第11話 魔導士は幼女を預けてダンジョンへ行く 前編~麦のシッポ亭にて~

「リコ、こない?」


 アビスは、同じ絵本を何度か読み返したところで、耐えかねて口を開いた。


「いや……そうだな」


 ロクたちは、いつものように麦のシッポ亭でリコベルを待っていた。来た時はまばらだった客も、今ではほとんど満席となっている。


 もしかしたら、何かあったのかもしれない。


 そんな事が脳裏をよぎった時、店の大きな扉が開け放たれた。


「たっ、頼むっ! 誰かたすけてくれっ!! 幻獣が出たんだっ」


 今にも泣き出しそうな顔をした冒険者らしき男は、大きく肩で息をしながら、そんな言葉を絞り出した。


 騒がしかった酒場に静寂が流れ、客達の顔が明らかに凍りついていくのが見て取れた。


「お、落ち着けっ。場所は? どこのダンジョンだっ?」

「……サヴラ遺跡だ」

「サヴラ遺跡っ!? なんで、あんなところに?」


 常連客の冒険者たちが駆け寄り、とにかく一度男を座らせ、細かく話を聞きはじめる。


 幻獣という言葉を聞いただけで、流れの冒険者を中心に、次々と酒場を出て行ってしまった。


 普段は陽気で和やかな北区の商人たちも、強張った表情でことの成り行きを見つめている。


「ロク……?」


 アビスは、どうにも嫌な予感がして、不安げにロクを見上げた。


 幻獣。瘴気が濃い場所に湧いて出たように出現する、超強力な魔物の総称である。その強大な力故に冒険者殺しとも呼ばれ、ダンジョン内では最も出会いたくない相手である。


「……結界持ちだった」


 男は震える声で言って、頭を抱えた。


 それを聞いた冒険者たちの顔が青ざめていく。


 幻獣の結界は、外側からは認識できず、気付いたら中に居た、という事がほとんどだ。


 そして、一度中に入ってしまうと、幻獣を討伐するまで外に出ることは叶わない。


「俺は、パーティーメンバーとは少し遅れてその階層に降りたんだ。そしたら、盾役の奴が、結界持ちの幻獣が出たからこっちには来るなって。街に戻って助けを呼んでくれって。あいつらも……今頃どうなってるかっ」


 男は、悲痛な表情で拳を握りしめる。


「と、とにかくギルド組合に連絡だっ。それと、中央区の冒険者にも依頼をっ」


 北区の冒険者を中心に、麦のシッポ亭は慌ただしさを増していく。


「女将っ。クエスト遂行者の一覧をくれ」


 ロクは、アゼーレから紙の束を受け取る。


 そこには、サヴラ遺跡での依頼を受けている冒険者の名が記載されていた。


 ロクは、上から順に名前を指で追っていく。


 しばしの沈黙に、アビスは思わずワンピースの裾を掴んだ。


「……リコベル・クルーガー」


 そして、ロクはその名を小さくつぶやいた。


 つまり彼女は今、幻獣との交戦中か、逃走中か、あるいは既に……ということだ。


 リコベルの名前を聞いたアゼーレは、思わず口に手を当てた。


 恐らく、今日の内にまともな救援隊が向かう事はないだろう。まず、報酬金を誰が用意するのか。その額が命を賭けるのに見合うのか。どのような幻獣なのか。何一つ確かな事がないのだ。


 命あっての物種である。


 領主を後ろ盾にした公式な依頼を出さない限り、中央区の冒険者や外部の手練れが動くとは思えない。


 そして、ここ北区には幻獣と戦えるような冒険者は少ないのが現状だ。


「女将、アビスを頼む」


 ロクは、上着を羽織りながら徐ろに席から立ち上がる。


「あっ、あんた。どうするつもりだいっ?」

「……知り合いに凄腕の冒険者がいる。話だけでも聞いてくれるかもしれない」


 嘘だ。ロクにそんな知り合いはいない。


「……そ、そうかい。頼んだよ」


 アビスは、ロクのシャツの裾をちょいと掴み、何かを言おうとして、口をつぐんだ。


「大丈夫だ。すぐに戻ってくる。リコベルも一緒にだ」

「……うん。まってる」


 ロクは、いたずらに騒がしさを増していく酒場を出ると、一直線に自身の店へと駆けて行く。


 ここからは、時間との勝負だ。


 狭い通りを幾つか抜けると、すぐに小さな材料屋にたどり着いた。


 乱暴に店の扉を開け放ち、バタバタと梯子階段を登っていく。


 記憶を思い返しながら、雑多に魔導具が置かれた棚を漁り、紫色の液体が入った小瓶を取り出した。


 それは、一定時間だけあらゆる制約から解き放つ事ができるという、世界の理すらを捻じ曲げる魔女の秘薬である。


 魔導士として最前線に立っていた頃、とある魔女から仕事の報酬にともらった物だ。


 これを使えば、少しの間だけ魔法印の束縛から解放され、元の魔力が戻るだろう。


 急がなくては、と思う一方で、小瓶の栓を抜くのに躊躇する自分がいる。


 魔女の秘薬は、何かしらの方法で自身と邪竜を分断できた時に、一か八かで使おうと思っていた物だ。


「……馬鹿か俺はっ」


 この期に及んで迷っている自分に気付き、頭を振って決心する。


 これを対魔神用に取っておいても、討伐できる可能性は絶望的だが、リコベルの事は十中八九救える筈だ。 


 リコベルが死ねば、アビスの心に深い傷を負わせることになるし、ロクだってあの赤髪の少女が命を落とすのは思うところではない。


 今救える命を確実にだ。


 ロクは、魔導士時代の教訓を思い浮かべ、小瓶の中身を一気に飲み干した。


「ぐっ!?」


 瞬間、全身に雷にでも打たれたかのような衝撃が走る。


 だが、それはすぐに収束し、代わりに左腕の魔法印がスッと消滅していった。


 魔力が満ちていく。


 一時的に最強を取り戻した魔導士は、その懐かしい感覚に浸る間もなく、件のダンジョンへと向かったのだった。

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