第4話 羽川②

「『満足した豚であるよりは不満足な人間であるほうがよく、満足した愚か者であるよりは不満足なソクラテスであるほうがよい』」

 橋本はいつものように唐突に言った。いつも何かの引用を何の脈絡もなく披露する。おそらく、自分が語りたいのだろう。こっちが何を思ってようがお構いなしだ。

人でごった返す大学の食堂。くだらない冗談に、下卑た笑い声。周囲の喧騒はまるで僕に襲い掛かってくるようにも思えて、不快だった。久々に例の夢を見たことで、醜いものに敏感になっているのかもしれない。

「なんだよ、それ」

 どこかで聞いたことはあるフレーズだったし、大まかな意味もわかるが、ここで反論すると話が拗れて、余計に長くなる。黙って聞いておくのが吉なのだ。

「ジョン・スチュアート・ミルの言葉だよ」

 橋本は得意満面といった表情で言った。ある意味幸せな奴だと思う。

 橋本は小太りで眼鏡をかけた醜男だ。僕と同じ大学の文学部。最初のガイダンスで「橋本」「羽川」が名簿順で並んでいたことから交流するようになった。当時は大学に入学したばかりという事で、内気な自分を変える為に一念発起して前に座っていた男に声をかけたのだ。あくまで、この男はとっかかりに過ぎないと思っていたのだが、結局、この男が学内における唯一の友人と呼べる存在になってしまった。気がつけば、他の人間に話しかけるタイミングを失っていたためだった。

 橋本の方も理由は解らないが、何故だか僕の事を気に入っている節があった。顔に似合わず社交的なこの男は顔も広い。彼の所属する文芸サークルの人間とはよくカラオケに行ったり、部室でたこ焼きパーティなんかをしているようだし、ネットを通じて様々な人間に積極的にコンタクトを取り、ちゃっかり、他大学のサークルの飲み会にまで混ざってくる様な奴なのだ。こいつを見ていると人間は、顔ではないんだなと思い知らされる。

 僕なんかよりもっと面白い人間と交流があるにも関わらず、この男は僕と接触し続けた。理由はいまいちよくわからない。だが、僕としても学内に友人が一人も居ない事態は実際的な面からも、精神面からも避けたいと考えていたので、ある意味好都合だった。

 とはいえ、話があまりに長い事には正直辟易していたが。

「わりといろんな解釈が出来る言葉なのだけどね。要はこう言う事さ」

 食事をする手を止めることなく、僕は耳だけを傾ける。橋本は一向に意に介した様子もなく話を続ける。

「ミルは快楽主義を主張していたのだけどね。『快楽』って言葉はともすれば、『自堕落』とか『貪欲』とかマイナスイメージに取られがちだったのだね。しかし、『快楽』にも質がある。ミルはそう主張したわけだよ」

 僕は相槌を打つ事もしなかった。それは常の事だった故に、僕も橋本も何の気にも留めなかった。しかし、僕はいつものように「話を聞いてやっている」というポーズを取りながらも、内心、橋本の話に聞き入っていた。

「快楽にも質がある。上等な快楽もあれば、下等な快楽もあるということだよ。つまり、豚のようにただ食べるだけの下等な快楽もあれば、ソクラテスの様な叡智をもって得られる上等な快楽もあるという事さ」

 橋本は豚の様な顔で学食の三百八十円のカツ丼をほおばりながら言った。

 僕は橋本の言葉を枕に、美しい「夢世界」の事に思いを馳せていた。


「夢世界」はどこまでも美しかった。

 まず、雄大な自然がそのまま保存されていた。どこまでも続くなだらかな草原。水底がはっきり見えるほど澄んだ川。身内を洗うような清浄な空気。夜になれば満天の星空が僕らを見守っていた。

