第23話 魔導士は幼女のために。
「……なるほど。お話はわかりました。そのような事ならば、喜んでお受け致しましょう」
薄暗い執務室に、男の声が静かに響く。
ロクは、まっとうな商人ならば、絶対に付き合ってはならない闇商会の門をくぐっていた。
「これが、前金だ」
ロクは、テーブルの上に、金貨の入った袋を置く。
その額は、上質な奴隷が買えるほどだった。
頬のこけた男は、ロクをまっすぐに見据えたあと、金貨の枚数を数えていく。
「……確かに。それでは、細かい打ち合わせに移りましょうか」
男は、数え終えた金をしまうと、悪魔のような笑みを浮かべた。
ロクが、高額な報酬を提示してまで闇商会に依頼したのは、とある噂を流させる事だ。
そして、その裏付けには、この商会の名前が出るのが最も都合が良かった。
多少強引だとしても、今日中にすべてを終わらさなければならない。
細かい打ち合わせが始まると、さすがは蛇の道は蛇、といったところだろうか、半刻も経たぬ内に、計画はまとまりをみせていった。
こんな方法しか残されていないのが悔やまれるが、とにかく事を進めていくしかない。
その後、不本意ながら男と握手をかわし、闇商会をあとにした。
もう、後戻りはできない。
ロクは、通りを歩きながら、大きく一つ伸びをする。
時刻はまだ早朝で、街はまだ朝市が始まったばかりの頃合いだ。
陰鬱な気持ちのまま、闇商会と新興商会が雑多に立ち並ぶ、東区の路地を抜けると、すぐに中央区の喧騒が近付いてきた。
相変わらずの賑やかさだが、いつもと少し違うのは、親に何かをねだる、小さな者たちが居ないからだろうか。
今日は、紅夜への備えで慌ただしくなるので、街のこどものほとんどは、早くから学校へ行かされている。
それは、アビスと行動を共にする必要がないという事で、ロクにとっても好都合だった。
大きな通りに入ると、辺りは昨日以上の人混みとなっており、商人だけではなく、冒険者たちの姿も多く見られる。
紅夜の前には、凶暴化した魔獣が入ってこられぬよう、街に敷かれた結界を強化しなくてはならない。
リコベルも、街の外壁の方を任されていると言っていたので、今頃は額に汗している筈だ。
街で暮らす者たちは、いざとなれば、それぞれの役割を分担し、一致団結するものである。
だが、街の一員としての役割を持たず、独りを選択したロクにとっては、もう関係の無い事だ。
すべての下準備を終え北区へ入ると、職人たちも結界に必要な魔導具作りに追われているようで、通りは駆け回る小僧と商人でごった返していた。
「おやっ、ロクじゃないか? 仕入れの方はいいのかい?」
不意に声をかけてきたのは、アゼーレだった。明日に延期された祭りに向けて、買い出しに来ているのだろう。
「ああ。少し野暮用があってな」
「そうかい。それにしても、祭りの日に紅夜なんて、神様も水をさしてくれるね」
「……本当にな」
「じゃあ、また夜に……っと、そうだっ。明日はこどもたちに、とっておきのメニューを用意してるから、アビスちゃん連れて食べに来なっ。必ずだよっ!」
アゼーレは仕込みで忙しいのか、そんな事を言い残して、颯爽と人混みの中に消えていってしまった。
ロクは、そのうしろ姿を見送って、明日か、と胸中でつぶやく。
この体は、間違いなく今夜の内に朽ちるだろう。
もう、期待や希望は必要ない。あとは、やるべき事をしっかりとやって、自分に課した役割を果たすだけだ。
ロクは、まっすぐ店へ戻ると、二階の寝室へと向かい、自身の秘密に関わりそうな物が残っていないか、最終確認を念入りに行なっていく。
なるべく自然な形で、生活感を残しつつが理想だ。
しばらくして一息つくと、下の階から店の扉が開く音が聞こえてきた。
義務を果たそう。
ロクは、瞬間的に高まった鼓動を落ち着かせ、一度目をつむり覚悟を決めると、ゆっくり梯子階段を降りていく。
「ただいまっ」
アビスは、ロクに気付くと嬉しそうに駆け寄ってきた。
「今日もいっぱいべんきょーした。むずかしい文字ができるようになったら、もっとお手伝いできるっ」
アビスは、学習用の文字が書かれた紙からロクに目を向けると、にこっと笑った。
決心が揺らぎそうになる。すべてを打ち明けて、感情をぶちまけてしまいそうになる。
だが、そんな事が許されるわけがない。決めたのだから、あとは冷静に、確実に、任務を遂行するのみだ。
ロクは、エスタディアで培った人並みの感情を捨て、無理矢理に魔導士としての自分を取り戻した。
頭の中が、急激に冷えていく。
その後も、うつろな空返事を繰り返すロクに対して、アビスはよく喋った。
