
「いえ、解りますよ。私もああいう場は、内緒にしてくださいね、あんまり得意じゃなくて」
なんとなくそういう気はした。彼女はこういう場には似つかわしくなかった。よっぽど上品なレストランなんかが似合う人種だろう。
「じゃあ今日はどうして」
「京子ちゃんが……友達がどうしてもって言うから」
「京子ちゃん」とやらは誰の事かはよくわからないが、今日の参加者の中の誰かだろう。
「僕と一緒ですね。僕もあの橋本っていうのに、半ば無理矢理連れてこられましてね」
「じゃあ仲間ですね」
彼女は微笑んで言った。
「席に戻りましょうか」
彼女は言った。
本当はもう少し彼女と二人で話して居たかったが、そう言われてしまっては仕方がない。
僕は渋々席に戻った。
「よし、席替えするぞー」
橋本が張り切った調子で言う。
「俺、三笠さんの隣がいいなー」
男側の参加者の一人がふざけた調子で言う。三笠さんは微笑んでいるが、少し顔が引きつっているようにも見える。やはり、こういうノリは苦手なのだろう。
「待て待て、こういう時はくじ引きって決まってるんだ」
「くじ引きかよぉ」
「もう用意してきてるぜ。『ギャンブルをやって勝つことの次にいいのは、ギャンブルをやって負けることだ。』っていうだろう」
「意味解らん」
「勝っても負けても恨みっこなしってことだ」
そういう意味なのかと疑問に思ったが、この空気でわざわざ突っ込みを入れる気にもなれなかった。
「さあ、くじを引け」
結果を言えば、僕は三笠さんの隣になった。これには正直驚いた。こんなに上手い展開になるとは思っていなかったからだ。しかし、こんな機会を逃す手はない。
「隣になりましたね」
「そ、そうですね」
とはいえ、女性に免疫のない僕がこんな美人の隣に座れたくらいで、彼女をどうこうできるとはとても思えなかった。
「羽川さんは趣味はなんですか?」
「えっと、読書です」
僕は紋切り型の答えを返す。僕の中で初対面の相手に趣味として提示できる物はこれくらいしかなかった。
「どんな本を読まれるんですか?」
「結構、何でも。純文学も読みますし、最近のエンタメ系も。実用書も少しは」
「純文学読まれるんですか。夏目漱石とか?」
「そうですね。有名どころなら一通りは」
「そうですか、私も読書は好きで――」
そうやって一度切り口を見つけると、会話を続けるのは難しくなかった。橋本以外の人間とこんな気兼ねない会話を交わしたのはいつ以来だっただろうか。
僕は「親睦会」が終わる頃には、完全に三笠さんに魅かれていた。
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