第十三話 渦

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 子供が出来ると生活が一変するぞ……と。話には聞いていたが、いざそうなってみると変化は尋常じゃなかった。


 なにせ、これまでずっとひろと二人きり。生活時間を二人できっちり合わせていたわけでもない。それぞれの仕事で忙しく立ち回っていて、お互いのスケジュールを調整して何かするってことをあまり意識して来なかった。俺もひろも、実質一人が生活のベースだったんだ。


 そして、俺もひろも仕事とプライベートをきっちり切り分けていたから、自宅は大切なプライベート空間だった。第三者に無遠慮に踏み込まれるのが嫌で、俺もひろも自宅に誰かを呼ぶってことはなかった。これまでは、来客すらほとんどなかったからな。家を訪れると言えば、運送屋か宅配ピザのあんちゃんくらいなものだ。

 たまあに気心が知れてるフレディを自宅飲みに誘うのがいいところで、やつはいつも軽く飲んですぐに帰ってしまうから、俺もひろも負担を感じたことがなかった。梅坂ばあちゃんにレクチャーを頼んだ時にひろがヒステリックになったのは、無遠慮な侵入者にプライベートを侵略されることへの強い拒絶反応だったと思う。


 そんなわけで。俺たちは揃って親やその親族とは疎遠だったし、知人友人含めて家に誰かを泊めるということは結婚してこの方全くなかったんだ。この前のフレディと姉貴のが最初じゃないかな。


 それがだな。ひろの両親を皮切りに、ひろの方の親族が次々に隼人の出産祝いに駆けつけ、その都度うちに泊まっていった。その間の俺の仕事は、ほとんど旅館の仲居と変わらん。なんだかなあ……。

 ひろの社の同僚も、出産祝いを名目にして入れ替わり立ち替わりうちを訪れ、連日遅くまでひろと話し込んで行った。ひろが不在時の仕事の引き継ぎのこともあるので、とっとと帰れとは言えない。


 ひろは隼人の世話があるので、俺はその他一切合切を取り仕切らないとならない。俺が家事と接客に専念できるのならそれでも別に構わないが、フレディの社で仕事をこなしながら自宅でもこき使われる二重勤務は、正直しんどかった。それでも、たくさんの人が隼人の誕生を祝ってくれてるんだ。しんどいからと言って、客に嫌そうな顔は見せられない。ずっと気を張り詰めて家事をこなしてきて。


 今日は久しぶりのオフ日だ。来客の予定はないし、ひろは隼人を連れて母親教室に出かけた。


 俺は洗濯機の前にしゃがみ込んで、ドラムの中でぐるぐる回る洗濯物をぼんやりと見つめていた。


「……」


 子供がトンボを捕まえようとして、その目の前で指をぐるぐる回しているみたいに。俺の目の前で回るカラフルな洗濯物が、俺に催眠術をかけようとしている。そんなのをじっと見てる暇なんかないんだが。俺の腰は上がらない。


 ひろが半券を使って妊娠を俺にアナウンスしてから先。俺は、否応なしにいろいろな出来事の渦に巻き込まれてきた。いつかは子供が出来るだろうし、そうすれば子供中心の生活になっていくのだろうと、俺が漠然と考えていたレベル内には到底収まらなかったわけだ。洗濯機の中の渦は小さいが、俺を巻き込んだやつは鳴門海峡の渦くらいでかいインパクトがあったということなんだろう。


 俺はそんな渦くらい泳ぎ切れると、こなせると思っていた。だが数々の出来事をこなし切ってほっと一息ついた途端に、脳みそがストライキを起こしたらしい。俺は、何も考えられなくなった。別に投げやりになっているわけではない。生活は充実しているし、自分では幸せだと思っている。だが、熟考して推理を組み立てるという探偵に不可欠な作業を、今現在深刻な脳疲労のためにこなせなくなっているという事実は認めざるを得ない。


