第8話 魔導士の手は幼女に届いてはいけない。

「それじゃ、また明日ね」

「ああ」


 リコベルは、風呂あがりでほかほかになったアビスをひと撫でして、自身のねぐらへと帰っていった。


 見送るアビスの背中に寂しさが透けて見える。


 街は酔っぱらいと警吏が行き交うのみとなり、この小さな材料屋にも就寝の時間が近付いていた。


「もう寝るぞ。先に二階へ行ってろ」


 アビスは頷き、よいしょ、よいしょ、と梯子階段を登っていった。


 昨日は、既に眠っていた状態のをソファーに転がせたが、今日は寝付くまで二人の時間となる。情を持たれぬよう、うまく躱せるだろうか。少し不安になる。


 ロクは、店内を一度見渡し、梯子階段を登っていく。


 二階へ着くと、アビスは自分の居場所に困っているようで、部屋の真ん中で立ち尽くしていた。


「お前はそこのソファーで寝てくれ……ほら、これ使えよ」


 ロクは、買っておいた厚手の掛け布団を投げて寄越す。


 アビスは、ソファーにぽふっと座った後、仰向けになったり、うつ伏せになったりしながら、ふかふかの寝心地に感心しているようだった。


 北の亞人の集落では、未だに土の上で寝る者達も居ると聞く。もしかしたら、彼女もそうだったのかもしれない。


 アビスは、ひとしきり堪能すると、尻尾をふわふわと泳がせながら、絵本を広げだした。


 リコベルが買ってやった、かわいい魔獣百選だ。女冒険者らしい選択だとは思うが、もっと他になかったのか、とも思う。


 何にせよ、このまま寝てくれれば助かる。ロクは思いながらベッドに座り、アビスの引取先に当たりをつけておこうと、地図を広げた。


 だが、どうしても視界の端で尻尾がちらついてしまい、思うように集中できない。


 何気なく、絵本に夢中になっているアビスを見る。


 ロクに気を使ってか、小さな声で絵本を音読している。時折、視線を斜め上に投げて、何やら考える仕草をするのが妙に微笑ましい。


 だがロクは、そんな愛くるしさとは、まったく違う視点でアビスを見ていた。


 意外と毛は抜けないもんだな。ふさふさの尻尾と、綺麗なままのソファーを見て、そんな事を思っていた。


 あんなに、もふもふ、ふさふさしているのに。


 リコベルが、いつもアビスにしているように、自分もあれを好き放題できたらどんな感じだろう。

(……触ってみたい)


 きっと、もこもこで、もふもふで、温いに違いない。


 彼女の尻尾について真面目に考えていると、視線に気付いたのか、アビスがロクを見て、うん? と、小首を傾げた。


 ロクは咄嗟に目を逸らす。気にしては駄目だ。何がきっかけになるかわからない。誤魔化すように再び地図に目を落とした。


 そんなロクとは裏腹に、アビスはソファーを降りると絵本を持って、とてとてと歩いてきた。


 まさか、一緒に寝たいなどと言うのでは? ロクは少し身構える。


「ロク。これは、なんていう?」


 だが、それは杞憂に終わった。アビスは読めない文字を聞きに来ただけだったらしい。


「ん。ファングキャットだ」

「ファン、キャット……ありがと」


 アビスはお礼を言うと、再びとてとてと、ソファーに戻って行く。ロクは、ひとまず胸を撫で下ろした。


 もう、これ以上、彼女に冷たく当たるのは嫌だった。


 向こうから、壁を作ってくれればありがたいのだが。そんな情けない思考が渦巻いていく。



 一方で、アビスはこの静かな時間に心地よさを感じていた。薄明かりのせいか、ロクが少しだけ穏やかに見えるのも理由の一つかもしれない。


 アビスはまだ、ロクとの距離感は探り探りである。当然、面倒を見る気は無い、と先手を打たれてしまっているので、甘える事ができないからだ。


 ロクは気付いていなかったが、アビスは買い物の途中、手を繋ぎ往来する親子を見て、何度かロクの手を見つめていた。


 彼女の中には、常に寂しさと、誰かに甘えたい欲求がある。


 アビスは、生まれてすぐに両親を失った戦争孤児だ。それ故に、元居た集落でも肩身の狭い思いをしてきた。


 北の地では、同胞を見捨てる行為は外道とされる。しかし、だからといって厚遇されるわけではない。当然、その貧しさ故に、孤児の面倒を見るというのは、貧乏くじに他ならないからだ。


