第25話 魔導士は……。
月が紅く燃える。
深い闇に染まる森の中、ロクは大岩にもたれるようにして、全身に走る激痛に耐えていた。
それは禁忌の術式により、生きたまま肉体から魂が剥がされる弊害である。
ロクは、徐々に薄れていく意識の中で、術式の進行に必死に抗っていた。
少しでも長く、この暖かな記憶を感じていたい。
その強い想いから、激痛が長引く事を選択したのだ。
体の感覚が失われていく中、最期の瞬間まで、彼女の事を想っていようと、意思を強く持ち直したその時だった。
「……クっ!?」
霞がかかったような視界の先で、アビスによく似た女の子が自分を呼んだ気がした。
いよいよ、終わりの時が来たらしい。
最後に見せてもらった幻としては、最高の餞だ。
「ロクっ!!」
しかし、その幻が自身の体を揺すったところで、意識が鮮明になった。
それは幻などではなく、紛れも無い、本物のアビスだった。何故か出会った時と同じように、黒いローブを身に纏っている。
「……にっ、してんだっ!? はやく、ここから……離れろっ!」
詰まる喉から、何とか言葉をひねり出す。
どうして、どうやって。
もう、理由はどうでもよかった。禁忌の術式が近くの者にどのような影響をもたらすか、ロクにもわからないのだ。
「先輩っ。まだ、諦めるのには早いですわ」
「……っ!?」
ロクは、その旧友の姿に自身の目を疑う。
「まったく、あんたはっ。上手くいったら、全部聞かせてもらうからねっ」
リコベルまで。一体、何がどうなって。
ロクは、この状況に、ただただ戸惑うばかりだった。
「さもんっ」
アビスは、辛そうなロクを見て、少し獣耳を垂れさせるが、すぐにふむんと鼻息荒く腕まくりをして、魔導書を召喚した。
「お前……なにをっ!?」
ロクの疑問に答えること無く、アビスはフレアに目配せをすると、手に持った杖のような棒で、地面に奇怪な紋様を描き出した。
すると、同時に辺りを瘴気が包みだす。
「始まりますわよっ!」
「わかってるっ!」
周囲には、アビスを中心として円状に結界石が配置されている。
リコベルとフレアの役割は、魔女の術式により発生する膨大な瘴気を、アビスに近付かせない事だ。
結界石の数は十。その内、リコベルの担当は、たったの三個である。
最初は、馬鹿にされているのかと思ったが、道中で結界の説明をするフレアの表情を見て、それが最良の采配なのだと納得せざるを得なかった。
「っ!」
異教の楔の時とは桁違いの魔力が、スッと体から抜けていくのを感じる。
リコベルは、涼しい顔をしているフレアを見て歯噛みをするが、今はとにかく、この三個の結界石を死守するしかない。
そうして、アビスを守るような布陣で、その戦いは始まった。
ロクは、途切れ途切れになる意識の中で、その異様な光景の答えを見出せずにいた。
何が起こっている? 何をしようとしている?
