(3)
二人のばあちゃん。
梅坂ばあちゃんは、うちよりも姉貴とフレディの新居に入り浸りになってる。姉貴は、同居すら構わないという勢いでばあちゃんの助力に倒れ掛かり、さすがに呆れたフレディがばあちゃんに釘を刺したらしい。新婚家庭なんだから、最低限の配慮はしてくれ、と。図々しいばあちゃんも、さすがに家に居座ることまではしなかったが、うちに顔を出す倍以上の頻度でフレディの家を訪問している。
だが。実は、ばあちゃんがケアしているのは姉貴ではない。ばあちゃんの心配の対象は、絵美と名付けられた生まれたばかりの赤ん坊だ。隼人の誕生以降、これでもかと母親業を堪能しているひろと違い、勝手の分からない赤ん坊の世話でお気楽さを侵蝕されている姉貴のストレスは、最終的には手抜きという形で吹き出す。ばあちゃんは最初のレクチャーの時に、すでに姉貴の母性の薄さを見抜いていたんだ。それが赤ん坊の世話に跳ね返ることをことさら危惧していたんだろう。
それに加えて。姉貴とフレディのバランスは、今でも決してよろしくはない。そのことが子育てにも悪影響を及ぼしかねない。ばあちゃんが最も恐れているのは、そこだ。
二人とも、まだ心の奥底に深刻な人間不信を抱えている。不信故に人をそれとなく遠ざけてきたことで愛情飢餓感が限界に達していて、その反動で一気に距離を縮めてくっついた。でも、それは決して健全なマッチングではない。マイナスの電気同士が無理矢理合わさっているようなところがあるんだ。まだ、お互いの不足分を補い合う建設的な関係と言える状態にはなっていない。
器としてずっと大きいのは、間違いなくフレディの方だ。だが、死線をくぐり抜けてきたフレディの抱えている傷は、ガキの延長上にあるだけの姉貴の傷よりもずっと深い。姉貴がそれを甘く見ると、いずれフレディが姉貴に示すようになるであろう強い束縛や干渉が理解出来なくなる。
そして、両親の粗悪コピーとしての姉貴の本性が剥き出しになれば、いかに辛抱強いフレディと言ってもそれを受け入れ切れなくなる恐れがある。厄介なのは、その時にフレディがどういう行動に出るか予測がつかないことだ。フレディの理性のメーターが振り切れた時、姉貴を放り出すだけではなく、その付属物である娘も邪見に扱ってしまうんじゃないか。ばあちゃんの危惧は、その一点に集中していると思う。
俺がフレディに何度も口酸っぱく警告したように、姉貴のすちゃらかには年季が入っている。そして、両親のそれと違って姉貴のすちゃらかにはプライドが一切ない。姉貴のすちゃらかは、決して確固たる生活信条なんかじゃない。あれは単なる逃げ。逃避なんだ。ばあちゃんが、姉貴の赤ん坊の世話の仕方に対して注文をつけ続けていること。それは姉貴の矯正のためではなく、姉貴がばあちゃんに逃げ込もうとするのを先手を打って潰しているに過ぎない。
フレディにはばあちゃんのアクションが無遠慮に見えるかもしれないが、実際は全く違う。アンバランスな夫婦の間に挟まってしまった赤ん坊に、夫婦の軋轢のとばっちりが及ばないようにと、慎重に滞在時間、関与の方法、姉貴への指示内容を調整している。さすが、年の功だなと思う。
それに対して、ばあちゃんが俺とひろのところに来るのは、純粋に隼人の顔を見て和むためだ。ばあちゃんが隼人を抱いてあやす顔は、まさに孫を見る表情。俺はそれを見て、心底ほっとする。そして、ばあちゃんはうちに来てもひろに一切突っ込みを入れなくなった。俺は、相変わらず容赦なく突っ込まれるが。
ばあちゃんは、あのわんこ騒動の時に性根を据えて難局を乗り切ったひろの芯の強さをとても高く評価した。それに、最初にばあちゃんが警告したひろの弱点、家事音痴や親との軋轢のことをひろが自力で解決したのを見て、ひろのプライドの高さや実行力がはんぱじゃないことを充分理解したんだと思う。だから、ばあちゃんはひろに余計な口出しをしにくくなったんだ。
ばあちゃんのえげつない突っ込みが聞けなくなったひろはとても寂しがっていたが、ばあちゃんの細やかな心遣いはひろにもよく分かると思う。
本当に。梅坂ばあちゃんには、頭が上がらない。隼人の誕生を知らせても、おめでとう一つ言ってこないうちの両親に爪の垢を煎じて飲ませたいよ。とほほ……。
そして、もう一人のおばあちゃん。そう、とんでもない事件に巻き込まれてしまった勝山さん。無駄にだだっ広い家におばあちゃんの独り暮らしは不用心だと思って、心配していたんだ。それに、殺人事件の舞台になってしまった家に住み続けるのは、心情的にも困難だと思う。それは年寄りだけでなく、俺らだって嫌だからね。
勝山さんはしばらく自宅に戻らずにホテル暮らしを続けていたが、思いきって家を畳んだ。家に深い思い入れがあるわけでもなく、財産を相続させる子孫がいるわけでもないなら、もっとこぢんまり暮らしたい。そう考えたらしい。老人ホームにでも入居するのかと思ったら……。なんと、俺らの住んでるマンションに引っ越してきた。戸倉に連れていかれそうになったところが老人ホームだっただけに、ホームにアレルギー感情が出来てしまったのかもしれない。
