(2)

 側溝で衰弱死していた子供の件。


 江畑さんは事件性がないと幕を下ろさずに、保護責任者遺棄致死罪の適用も視野に入れて捜査を続行した。もちろん親がすでに本国へ強制送還させられている以上、遡及してその罪科を問うのは難しいだろう。江畑さんの捜査の真意は、犯人逮捕ではなく子供の身元の特定だったんじゃないかと思う。せめて、名前のついた墓に納めてやりたい。そういう思いを……俺も江畑さんもずっと抱えていたんだ。

 しかし鬼畜親に該当しそうな連中は揃って子供の存在を強く否定したそうだ。不法入国以外の罪を追求されれば、日本だけでなく母国でも厳しく罰せられるんじゃないか。保身意識が強く働き、彼らの口を噤ませたのかもしれない。


 俺は、最初に死体を見た時それが男の子かと思ったんだ。髪は短かったし、顔つきからもそういう印象を受けた。しかし……亡くなっていたのは女の子だった。もちろん、亡くなっていたのが男の子であっても女の子であっても凄惨な最期であることに違いはない。だが、俺は……やり切れなかった。

 もっとやり切れなかったのは、それを聞いた梅坂ばあちゃんだろう。あの気の強いばあちゃんが目に涙を浮かべながら俺の報告を聞き、ぽつりと漏らした。


「欲しいと願うあたしには恵んでくれず、要らんという鬼畜に子供を投げ与えるなんてさ。神さんと言うのは本当にむごいことをするね……」


 俺は、なんと答えていいか分からなかった。ばあちゃんは、言葉を失ってうなだれてしまった俺にそっと声を掛けてくれた。


「中村さん。あんた方は大丈夫さ。何があっても立派に息子を育て上げるだろう。そして、あんたの息子はそれを誇りに思うだろう。そういうのは、ちゃんと親から子へ受け継がれるんだよ」


 ばあちゃんは以前茶壷の置かれていた小さな仏壇に向かって手を合わせ、目を瞑り、小声で唱えるようにして繰り返した。


「秋子。今度は、中村さんのような親から生まれといで。きっと幸せにしてくれるはずさ」


◇ ◇ ◇


 小林くんのお姉さんの悲劇、犬泥棒の騒動、かつあげ騒動と、立て続けにしんどい事件に噛んでしまった岸野くん。ゴキホイみたいに、よくもまあ厄介な事件ばかり引っ張ってくるよなあと感心してしまう。それでいながら彼が陰惨な事件現場を見ないで済んでいるのは、単なるラッキー以外の何ものでもない。その幸運がずっと続いてくれることを、俺は切に祈る。

 彼のアンテナの感度が俺並みにいいのは、決してほめられたことではない。なぜなら彼はまだ子供で、起きた事態を自力で消化するだけの胆力と馬力がないからだ。特殊な能力は、もうちょい別のところで発揮してもらいたいもんだが……。


 それでも俺は、彼が至極真っ当にオトナへの階段を上がっていることに安心する。年頃から言って、親も含めてオトナの支配する社会への反発が強くなる時期だ。それが理不尽に暴発してグレてしまう子は決して少なくない。でもグレるのはまだいい方なんだよ。麻疹みたいなもんだからな。不満や衝動を形に出来ず、吐き出せず、消化不良のままずっと抱え続け、いつの間にか腐って、最後に性格をひどくひん曲げてしまう……その方がずっと恐い。

 岸野くんは、おかしいと思うことはおかしいとストレートに言う。中途半端に納得しない。そして、親が彼の意志表示を頭ごなしに潰そうとしていない。おかしいと言いっ放しではなく、どう咀嚼し自分なりにオチをつけるかを親子それぞれで探ってる。すっごく理知的な家庭なんだよね。


 そうした課題消化プロセスが全く機能せず、結果として悲劇を呼び込んでしまったのが小林くんのお姉さんのケースだ。説明できない反発や忌避を、親にだけでなくて周り中にばら撒いた娘は当然の如く孤立した。親はその孤独を甘く見て、無神経に押さえ付けようとして火に油を注いでしまった。そして……。彼女は、自分に起きてしまったことをまだ全く消化出ていないらしい。


 フレディは、自身の用心も兼ねて事件解決後も依頼者や関係者をしっかりフォローアップする。例の件についても、岸野くんのお父さんを介して小林くんのご両親の相談に乗っている。予想通りだったが、リハビリは難航しているそうだ。