 保護者の大人たちは、自分のこどもとアビスを同列に扱わなかった。それは、食事、衣服、労働、対応、あらゆる事に及んだ。


 それでもアビスは、仕方のない事だと、幼いながらにどこか本能的に悟っていた。


 そんな環境で暮らしてきたのだ。彼女に誰かとの深い繋がりは無い。


 だから、アビスは素直に甘えられて、安心できる相手が欲しかった。


 絵本を読む振りをしながら、そっとロクを盗み見る。


 無愛想で、口数の少ないその男は、近寄りがたい雰囲気を放ってはいるが、自分の事をぶったり、無闇に怒鳴ったりしない。それどころか、美味しいご飯を食べさせてくれたし、暖かい寝床を用意してくれた。


 そして、何よりそばに居てくれる。


 でも、ずっと一緒には居てくれないらしい。アビスは傍らに置いたぬいぐるみに、ぎゅっと力を込める。


 自分は、彼に対してどう接すればよいのだろうか。それが、わからない。


 そんなことを考えていると、段々と瞼が重くなってきた。


 まだ、眠りたくない。ロクと、お話を……。


 やがて、アビスの意識は闇に染まり、その小さな手から、絵本が床に落ちた。



 その音に気付き、ロクはちらりと視線を向ける。


 アビスは、すーすーと寝息を立てて、深く寝入っているようだ。ロクも、眠りにつこうと地図を畳み横になる。


 何気なく部屋を見渡すと、壁にかかる可愛らしい衣服が視界に入った。使っていなかったソファーには、うさぎのぬいぐるみと、それを抱きしめる幼い女の子の姿がある。この部屋も随分様変わりしたものだ。ロクは今更そんなことを思った。


 ぼんやり天井を見つめていると、不意に一つの考えが沸き起こってくる。


 馬鹿な、とそれを否定する心の声を無視して、ロクは徐ろにベッドから起き上がった。


 あくまでも可能性の話だ。自分にそう言い聞かせると、これまでに収集した膨大な数の書物を漁り始める。


 それから夜は更けていき、ロクもそろそろ眠りにつこうかという頃だった。


「~~っ!?」


 アビスが突如、聞いたことの無い誰かの名を叫んだ。


 ロクは驚きソファーへ駆け寄る。


「どうしたっ?」

「ひっ!?」


 アビスは、ロクの問いかけに小さく悲鳴を漏らし、仰け反った。


「落ち着け。夢だ」


 ロクは、リコベルがやっていた事を思い出し、しゃがみこんで視線をアビスに合わせる。


「ロク……ゆめ?」


 混乱しているのか、アビスの焦点が合わない。


「ああ、ただの夢だ」


 アビスは、じっとロクを見つめた後で我に返り、これ以上迷惑を掛けないよう、もぞもぞと布団の中に戻っていった。


 だが、頭からかぶった布団は小刻みに震え、中からはすすり泣く声が聞こえてくる。怖い夢でも見たのだろう。


 何とかしてやりたい。


 ロクは、無意識の内に手を伸ばしていた。


 だが、その手は、幼い女の子の震える背に届くことなく、虚空を掴んだ。


 一瞬、自分が何をしようとしたのか、わからなくなる。

(なにやってんだ俺は……)


 ロクは自身の手を睨みつけて、お前の役目はそれではないだろ、と強く戒める。


 恐らく、自分で彼女の面倒を見てやることはできない。


 やがて、アビスはゆっくりと呼吸を続けるだけとなり、再び寝入ったようだった。


 何もしてやれない自身の無力さにため息が出る。だが仕方ない事だ。今更、何が変わるわけでもない。自分は、彼女に良い引取先を探してやるのが役目なのだ。


 それでも、もしかしたらという思いがロクを突き動かし、遅くまでランプの灯りが消えることは無かった。

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