探偵さんのいるところなら安心出来る。勝山さんは引っ越しの挨拶でうちに来た時、驚いていた俺にそう言った。うーむ……俺はガードマンでもボディガードでもなんでもないんだけどなあ。まあ、マンションなら戸建ての住宅と違って、セキュリティをことさら心配する必要がない。管理人も常駐しているから、何かあってもすぐに対処してもらえるし、俺らも安心出来る。俺がそのうちお茶を飲みに来て下さいと社交辞令を言ったら、その場ですぐに上がり込んで来たのにはびっくりしたけどね。
だけど。梅坂ばあちゃんと同じだ。きっと勝山さんも……ずっと一人で寂しかったんだろう。とんでもない曲者の梅坂ばあちゃん。金持ちで、悠々自適なはずの勝山さん。二人のおばあちゃんが、自分とはカラーが合わないはずの老人会の集会所に足繁く通っていたのも……金や意地では埋めることの出来ない大きな心の空洞があったからなんだろうなと。
……そう思う。
◇ ◇ ◇
そういや、吉報もあったな。
以前郊外のスーパーで俺とフレディが取り押さえた
初犯で反省もしており、犯行に同情の余地もあり、被害者であるはずの女にはすでに過去のことにされてしまっている。直接の被害者である俺も温情判決を望んだし。これだけ好条件が揃っていれば、厳しい判決なんか出ようがない。
男は有罪にはなったが、殺人未遂や傷害罪ではなく、傷害未遂で猶予付きの判決だった。そして、フレディがすぐに男の身元を引き受けて自社の仕事を斡旋した。前職がコンピューター関係の技術者だったということもあり、仕事は出来るし、取り組みもまじめだそうだ。ただ、やっぱり根暗なんだよなあとフレディは溜息をついていた。
まあ、それはしゃあないよ。裏切りによる不信が性格を明るくすることなんか、絶対にありえないからね。生活が落ち着いてくれば、自分自身のことでぐちぐち悩むだけじゃなく、周囲を見渡す余裕も出て来るだろう。それまでは自立を急かさない方がいい。フレディにはそう言っておいた。
人の暗部に頻繁に触らざるを得ない俺らのような商売の人間にとっては、たとえまだシビアな現況であっても将来的には好転が期待できる彼のようなケースはそんなに多くない。だから……俺らがこういう商売をやっていてよかったと思えるように。彼には、がんばって欲しいなと思う。
◇ ◇ ◇
もう一つ。ささやかだが嬉しいことがあった。以前、ご主人の素行調査を俺に依頼した畑野さんが、ご夫婦の連名でお礼状を送ってきたんだ。
正直な話。ご夫婦の一方が素行調査の依頼をしたことがもう一方に知れると、それが夫婦破綻の引き金になることが多い。俺たちは依頼を受けて調査をするが、その調査を行ったという事実は、たとえ夫婦間と言っても他者に漏らして欲しくないんだ。俺たちは、その結果に責任を持てないからね。
ただ畑野さんの件では、俺が本当は絶対にしてはいけない出しゃばった真似をした。奥さんには、ご主人が実態のない相手に心を傾ける寂しさを分かってあげて欲しいと言い、ご主人には、現実の生活や家庭をどぶに捨てて、自他に何も残せない虚構にのめり込むなと釘を刺した。
今思えば、自分たち夫婦のことすらきちんと把握出来ていなかった俺が、よくあんな偉そうなことを言ったもんだと赤面してしまう。でも俺の出しゃばりは、幸い功を奏したらしい。
二人の間に欠けていたものは何か。それをどうすれば取り戻せるのか。きっと、ご夫婦の間でそれをストレートに話し合ったんだと思う。旅先で肩を並べて嬉しそうに微笑んでいるご夫婦の写真は。しんどさの中でもがいていた俺には、一服の清涼剤のように感じられた。
そうさ。世の中、悪いことばかりじゃないよ。壊れるものがあれば、修復されるものも、それ以上に育つものもあるんだ。
◇ ◇ ◇
ああ、そうだな。
俺が関わることで、いろんなものが変わっていく。それはきっと、俺が探偵であってもなくてもきっとそうなるんだろうと思う。だが探偵は、本来は変化の先々に踏み込んでいく商売ではないと思う。
小説の中に描かれるような、警察の捜査に先んじてその鼻をあかそうとするような出しゃばりな真似は、かえって自分の首を絞める。地道に経験値を上げ、クライアントの依頼に極力短時間で的確に応えるのが、本来俺らに必要な素養だろう。
過去に何があったか。現状はどうか。それを調査して依頼者に開示するまでが調査業という商売であり、それを元に何らかの解を導くというところまでは料金に入っていないからね。
己の限界を踏み越えて無闇に解決編に突っ込めば、当然相応の反作用がある。一番の反作用は、行き過ぎたアクションが何ら探偵業の利潤に結びつかないということだ。現況のラインをあえて踏み越えようとするなら、なんらかの経済的メリットがないと身が保たない。俺は、霞を食って生きているわけじゃないからな。ただ働きばかりのボランティアばかりじゃ、商売にならないだけでなくてプライドも生まれて来ない。
探偵としてではなく、探偵『業』を営むものとしては、もう少し商売としてのシビアさを認識する必要がある。仕事の中身を精査していかないと、いつまで経ってもへっぽこ以前だ。
もう一つの反作用は、一線を踏み越えることでリスクやアクシデントを背負いやすくなるということだ。俺一人で好き勝手にやっていられるのなら、何が起こっても俺自身に帰結するから構わんのだが、俺はひろの夫であり、隼人の父親だ。それぞれに重い責任がある。勝山さんの事件でやらかしたような無茶は、今後は自重していかなければならないだろう。
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