だが、彼女の言葉が、もうロクに届く事はない。
そこに居るのは、のんびりと北区に居を構える材料屋ではなく、ただの一人の魔導士である。
やがて日が傾き、計画を実行に移さなくてはならない時がきた。
アビスはと言えば、ご飯の時間を期待しているのか、文字の教本を読みながら、尻尾をひょこひょこと揺らしている。
迷いはない。
ロクは、無感情な瞳でそれを見ると、静かに切り出した。
「アビス、聞いてくれ。俺はこれから……お前を奴隷商に売りに行く」
「っ!?」
突然の話に、戸惑いの色を見せるアビスの表情は、ロクの真剣な眼差しを見て、たちまちの内に凍りついていく。
「聞こえなかったか? 俺は、お前を売ることにした」
「で、でもっ……あした、おまつりで……新しいおようふくで……」
その小さな体が震え、紡ぎだす声も掠れていく。
「いいから来いっ!」
ロクは、無理矢理にアビスの腕を掴むと、店の扉を開け放った。
茫然自失状態となった幼女の腕を引き、ひとけの少ない細い路地を進んで行く。
少しして、アビスが何か言葉を思いつくよりも先に、北区で最も人の往来がある通りにたどり着いた。
視界の先には、仕事を終えた、多くの商人や冒険者たちの姿がある。
ロクは、行き交う人々を確認すると、あろうことか、突如アビスの髪の毛を掴んだ。
「痛いっ。いたい……ロクっ」
「金を返すためだっ! 諦めろっ!!」
ロクは、わざと注意を引くかのように、大声をあげた。
「っ!?」
普段聞かないロクの声に、アビスの体はびくりと強張った。
幼い女の子に対して、奴隷を躾けるような振る舞いを見て、通りすがりの商人や冒険者たちが、怪訝そうに眉をひそめる。
「おらっ、見せもんじゃねえぞっ!」
ロクは、酔っ払ったゴロツキのように、目を向けてくる者すべてを威嚇する。
何かしらの騒ぎになっている。周囲にそんな印象を感じさせるのが狙いだった。
「あんた、なにしてんのよっ!?」
そして予定通り、そこに赤髪の少女が通りかかった。
「なにって、これからこいつを売りに行くところだ」
「は?」
「こいつを奴隷商に売るって言ってんだ」
「なんで……そんなことっ?」
リコベルは、突然の話とロクの豹変ぶりに理解が追いつかなかった。
「とにかく離しなさいよっ! アビスちゃん痛がってるじゃないっ」
「こいつを拾ったのは俺だっ。どうしようと勝手だろっ」
その瞳にはかけらの感情も無く、リコベルが知っている材料屋とはかけ離れていた。
そんな二人のやりとりを聞いていたアビスは、髪をわし掴みにされながらも、意を決してロクを見上げる。
「あっ、あびす、もっといいこにするから……もっと、お手伝いもするのでっ」
アビスは、自分のせいでロクを怒らせたと勘違いし、泣いてしまわぬように耐えながら、何とか許してもらおうと必死に言葉をひねり出した。
胸が、抉られるようだ。
ロクは、何かを言いかけて一度口をつぐむと、拳を強く握りしめ、再び口を開いた。
「いらねえよ。お前みたいな悪魔憑きと一緒に居たら、俺が呪われて不幸になっちまうだろうがっ!」
その言葉をきっかけに、ロクが髪から手を離し突き飛ばすと、アビスはその勢いのままよろよろと数歩進み、力なくへたり込んでしまった。
「ごっ、ごめ……ごめんなさっ……」
そして、アビスの双眸からにじみ出た雫が、頬を伝った。
「ロクっ!!」
リコベルは、その許されない言葉に我慢の限界を超え、咄嗟にロクの胸ぐらをつかんで壁に押し付ける。
「あんた、自分で何言ってるかわかってんのっ!? 今すぐアビスちゃんに謝りなさいっ!」
「……なんで俺が謝らなきゃなんねえんだ? それにお前だって、肩身の狭いよそ者と哀れなそいつに同情して、優しい冒険者気取って楽しかっただろ? 悪いが、これ以上はお前の趣味には付き合えねえ。もう、俺たちに構わないでくれ」
もしも、本当のことを知れば、リコベルは自分を救おうと必死になるかもしれない。そうなれば、彼女にも救えなかったという重荷を負わせることになってしまう。
「それとも、お前がそいつの代わりに売られてくれるのか?」
ロクは、下衆な笑みをリコベルに向ける。
「っ!!」
リコベルは、言葉にならない怒りから拳を振り上げるが、ゆっくりと弱々しくそれは下ろされた。
「私は、ずっと……っ」
肩を震わせ、言葉を詰まらせるリコベルの瞳には、涙が浮かんでいた。
「どけっ! リコベルっ!」
「っ!?」
突如、野太い声が辺りに響くのと同時に、ロクの頬には、どでかい拳が突き刺っていた。
そのゲンコツの持ち主は、テッドの父親であり、北区の職人を取り仕切る顔役でもある。
