第3話 ワルド②

「目が覚めた? ワルド」

 僕はゆっくりと目を開ける。僕の目の前に少女の顔があった。長い深紅の髪が僕の頬を撫でた。

「顔が近い、ルウ」

 僕はわざと不機嫌そうに言って、ルウを押し退ける様にして起き上がった。どうやら村はずれの草原の中で眠りこんでしまったようだった。見渡すと村の反対側には僕らの住む『内界』と『龍』が住む未知の世界である『外界』を隔てる高い柵が見えた。

 柵の周囲には『オートメーション』と呼ばれる機械が一定のペースで巡回している。それは真っ白な円筒状の物体で、大体大人と同じくらいの大きさをしている。あれが外の世界の脅威から僕達の世界を守っている。もしこの柵と『オートメーション』の力がなければ、『龍』によって僕達の『世界』は一瞬で滅ぼされてしまうだろう。見慣れた光景のはずだが、何故かひどく懐かしく思えた。

「どうかしたの?」

 ルウはいわゆる幼馴染だった。子供の時からずっと一緒に過ごしてきた。

 しかし、僕らは成長し、大人になっていた。燃える様に赤い髪や、凛とした瞳。何よりも女性らしく丸みを帯びた身体。僕達はもう子供でない事を意識させるには十分だった。

 例の夢を見た直後はどうにも「時間の流れ」というものを意識してしまう。「向こうの世界」と現実では時間の流れが違う。だから、何を以って時間の基準としてよいかは曖昧なところだ。でも自己の感覚として、夢の中の「向こうの世界」で一日過ごしただけで、こちらに帰って来る事もあれば、長ければ一年近くも「向こうの世界」の夢にとりこまれる事もあった。もちろん、現実で一年近くも眠りこけていた、なんて事はない。また一年丸ごとの記憶があるわけではなく、漠然とした記憶しかないわけだが、気持ちのいい物で無い事は確かだった。

 今回は長い部類で「向こうの世界」に一年近くも囚われていたのだ。ルウの様子を見るに現実では、ほんの数分しか過ぎていなかったようだが。

「向こうの世界」で、僕は「大学生」で「就活」という物を行っているようだった。ところどころ記憶に靄がかかっていて細部は解らないが、決して楽しい物で無い事は確かだった。

だからこそ、当たり前の存在である柵と『オートメーション』を見たとき、懐かしい様な気持ちに襲われたのかもしれない。

「『悪夢』を見たの?」

 ルウは僕の表情を見て悟ったのか、心配そうに眉根を寄せる。

「大したものじゃないよ、定期的な奴だ」

「でも……私だって『異世界の悪夢』は見るけど、ワルドは人に比べて『悪夢』を見る事が多いよね? 私なんか内容はすぐ忘れちゃうけど、ワルドはよく覚えてるし。しかも、内容もなんていうか……出てくる人とかが……その、上手く言えないけど……」

「『陰険』な感じか?」

 僕はあくまで軽い調子で言い放ってやる。

 ルウははっとした表情になって慌てて言う。

「ち、違う、そういう事じゃないよ!」

「解ってるって」

「ワルドは軽い気持ちで『忌語』を使いすぎだよ……」

 『忌語』。そんな物があったな、とどこか人事のように考える。どうも『悪夢』に囚われていた期間が長いと現実の常識が曖昧になるきらいがある。だから、『非推奨行為』を軽い気持ちで実行してしまう。現実に気持ちを切り替える為にも、整理しておくべきだろう。

 『忌語』を発する事は『非推奨行為』とされていた。『忌語』は『中央審議会』によって「罵倒語、あるいはそれに準ずる言葉」と定められていた。一言で言えば「人の悪口」だ。

 『忌語』を使うのが、良くない事である事は明らかだった。なぜなら、『忌語』は人の気分を害する言葉だからだ。人を害するなどという事はこの現実世界では考えられないことだが。