アビスを中心に膨大な魔力粒子が集まっていく。
こんなのまるで……。そう思った時、陣を描いていたアビスが、突如バチっと弾けるように吹き飛び、地面に転がった。
「アビスちゃんっ!?」
「……ちょっと、しっぱいしただけ。へーきっ!!」
アビスは、すぐさま起き上がり定位置に戻ると、再び魔法陣を描き始めた。
だが、何度やっても上手くいかないらしく、次第にアビスの生傷が増えていく。
魔女の魔法陣構築は、必要な魔力が多くても少なくても成立しない。いくら魔法陣を描けても、絶妙な魔力調整ができなくては、術式は発動しないのだ。
「わぁっ!?」
アビスは、再び地に伏した。
「……いい。よせっ。もう、十分だっ!」
恐らく、自分を救おうとして何かをしている。それはわかった。でも、うまくいく筈がない。ロクも、その方法を散々探したのだ。
「やだっ!!」
アビスは、強い意志で初めてロクに反抗すると、ゆっくりと起き上がる。
「……っ!」
止めようにも、ロクの体からは魂が剥がれかかっており、体が言うことをきかない。
ロクはただ、アビスが、何度も弾き飛ばされるさまを見ているしかなかった。
淡々と、小さな魔女の頑張りは続く。
その最中、リコベルの魔力が追いつかなくなってきており、アビスに目を向ける余裕すら失いつつあった。
そして。
「しまっ!?」
魔力供給が間に合わず、任された結界石の内の一つが、光を失いそうになっていた。
このままでは、自分のせいで。
そう思った瞬間、リコベルが魔力を込めるよりも先に、結界石に強い光が戻った。
フレアが、八つ目に手を伸ばしたからだ。
「二つでも構いませんわ。集中をっ!」
リコベルは、自身の不甲斐なさを飲み込み首肯で返すと、目の前のできることに集中した。
だが、その後もアビスが地面に転がり続けるばかりで、一向に魔法陣が完成する気配がない。
やがて、フレアの額には玉のような汗が浮かび、結界の維持にも限界の色が見え始めたその時、不意に辺りを眩い光が包んだ。
魔法陣が、完成していた。
地面に描かれた紋様から、力強い光がほとばしり、耳鳴りのような音が辺りに響く。
同時に、ロクの左腕の呪印が、黒い煙のような瘴気となって剥がれていき、魔法陣の中へと吸い込まれていった。
誰もがその瞬間、言葉を失った。
「やった……の?」
リコベルは、耐え切れず半信半疑の言葉を口にする。
「でっ、できたっ」
しかし、アビスが頬を緩ませ、油断したその時だった。
「いけませんっ。まだですわっ!」
フレアの言葉が届くより先に、魔法陣は弾け――アビスの術式は崩壊した。
そして、目の前には、最も避けるべき結末が屹立していた。
魔神の顕現。
「うそ……でしょ」
リコベルは、巨躯の邪竜を見上げて、その手から剣が落ちそうになるのを辛うじて逃れていた。
「まあ、お二人共よくやりましたわ。あとちょっとまで、追い詰めたんですもの」
フレアは、明るい声色で潔く諦めを口にする。
だが、この絶望と対峙してもなお、諦めていない者がいた。
「焔式っ」
リコベルである。
「無理……ですわ」
フレアは、リコベルの行動を決して馬鹿にすることなく事実を告げる。
魔神には、外側からの魔力を無効化する絶対障壁があり、これを破壊するのは、現存するすべての魔導士を持ってしても不可能とされている。
だからこそ、あの悲劇が起きたのだ。
「あんたら魔導士はどうかしらないけど……私は、惨めでも、不可能でも、最後まで抗ってみせるわよっ!!」
リコベルは強く地を蹴りだし、邪竜の鉤爪をかいくぐり、炎を纏った剣の一撃を放つ。
すると、フレアの予想に反して、邪竜の翼には裂傷が入った。
「魔神に攻撃が……っ!? まさか、半分は術式が成功してっ」
そう気付いた時には、フレアも魔力を練り上げていた。
渾身の風魔法が、刃のように邪竜へ突き刺さる。同時に、リコベルと自分に移動速度上昇の補助魔法を発動させた。
長い封印により、邪竜の魔力もそのほとんどが損失しているのかもしれない。
アビスの術式の効果もあってか、その動きは鈍く、こちらの攻撃も通る。
リコベルとフレアは、時間をかければ倒せると確信し、互いに目配せをした。
静かな渓谷の森に、剣戟と爆発音が轟く。
魔神が、たった二人の少女によって、追い詰められていく。
ロクは、意識と体の感覚が戻っていくのを感じながら、その光景を視界に収めていた。