 覚せい剤による急性中毒の状態はどうにか脱したらしい。いわゆるヤク抜きは一応済んだということになる。だが、ヤク中から抜け出せたらすぐに社会復帰というわけにはいかないんだ。事件以前からずっと彼女が抱えている厄介な自意識の問題が、何一つ片付いていないだろうから。


 トラブルの元々の素地は、彼女が思春期独特の過剰な自意識を自力でうまく消化出来なかったことだと思う。自分を特別視、聖人視し、そう見てくれない周囲を疎み、現実をことさらバカにしたり虚構に逃げ込もうとすること。いわゆる中二病。極めて幼い思考だと思うが、決して彼女だけの特殊事情ではない。自意識が先に立つ傾向は岸野くんにもあるし、俺もそのステージを通ってきた。

 理想と現実のずれが生み出す泥沼にどっぷり浸かって強い軋轢を実体験し、泥沼を自力で渡り切ることによって俺たちは成長する。苦闘の際泥だらけになるのは珍しくもなんともないし、そうなることは勲章でも授業料でもあると思う。この前のわんこの事件なんざ、俺にとってはまさにとんでもない泥沼だった。俺が苦境を自力で渡り切ったなんて口が裂けても言えない。

 だが、渡り切らなきゃ泥沼に沈むだけさ。どんなに不格好でも、全力で足掻かない限り抜け出せないんだ。小林くんのお姉さんは、まだ足掻く力が弱いんだろう。自分が力づくで汚され壊されたことを嘆き、呪い、膝を抱いて自己愛の籠の中に閉じこもったまま。いくら外から介助の手が差し伸べられても、自分を悲劇のヒロインと看做し介助されるのが当然だと思う意識が強く残っている限り泥沼からは決して出られない。足掻く力がどんどん衰えるだけだ。


 薬物中毒の治療やリハビリってのは、事件前の原点に近づけるためのプロセスだ。地獄から遠ざかれるだけで、過去をなにもかもちゃらにしてくれるわけじゃない。失われた時間だけは絶対に元に戻せないからね。だが、今の未熟な彼女には自身の惨状を直視できないのだろう。

 振り出しにすら戻れず世の中から取り残されていることに絶望し、ひたすら現実逃避しようとする。ヤクの支配から抜けたと言っても、ヤクが作り出した感覚は経験として残ってしまうんだ。その別世界は逃避先になりやすいんだよ。逃避癖がこじれて再びヤクに手を出すなんてことがなければいいけどな。自発的にやらかしたらもう被害者じゃない。今度は犯罪者になってしまうのだから。


 俺にとっても彼女の悲劇は他人事じゃない。息子も、成長の過程で必ず同じ泥沼にはまるだろう。その時に俺が息子にどう向き合うのか、向き合えるのか。今はまだ何も分からないんだ。


◇ ◇ ◇


 子供に絡んだハプニングや事件が続いて。俺も、否応無しに我と我が身を振り返ることになった。

 岸野くんには偉そうなことを言ったが、なあに。俺も岸野くんくらいの頃は、世間知らずのクソガキだったなあとしみじみ思う。あのしょうもない親の二の舞をするくらいなら、ゴミ箱漁って暮らした方がマシだ。所構わず、そう吠えまくっていたからな。


 しかしいざ親元を飛び出して見たら、世の中ってのは俺が思っていたほどまともでも、オトナでも、優しくも、快適でもなかった。漁れるゴミ箱すらないのが世の中ってもので、俺がどれほど実社会を舐め切っていたのかを骨の髄まで思い知らされた。すちゃらかな親は大嫌いだったが、親がすちゃらかでいられるということは、そう出来る能力があるからなんだと。悔しいが、認めざるを得なかった。

 俺が、両親のことをろくでもないと思いながらもばっさり切り捨てられないのは、親の途方もないたくましさ、したたかさを俺がまだ上回れないからだ。両親のタフさは、生活力の多少で計れるような皮相的なものではない。己の思想信条ライフスタイルがどれほど世間様とズレていようが意に介さず、逆にそれを周囲に有無を言わさず呑ませることが出来る強靭な精神力こそが、俺の両親の身上なのだ。


 俺は、ごきぶり並みに生命力、生活力が高いことは自慢できるが、だからと言ってごきぶり呼ばわりはされたくない。底辺の生活に耐えることと、プライドを持ってそうすることの間には天と地ほどの差がある。