 俺を巻き込んで、水底に引きずり込もうとする運命の渦。それに抵抗しようとして闇雲に暴れてきた反動が、一気にどっと襲ってきた感じだ。そして俺には今、それに逆らうだけの充分なエネルギーがない。


 じゃあ、どうするか。


 俺は樽。空き樽だ。中身が流れ出して、空っぽになっている。


 それは悪いことか? いや、そういう時は逆に沈まないものさ。どんなに渦にもみくちゃにされていても、樽が空っぽである限り水底に引きずり込まれることは絶対にない。だから無理にがんばって樽が壊れてしまわないように、あえて渦に身を任せる。そういう時も、俺にはきっと必要なんだろう。


 目の前の洗濯物だけでなく。俺の頭の中でも、整理できないものがずっとぐるぐる回っていて、俺の徒労感をひどくしている。何もかもに結論を出そうとするのではなく。これまでに何があったのか。それがどうなったのか。それを……先のことは考えないでゆっくり振り返りたい。


 静かな環境だと、かえって余計なことをいろいろ考えてしまうだろう。無表情な洗濯機のモーター音と洗濯槽の中で跳ねる水の音。その騒音に逆らわず、ゆったりと身を任せて。俺はかすかな目眩とともに、ここしばらくの出来事とその顛末を振り返る。


 それは……。手帳には書き残せないこと。俺が思い出しても、忘れてしまっても構わないこと。それでも俺にこびり付き、しばらくは脳裏から離れないであろう諸々のこと。目を瞑っても、それは俺の頭の中で回る。ぐるぐると。


 ……渦のように回り続ける。


◇ ◇ ◇


 至近の出来事。


 そう、戸倉という男がしでかしたとんでもない犯罪。俺はその後の経緯が気になってはいたが、一度警察の案件になってしまったことは俺ら一般人の手からは離れるわけで。


 閑静な住宅街を揺るがす恐ろしい殺人事件があって、その解決に俺が関わったと言っても、俺が警察と組んで囮捜査をしたとは公には言えないから俺は潜るしかない。俺が直接の当事者でない以上、警察からもマスコミからもかやの外に置かれ、ヒーロー扱いもなければ金一封が出るでもなかった。もちろん俺の本職は目立たないことが大原則だからそれは願ったりなのだが、被害を未然に防げた満足感は大きかったものの探偵事務所としては大赤字の案件になっちまった。


 一張羅の背広がぱあ。柴崎さんに製作を頼んだガラス玉の費用も持ち出し。連中の動向を見張るのに、設計事務所の部屋を時間借りした費用も持ち出し。変装用の小道具、ジャマーの購入も自腹だ。俺の身体に風穴が開かなかったから医療費や葬式代がかからなかったのが、不幸中の幸いってことなんだろう。人命はカネでは買えないから、しゃあないっちゃしゃあないんだが。さすがに、手弁当のボランティアが続くと堪えるわ。


 だけど、事件が解決して身辺が落ち着いた勝山さんが、俺にものすごく感謝してくれて。予想もしなかった謝礼を支払うと申し出てくれた。契約をして依頼を引き受けたわけじゃないので謝礼を受け取れる筋合いではないんだけど、背に腹は代えられない。その厚意に素直に甘えることにした。謝礼としてではなく、案件の依頼費用として、ね。基本料と必要経費だけでも払ってもらえれば、貧乏事務所としては本当にありがたい。


 だめになった背広の買い換え費、ガラス玉の制作費、借りた部屋の賃貸料、小道具の購入費用。勝山さんは、それらの実費と俺の日当および依頼の基本費用、そして危険手当を満額支払ってくれた。ただ……高額な謝礼は、固辞させていただいた。俺は、カネが欲しくてこの案件に突っ込んだわけじゃないからね。おばあちゃんは不満そうだったが、そのおカネで紅葉でも見てらしてくださいと言ったら苦笑していた。旅行なんか、もう懲り懲りよってね。ははははは。