呪印から解放され、体から魔神が抜けた今、ロクの剥がれかけた魂は、少しずつその肉体に戻りつつある。
指先が、ぴくりと動く。
ロクは、体の自由がゆっくり戻ってくるのに、もどかしさを感じていた。
見据えた先には、リコベルとフレアによる、幾重にも折り重なる波状攻撃で、みるみる内に、魔力を削ぎ落とされていく魔神が見える。
もしかしたら……このまま。そんな、淡い期待を抱いたその時だった。
――咆哮。
魔神の意地とでも言うのか、邪竜のアギトから放たれた、赤黒い魔力の波動が、あっけなく希望の芽を摘んだ。
「っ!?」
「ぐっ!?」
二人は、咄嗟に魔力で防いだものの、その凶悪な力を殺しきれず、後方へと吹き飛ばされてしまった。
生きてはいるようだが、リコベルも、フレアも、すぐに動ける状態では無さそうだ。
そして、冒険者と魔導士の庇護を失ったそのうしろには、小さく震える幼い女の子の姿があった。
一瞬にして、希望は絶望へと変わる。
ロクは、邪竜の脅威がアビスに迫るのをスローモーションのように感じながら、未だに言うことをきかない体に焦っていた。
邪竜の鉤爪に、魔力が増幅されていく。
ダメだ。間に合わない。
ロクの脳裏に最悪な結末が浮かんだ瞬間。
アビスは、無意識につぶやいた。
もう、わがままを言わない。お願いもしない。助けを求めてはいけない。そう、決めていたアビスの口から漏れたのは、最も信頼する者の名だった。
「ロク……たすけて」
それは、確かに聞こえた。確かに届いた。
幾度と無く、その女の子の窮地を救ってきた男が、それに応えない筈がなかった。
奇跡的に、魂の定着が加速する。
「っ!!」
呪印から開放され、体の自由を取り戻したロクは、一で動きを封じると、二を数える頃には、邪竜とアビスの間に割り込んでいた。
「……っ!?」
「あとは……まかせろっ」
ロクは、動きを止めた邪竜を見据えたまま、その拳の内へ内へと、膨大な魔力を練り上げていく。
リコベルとフレアは、未だに動きそうにない体に逆らう事なく、ただその強大な魔力に目を奪われていた。
――閃光が走る。
ロクは、消えるような踏み込みからその一撃を繰り出すと、魔神の胴体に大きな穴を穿った。
「なにそれ。馬鹿みたいな魔力っ」
「さすが先輩。魔神をげんこつでっ」
少女二人の驚きをきっかけに、その巨躯の体は灰色の瘴気となり、霧散していった。
あとには森の静寂だけが残り、辺りはしんと静まり返る。
「や、やったっ!」
リコベルは、大木にもたれかかるようにしたまま、大きく拳を握る。
ロクはふらふらと、声がした方に無意識に歩いて行くと、目の前で小さな女の子が、呆然と立ち尽くしている事に気付いた。
混乱したまま、脱力するように両膝を地面につける。
「……ははっ。なんだ、これ」
ロクは、魔法印が消滅した左腕をさすりながら、わけがわからず、乾いた笑いをこぼす。
魔神を討伐した。魔法印も無い。その事実だけが、ロクの中にじっくりと染み渡っていき、そこでようやく、すべてが終わったのだと気付いた。
「俺は……もう、死ななくてもいいのか?」
ロクは、誰に言うでもなく、自身の震える両手を見つめる。
「俺は……生きてても、いいのか?」
「……いきててほしい」
その、突いて出た独り言に、返事をする者が居た。
アビスだ。
いつもとは異なり、膝をついたロクが、アビスを見上げるような形になっている。
ロクは、しばらく無言で目を伏せたあと、がしがしと頭を掻いた。
ずっと、心に決めていた事がある。
もしも、呪印から解放されて、万が一にでも、命を繋ぐことができたら、アビスに素直な自分の気持ちを伝えようと決めていたのだ。
「ああ……えっと、アビス。あのな、俺は……」
だが、口下手なロクである。うまく言葉が出てこない。
「俺は、な。ずっと、すぐに死ぬと思ってたんだ。だから、お前と仲良くなっちゃいけないって、そう思って……」
アビスは無表情のまま、しどろもどろになりながら言葉を紡ぐロクを、じっと見つめている。
「だって、せっかく仲良くなったのに、すぐ死んじまったら嫌だろ? だから、俺はお前に嫌われないとって……でも、あれだ。もう死ななくてもよくなった。お前たちのおかげだ」
ロクは心の中から直接、ありのままの言葉を取り出していく。
「だから、さ。もし、お前さえよければなんだが、その……これからも、店に居てもいいんだ……」