 知識として「争い」という物が、太古の昔にあった事は知っている。でも、それは人間が未熟だった頃の話だ。

 この現実では争いなんて起こりえない。なぜなら人間の本質は「善」だからだ。

 この現実では、全ての人間が他人の幸せを何よりも喜ぶ。自分の幸せについては考える必要などない。なぜなら、自分の幸せは別の誰かが考えていてくれる事だからだ。

 だから、お腹を空かせている人間が居たら必ず食糧を分け与えるし、困っている人が居れば、必ず救おうと思う。もし誰かが命の危険にさらされていたのならば(そのような事は現実的に考えればありえないが)自分の命を投げ捨ててでも見ず知らずの他人を助けるだろう。それは言うまでもなく当たり前の事だった。

 『忌語』をまさか本当に「罵倒」の意で使う人間は居る筈がない。仮に言葉にしたとしても、それは先程のルウのように悪夢の中に出てくる人間を説明するための「言葉の綾」程度でしかない事は誰もが解っている。『中央審議会』のお歴々に言われるまでもない常識だ。

 しかし、例の夢を見た後は、その辺りの常識が少し曖昧になる。「向こうの世界」では、それは常識ではないからだ。

 平気で人の悪口を言う。

 悪意をもって嫌がらせをする。

 失敗した人を嘲笑う。

 どれも現実では考えられない下等な行為を何の躊躇いもなく行うのだ。

 僕は思わず曖昧な「向こうの世界」での記憶を呼び起こしていた。


 向こうの自分が幼かった頃、「小学校」という所に通っていた時の事だった。そこは、いわゆる『学び舎』と同じような場所だった。向こうの世界でも『学び舎』という言葉も使われていたと思う。しかし、『学び舎』と異なる奇妙な点は「道徳」という授業が行われているところだった。

 「道徳」という授業は、いわゆる現実の「常識」を教える授業のようだった。人を傷つけてはいけない。人の悪口を言ってはいけない。友達とは仲良くしなければならない。

 現実世界に戻ってきてから考えれば、なぜそのように当たり前の事をいちいち取り上げて授業せねばならないのか解らなかった。勉強と言えば、数学や科学といった知識や計算力だけをつけるもの、というのが当然のはずだ。

 現実でも、『中央審議会』が『非推奨行為』を定めている。それと同じだと言われば、それまでかもしれない。『中央審議会』に言われるまでもなく『非推奨行為』を行わないのは当然だ。それでも、『非推奨行為』という基準があるのは、単に形式的なものに過ぎない。自分も軽口で『忌語』を使う事はあるが、それだって本当の「罵倒」ではない。

 しかし、そういうものとも毛色が違うように感ぜられた。どうやら「人を傷つけない」という事は、夢の世界の人間にとっては常識ではないようなのだ。

 つまり、彼ら、異世界の人間は、きちんと教化しなければ、人を傷つける可能性があるという事なのだ。

 そして、そのような「道徳」は彼らのような下等な人間には必要なものだったのだろう。

 現実に僕は「傷つけれられて」いたのだから。

 僕は「いじめ」という物にあっていた。今でもそれを思い出すだけで怖気がする。

 「いじめ」とは何か。

 人が人を傷つけることだ。

 夢の中の人間は、人間を傷つける事が出来るのだ。

 夢の名の下等な人間の本性は、きっと「善」ではないのだ。

 だから、彼らはおぞましい本性を疑似的にでも矯正するために、外部から倫理観という鎖をかけねばならないのだろう。

 とはいえ、その鎖は力を及ぼさなかったらしい。

 緊急時でもないのに、肩を突かれた。これが人の気分を害する行為であるのは生まれ変わったばかりの子供でもわかる。

 運搬を望んだわけでもないのに、靴を所定の置き場所から移動された。人の所有物は本人の為を思った場合を除いて、触れてはいけないのは当然の事だった。当然、僕は靴の移動を望んでは居なかった。

 そして、バケツで水をかけられた。もちろん、『安全機構』(「向こうの世界」には『安全機構』が無い事も付け加えねばならないだろう)に不具合があって体に火がついていたわけではない。にもかかわらず、意図的に水をかけられたのだ。現実では考えられない事だ。