 俺が、なぜ釘を抜かなかったか。

 ひろに刺さっていた釘は、強烈な意地とプライドだった。それを下らんと評することは、ひろを全否定することになる。だから抜いた方がいいとお勧めはしたが、絶対に抜けとは言えなかったんだ。根性を据えて一気呵成に釘を引っこ抜いてしまったひろは、さすがだなあと思う。


 だが俺の釘は違う。俺に刺さっていた釘は、実は親への単なる不信感ではない。しょうもない親だとこき下ろしていながら、そのしょうもない親すら乗り越えられない情けない自分に対する、歪んだコンプレクスこそが釘だったんだ。

 それは……まだ抜けない。抜かないんじゃなく、抜けないんだ。親の過去の振る舞いを許すとか、親の行状を許容するとか、そういうレベルの話じゃないからな。じゃあ、あんたは親にそんなことを言えるようなご立派な生き方をしているのか? もし親にそう詰問されれば、即座に反駁出来ない自分が……ここにある。自分で自分のことをヒモだのごきぶりだのと思ってしまう卑屈さ。そのコンプレクスを、仕事で全部昇華させようとしてしまういびつさ。とてもじゃないが、俺は小林くんのお姉さんのことなんか偉そうに糾弾出来ないよ。


 俺の場合厄介なのは、その解決の糸口がまだ見つからないってことだ。家庭を守り、仕事に精を出す。そこを手抜きしてきたつもりは一切ない。でもそれによって、俺の心の中の違和感をきれいに解消出来ているわけではないんだ。自分の生き方を、胸を張って全肯定出来るようになるまでは、俺はどうしても刺さった釘を抜けないだろう。


 そして……それには期限がない。


◇ ◇ ◇


 わんこ。


 正平さんが世話を引き受けてくれたものの、俺は隼人の世話があってなかなか様子を見にいけず、どうなったかずっと気になっていた。人への不信が極限までしみついたわんこには、いかに辛抱強い正平さんでも手を焼くだろうと思ったからだ。だが正平さんは、まるでわんこの心の中が読めるかのように実に上手にわんこと付き合った。


 家への出入りを一切制限せず、家の中でも自由にさせた。わんこの行動を全く束縛しなかったんだ。出ていくならそれでもかまわんぞ。そういう感じで。わんこにとっては、正平さんは最初は電信柱か看板と変わらない存在だったんだろう。

 だがわんこは、初めて合法的に自分の身の安全が確保出来るテリトリーをゲット出来たことになる。人や犬に追われることのない、絶対安全な空間。正平さんの家をそう認識したことで、わんこの警戒心のレベルが下がった。


 そして。それによって、怯えに覆い隠されていたわんこの寂しさが徐々に顔を覗かせるようになってきたそうだ。かまってくれというおねだりは絶対にしないが、正平さんの側を離れなくなった。居間にいる時、そして寝室にいる時はぴったりと寄り添い、正平さんがどこにも行かないことを確かめるような素振りが目立ってきた。


 そこで、やっと正平さんがわんこに対してアクションを起こした。つまり。正平さんが外出する度にわんこが精神不安定になることを察知して、わんこを一緒に連れ出すようにしたのだ。家以外の空間は、わんこにとってはこれまで辛酸を嘗めてきた地獄の世界だ。正平さんはそれに配慮し、リードを付けて歩かせるのではなく、俺が隼人を外に連れていく時にするように、スリングに入れて抱いていった。


 常に正平さんに守られているという安心感を得て、わんこは少しずつ正平さんとのコミュニケーションを望むようになっていった。わんこが望む時に、その欲しいものを。正平さんが最初に言った通りのことを、忠実に実行したわけだ。

 保護された時には骨と皮の状態で、がりがりに痩せていたわんこも、少し肉がついて愛嬌が出てきた。健康面も、当座は心配ないらしい。それでも、相変わらずひっそりと大人しいのは変わらない。抱いたわんこを見つめながら、正平さんが呟いた。


「俺が……最後まで看取れりゃいいけどな。逆になったら、こいつがかわいそうだ」


 これまでわんこに降り掛かってきた数々の迫害、不運、離別。正平さんがどんなに愛情を注いでも、その傷の全ては帳消しに出来ないということを実感したんだろう。


 正平さんによって、ロンと名付けられたわんこ。俺は……ロンと正平さんとの穏やかな時が一分一秒でも長く続けばいいなと……切に祈る。


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