ロクは、そこまで言って、いやそうじゃないと、頭を振って言葉を選びなおす。
「俺は、お前に居て欲しいんだ。お前と一緒に、これからも暮らしたいと思ってる」
「…………」
アビスは、口を半開きにしたまま、ただ立ち尽くすのみで、言葉を返せずにいた。
今度は、ロクがそれを違う方に受けとってしまったらしい。
「ああ、いや。無理にってわけじゃない。俺は馬鹿だし、愛想もよくない。もちろん、お前が他に良い引取先を望むなら、最高の場所を――」
ロクの言葉は、そこで途切れた。
アビスが、胸に飛び込んできたからだ。
「……っく。ひっ、がいいっ。ロクと……いっしょがいいっ」
ずっと、我慢してきたその言葉は、抑えきれない感情を伴って、ロクの胸へと吸い込まれていく。
「……あっ、あびす。がんばったの」
「ああ。見てた」
「ロクは……あびすのこと、きらいなんだって……っく。あびすのこと……嫌いだって、おもってだがらぁ~」
もう、止まらなかった。アビスはわんわんと声を上げて泣き、その双眸から、大粒の涙が溢れ出しては、ロクの胸へと染みこんでいく。
ロクにも、もう我慢する理由がない。
「俺が……お前のことを、嫌い? そんなわけ……あるかっ」
この時ロクは、初めてその小さな体を強く、強く抱きしめたのだった。
~終幕~
紅夜から明けたエスタディアの街並みは、朝から忙しなく、お祭りムード一色となっていた。
「フレア……その、色々ありがとな」
「っ!?」
祭りに備えて慌ただしさを増していく北区の通りで、フレアは雷にでも打たれたかのように固まった。
「なんだ?」
「先輩が……ありがとうだなんてっ。私嬉しくて、漏らしてしまいそうですわっ」
フレアは、恍惚とした表情で言い放った。
「いや、漏らすなよ」
ロクは、呆れるような視線を送る。
「ふふっ。それでは、名残り惜しいですが、私はレギオンに報告などございますので、いずれまた」
「……ああ」
フレアはあのあと、街に流れたロクの噂を払拭するため、魔導士としての力を行使してくれた。
今回の事は、とある罪人を捕らえるための魔導レギオンの画策で、ロクにはその協力をしてもらった事にしたのだ。
加盟国に於いては、魔導レギオンの名前が出れば、多少強引でも無条件に話が信用されやすい傾向にある。
少し時間はかかるかもしれないが、そう遠くない内に、材料屋としても復帰できるだろう。
「ロクっ! 準備出来たっ!!」
元気よく店の中から飛び出してきたのは、黒いドレスを身に纏ったアビスだった。
「ああ。それじゃ、行くか」
「うんっ!」
エスタディアの祭りでは、こどもたち向けに、朝から様々な催し物が成されるらしく、今日は一日アビスに付き合う事になっている。
北区を抜けて中央区に着くと、外地からも人を呼び込んでいるせいか、通りは想像を絶する人混みとなっていた。
注意していないと、すぐにはぐれてしまいそうだ。
アビスは、隣を歩くロクの手を見つめて、自分の手をおずおずと近づけていた。
自分と一緒に居たいとは言ってくれたが、だからと言って、ロクを困らせていいわけではない。
アビスは、次の機会にしようと、自制して引っ込めたのだが、突然その小さな手を温かな感触が包んだ。
「……また、迷子になっても困る」
ロクが、そっぽを向きながら、アビスの手を握っていた。
「うんっ!」
アビスは、ぱぁっと満面の笑みを浮かべ、尻尾をぱたぱたとさせながら、胸を張って自慢気に通りを進んで行く。
そんな姿を後ろから見ていたリコベルは、からかいたくなる気持ちを我慢して、二人に向かって駆け出した。
「おっす~」
「リコっ!」
だが、照れ臭そうにするロクを見たら、どうしても耐え切れなくなり、リコベルはつい口を開いてしまう。
「あんたたちって、うしろから見てるとまるでさ……」
続く言葉は喧騒に紛れる。
それでも、繋がれた二人の手は解ける事なく、弾むように隣を歩くアビスは、にこっと笑ってロクを見上げた。
もう、耐える必要はない。
ロクは、慣れない微笑みをアビスに向け、頭をわしわしと撫でてみる。
そんな折、不意に吹き抜けた暖かな風が、優しく三人を包んだのだった。
今日も魔導士は幼女に耐える 虎山たぬき @torayama-tanuki
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