 それよりも。戸倉の前科に食い付いたマスコミ取材の過熱ぶりが凄くて、正直俺は引いた。警察が正規に動く前に、戸倉のこれまでの悪行は連中にほとんど暴かれてしまったと言っても過言じゃないだろう。


 これまで戸倉に脅されて国外に連れ出されたお年寄りは三人。連れ出された先は永住型の老人ホームで、そこは極めてまともなところだった。ちゃんと自発的に費用を払って入居している日本人もいるし、ホームの経営者も公式に日本人向けの勧誘を行っている。それだけ見れば、連れ出す手段が非合法でも向こうでの扱いはきちんとしてるということになり、戸倉は強引なセールスマン止まりだ。

 でも、ぱんぴー相手に銃ぶっ放すやつだぜ? そんな生易しいことで済むはずはない。俺の読み通り、戸倉は送り込んだお年寄りを律儀に消していたんだ。その手口は手が込んでいた。


 入居者が払う費用の手続き仲介を名目にして、お年寄りの財産を全部自分が扱えるようにする。その時点で、お年寄りは戸倉に全財産を召し上げられてしまうわけだ。でも、お年寄りが生きている限りホームでの生活費がかかる。その費用を払い続けるのはもったいない。そう考えた戸倉は、日本人向けに雇われている看護師を抱き込んで、彼女にお年寄りをこっそり薬殺させていたんだ。病死する入居者は他にもいるから、ばれにくかったんだろう。

 ホームの方では、どうもおかしいと思っていたらしい。入居していくらもしないうちに亡くなってしまうんじゃあ、ホームの管理体制が問われてしまうからね。戸倉もその疑いの視線に気付いていて、勝山おばあちゃんの処分が終われば他の物件を探すつもりだったんだろう。家宅捜索されたあいつの自宅からは、海外にある永住型老人ホームの資料が山のように出てきたそうだ。しかし、この時点では戸倉による老人薬殺を証明するものは何もなく、警察の捜査は難航していた。


 戸倉は、荒事を任せる側近二人を除き、老人をおびき出すための犯罪チームを毎回入れ替えていた。そして側近二人にその窓口役をさせ、端役には自分の正体を決して明かさなかった。もし不測の事態が発生しても、側近二人の口さえ封じれば自分は必ず逃げおおせられると思っていたんだろう。俺はあいつをバカだと揶揄したが、実際にはかなり手強い相手だったのだ。


 だがあいつの完全犯罪の目論みは、抱き込んでいた看護師からあっさりと崩れた。戸倉が側近二人を射殺したことをマスコミの記者たちに知らされた看護師は、戸倉から日本に来いと言われていた真意を覚ったのだ。それは報酬の受け渡しのためではなく、自分を始末して口を封じるのが目的だということに。

 戸倉にまんまと騙されたことを知って激怒した看護師は、あっさりと口を割って戸倉の指示の内容をゲロした。自分だけが主犯のように言われて極刑に処せられるのは、どうしても我慢出来なかったんだろう。薬殺に使われた薬品も、証拠品として押収された。その時点で戸倉の過去の悪行についても、立証が可能になったわけだ。

 日本に土地勘のない看護師は、呼び出された後戸倉に何をされても逃れる術がない。殺人の直接実行者であり、証言者でもある看護師を戸倉に消されていたら、勝山さんの件以外は立件が難しかっただろう。


 逮捕後の戸倉は一貫して黙秘を貫き、罪状認否にすら応じていなかったらしいが、看守の監視の間隙を縫って二度自殺未遂事件を起こした。まあ、それが未遂で終わってしまうというのが半端者のあいつらしい。今度会ったら、そう言ってやろうと思う。あいつが生きている間に会う機会があれば、だがな。

 俺にとっては、末路が分かっている戸倉なんざどうでもいい。それよりも、戸倉に理不尽に狙われて、まんまと消された三人のお年寄りになぜ誰も気付かなかったのか。俺はそういう社会の歪みの方がよほど気になるし、深刻な問題だと思う。


 戸倉のようなやつは、一人じゃないんだ。いっぱいいるんだよ。


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