 しかし、それだけの自然があるにも関わらず、害獣や害虫の類は一匹も現れなかった。夏であっても蚊どころか羽虫の一匹も現れないのだ。動物と言えば、『オートメーション』によって管理された家畜か、愛玩用のペット以外には居なかった。正確には『外界』と呼ばれる未開拓の地があり、そこには何らかの生物が居るようだったが、詳しい事は解らない。だが、現実の基準に照らし合わせて考えれば奇妙である事は間違いなかった。

 また人間も美しかった。皆、一様に整った容姿をしていた。「夢世界」での自分である「ワルド」も例外ではなかったし、「ルウ」という幼馴染も『学び舎』で一緒だった「ミヅキ」や「ラウディ」もそうだった。それぞれタイプは違えど、まるで漫画のキャラクターのように美男美女揃いだった。現実の自分である「羽川」や目の前に居る「橋本」と、同じ人間とは思えない。

 そして、極一部の例外を除いて、全ての人間の容姿は若々しかった。実年齢で言えば、九十を超えるはずの人間ですら、二十歳そこそこの外見で成長を止めていたのだ。

 おそらく予想だがこれは全て、誰もが装着している『安全機構』と呼ばれる首輪のためではないかと予想できた。「装着」という表現は適切ではないかもしれない。なぜなら、その首輪は外科手術によって首の内部に直接埋め込まれているのだから。

「夢世界」での自分であるワルドも疑問を持っていないようだったが、全ての人間は生まれた時、すぐに『安全機構』を埋め込まれる。便宜的に首輪という表現を使ったが、完全に首の中に埋め込まれているが故に、どんな形状をしているのか実際には知らない。ともかくもその効果は絶大だった。

 まず『安全機構』をつけた人間は基本的に病気になる事は無かった。仕組みは解らないが、どうやら人間のホルモンバランスを完璧に制御できるようだった。それだけでなく、現代の科学では考えもつかないようなレベルで人体を統御しているのだ。

 たとえば、『安全機構』をつけた人間が極端な脱水状態に陥ったとしよう。その時はなんと、『安全機構』が水分を捻出し、身体の健康を保つのだ。ここに至っては、仕組みは想像しようもない。向こうの世界の学校にあたる『学び舎』では、その仕組みも教えられていたように思うが、何分夢の世界故、記憶は完璧ではない。

 さらに驚くべきなのは、『安全機構』に力は外的要因に対しても働くという事だった。仮に火事が発生し、建物が崩落したとしよう。そのときに、『安全機構』は所謂「バリア」のようなものを発生させ、装着者の身を守るのだ。ポイントなのはこれが全てオート使用のみであり、マニュアル使用はできないという事だった。『安全機構』の危機察知能力にも舌を巻くが、このシステムの合理的なところは「自己発動できない以上は武器にもできない」という事だ。

 つまり、世界全体がどこまでも『安全』に創られているのだ。

『安全機構』とはよく言ったものである。

『安全』のためだけに創りだされたシステム。

 橋本の話を聞いて、このシステムの事を思い出した。

 確かに、病気も怪我もしない。そんな世界は快楽に満ちているように思える。

 でもそれは、飼いならされた家畜とどう違うのだろう。

 安全な小屋の中で餌を与えられて生きる豚と何が違うのだろうか。

 実際にあの世界の人間は、『安全機構』の『通達』と呼ばれる「アナウンス」に何の疑問もなく従っていた。帰宅や食事、睡眠の時間を管理されたり、危険な場所や行動を感知すると警告が発せられる。その「アナウンス」は『安全機構』の装着者の声帯によって行われる。つまり、客観的に見れば、自分の独り言に従っているように見えるのだ。

 僕は幼い頃からずっと、あの世界の夢を見ていた。物の分別がつかなかった頃の僕は、まるでゲームの世界の様なあの世界にただ憧れていた。物心がつくようになった僕はあの美しすぎる世界に隠された恐ろしさを少しずつ感じ出していった。

 だが、今、どん底の現実に居る僕は、そんな美しくも恐ろしい筈の世界に、どんどん心を奪われているような気もしていたのだ。

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