 しかし、問題の本質はそこではなかった。

 ある程度、現実と夢を行き来すれば、「向こうの世界」が害意に満ちた特殊な世界である事は悟ることが出来た。だから、これはいわゆる『悪夢』なのだと割り切る事ができたように思う。

 では問題の本質とは何か。

 それは「向こうの世界」ではこの僕も下等な人間の一人でしかなかったという恐ろしい事実だった。


 僕は「悪意」を持っていた。

 もう少しマイルドな表現に言いかえれば、「復讐心」か。もちろん、この言い換えは言い訳にもなっていない。たとえ非が相手側にあるとしても(こういう仮定自体が現実に照らし合わせて考えれば、奇妙に聞こえるが)「悪意」を持つ正当な理由にはならないからだ。

 ともかく、「向こうの世界」の僕は「いじめ」を行う者に「復讐」したかったのだ。

 「向こうの世界」の僕がやった事は至極単純だった。

 「いじめ」を行う者が僕を小突いてきた時、僕はそれに反撃し、取っ組み合いになったのだ。

 愚にもつかない言い訳をする事が許されるなら言おう。僕はあくまで我慢した。「いじめ」は数カ月の間続いて、その間、僕はじっと反撃せずに堪えていたのだ。

 その数カ月、つもりにつもった怒りがついに爆発し、反撃というおぞましい行動を僕にせしめたのだった。

 その後の記憶は曖昧だ。もともと夢の記憶は断片的なものだから。しかし、自分が確かに「悪意」を抱いた瞬間の事は覚えている。

 それを思い返すだけでも僕は背筋が凍る思いをしているのだ。


「ワルド……まさか気分を害しちゃった……?」

 僕は夢の回想に囚われ、目の前のルウに気を払う事を忘れてしまっていたようだった。

「私が『忌語』を使わないでなんて言ったから……」 

「そんな訳ないだろ!」

 僕は慌ててルウを慰める。

「ごめん、寝起きで頭がぼうっとしていたみたいだ。ルウは何も悪くない」

「……ほんとう?」

 ルウは潤んだ瞳で僕を見ていた。

「本当だよ」

 僕はルウの瞳まっすぐに見ながら言った。

「よかった……」

漸く安堵したのだろうか。ルウの表情には笑顔が戻っていた。

「ルウは心配し過ぎなんだよ。人がそんな簡単に人を害する訳ないじゃないか」

「そうだよね」

「そうだよ」

 僕は知らず強い口調になっていた。

 しかし、ルウはその事には気付かなかったようだった。

 その時、『安全機構』から『通達』が流れた。

『間もなく日没です。外出している人は、帰宅するようにしましょう』

 毎日聞き飽きたアナウンスが流れる。もう家路につく時間だ。

「帰ろう。来週には『神託』もあるんだし」

「ああ」

 僕は先程のタイミングで『通達』が行われた事に密かに感謝していた。もし『通達』が無ければ、ルウが僕の異変に気がついていたかもしれない。

 僕はルウが涙を浮かべている時に、考えていた。

 僕は自分がルウに嫌われたくないから、ルウを慰めていたのだ。

 それはつまり「ルウのため」ではなく、「自分のため」だった。

 結果として動機が違っても、とった行動は、「ルウを慰める」で一致していたから、今回は問題なかったのかもしれない。

 しかし、「他人のため」の行動と「自分のため」の行動が一致しなくなる時が来たとしたら……。

 僕はその時果たして「他人のため」の行動がとれるだろうか。

 まるで自分が「向こうの世界」の下等な人間になってしまったようだった。

 一瞬の何かの気の迷いと思いたい。

 そうだ。きっとそうだ。

 僕は利己的な考えなど持っていない。

 他人のために自己を捨てる事が出来る。

 そうだ……そうだ。

 僕は何度も何度も自分に言い聞かせていた。

 ルウを追って村に辿り着く頃、美しく世界を照らし出す太陽は、決して超える事のできない柵の向こう側に消えていた。

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