「ちったぁ骨がある奴だと思ってたが、とんだ勘違いをしちまったようだ。この子は、てめえみてえなクズには渡さんっ! 二度と北区に足を踏み入れるなっ!!」
そう言い放つと、その大柄な体で、放心状態のアビスを庇うように立ちはだかった。
闇商会は、きっちり仕事をこなしてくれたようだ。
周囲には、騒ぎを聞いて駆けつけて来た職人たちが集まっており、皆同様にロクを睨みつけ、アビスを守るように構えている。
……よかった。やっぱり、良い人たちだ。
ロクは、頬に走る痛みを感じるより先に、安堵していた。
これなら、安心して任せられる。気の良い職人たちが、リコベルが、アゼーレが、きっとアビスに良くしてくれるに違いない。
何の事はない。アビスの引取先として最も適しているのは、ここエスタディア北区だ。
ならば、それを邪魔してはならない。
この街から居なくなるのは、彼女では無く自分なのだ。
「こんなくそみてえな場所、こっちから願い下げだっ!」
「んだと、てめえっ!」
若い職人の一人が、痺れを切らしたその時。
「居たぞっ!!」
打ち合わせ通りに、闇商会の強面たちが、借金の取り立てを装って現れた。
ロクは、がばっと起き上がり、呆気にとられる職人たちを突き飛ばして、逃げる振りをする。
これで、終わりだ。
あとは、闇商会の手練手管で話の辻褄を合わせ、商売敵がそれに便乗してくれれば、あっという間に事実として受け入れられるだろう。
あいつは、初めから皆を騙すつもりでやって来た、悪人だったと。
アビスの事は、結局傷つけてしまったけれど、自分のことなど早く忘れて、少しずつ前を向いてくれればそれでいい。
それからロクは、ひたすらに走り続け、街から出ると、途中からは闇商会に用意させた早馬に乗り、当ても無く進んだ。
できるだけひと目がなくて、静かならどこでもいい。
なるべく何も考えないようにしながら、赴くままに山道を走り、森に入ってからは馬からも下りて、ぼんやりと歩き続けた。
紅夜という事もあり、道中にひとけはない。
やがて、草木が生い茂る静かな谷の中腹を進んで行くと、少し開けた場所にたどり着いた。
空には、自身の終わりを意味する紅い月が、燃えるように輝いている。
ロクは、ここらでいいだろう、と何気なく辺りを見回して、思わず苦笑してしまった。
ここは、あの日アビスと出会った渓谷の森だ。
まったく、どこまで自分は彼女に執着しているのだ、と嘆息した瞬間。
「っ!?」
突如、膝から下が無くなってしまったかのように、ロクはその場に崩れ落ちた。
左腕に刻まれた魔法印が、嘲笑うかのように妖しく煌めいている。
間もなくして、禁忌の術式が始まるのだろうか、身体の感覚が少しずつ薄くなっていった。
ロクは、アビスを拾った洞穴を視界に収めながら、這うように近づいて行き、真下にある大きな岩石に背中を預ける。
もう、あそこへ登る力は残されていなかった。
ぼんやりとしてくる意識の中、ロクはアビスとの事を思い返す。
買ってやった串を美味しそうに頬張る姿、一生懸命に仕事の話を聞く真面目な表情、驚いた時に膨らむ尻尾。その記憶すべてが、ロクを暖かな気持ちにさせる。
そう言えば、苦いお茶とジュースを取り替えた時は、自分にもあんな事をしようと思ういたずら心があったのかと、驚いたものだ。
……楽しかった。
ロクは、アビスと過ごす日々が、本当に楽しかったのだ。
それは、魔導士として生きてきて、初めての感覚だった。
「……死にたくねえ」
本音だった。
だが、そんな弱音はすぐにかき消される。
これはすべて、暖かな日々のぬくもりに甘え、徹しきれなかった自分の罪なのだ。
何気なく、震える手を月にかざしてみる。
結局この手は、彼女を撫でる事も、守る事もできなかった。
我ながら、情けないてのひらだ。
むしろ、救われたのは、自分の方だった気がする。
初めは、何でもなく死のうと思っていたのに、アビスと出会ってからは、毎日に色が付くようだった。
騒がしく食べるご飯は美味しかった。二人でする仕事は楽しかった。一緒に過ごす就寝前は心が安らいだ。笑ってくれると嬉しかった。
思い出すと、数えきれぬ感情が込み上げてくる。
最後に、良い思いをさせてもらった。
今も目を閉じると、傍らで尻尾を振りながら、自分が話しかけるのを待ってくれているような、そんな姿が浮かんでくる。
ロクは、アビスの幻想が消えてしまわないように、この暖かな記憶が薄れないように、その居るはずもない幻影に向かって、最大の感謝を込めて、
「ありがとう」
と、こぼしたのだった。
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