(7)
俺はいつも携行している手帳を開いて、フレディと姉貴に見せた。赤字ででかでかと書いた自分への警告文。それを、もう一度きっちり見直す。
『初志貫徹!』
「ねえ」
姉貴がそれを見て、分からないって顔をした。
「みさちゃんの初志って、なに?」
俺はきっぱりと口に出す。
「決め付けない。先入観を持たない。ニュートラルから入る。依頼者の心の底まで必ず見通そうとする。実際にはそう出来なくても、心に触れようとする努力だけは絶対に惜しまない」
「うーん……なるほど」
フレディが腕組みして唸った。
「信じるなら、まず自分がそのために最大限の努力をする。そしてその前に……」
「ああ」
「まず自分自身を信じなければならないってことさ」
「!!!」
フレディが腰を浮かした。
「そう……か」
「そうさ。それしかないんだ。自分がぐらぐらしてると、何も信じられなくなる。フレディはまだその状態だ。人を信じられないんじゃない。自分に自信がなくなってる。だから、人との深い繋がりを無意識に避けようとするのさ」
テーブルの上に目を落としたフレディは、その後ものすごくでかい溜息をついた。
「なあ、奥さん」
「はい?」
「みさちゃんは……本当にキツいな」
「でしょ?」
ひろが、小悪魔的な微笑みを俺に向けて俺の肩をつついた。
「でもね、みさちゃんは動くの。言うだけじゃないの。だからキツくても信じられる。ついてけるの」
「ああ、確かにな」
フレディが、やれやれって顔で椅子にふんぞり返った。
「十年友達付き合いがあっても、分からないことだらけだな。俺も、まだまだみさちゃんをぎっちり絞らないとならないってことか」
「おいおい、フレディに絞られたら、俺は血も涙も残らなくなる。お手柔らかにな」
わはははははははっ!! みんな一斉に、腹の底から笑った。
「まあ」
「ん?」
「心配いらないさ。フレディは、自分で思ってるほど小さな人間じゃないよ。傷がある分、人への視線は優しい。そうでなけりゃ、調査事務所をこんなにでかくは育てられないって」
「そうかな」
フレディが頭をかきながら照れた。
「そうさ。顧客への丁寧な説明、社員を大切にすること。慎重で緻密な調査。どれも、通り一遍で出来ることじゃない。フレディの基本が揺るがないからだ。社員からも顧客からも信用されているから、しっかりした社に育ってるのさ。何も卑下する必要はないって」
「お世辞でも嬉しいよ」
「いや、俺はおべんちゃらは嫌いだ」
ぴっと。俺はフレディに指を向けた。
「だから俺は、沖竹を辞めたんだよ」
「なるほど。そうだったな」
フレディが納得顔で頷いた。
「正直言うとな、俺はみさちゃんに正式に社に入って欲しかったんだよ。みさちゃんの実力が優れてるってだけじゃない。俺たちが忘れそうなもの、無くしそうなものを頑固に持ち続けてる。俺たちはみさちゃんがいれば、それをいつも意識出来るからな」
フレディの気持ちは嬉しい。が、俺は社に入るつもりはない。そして、それはフレディにも分かっているだろう。
「だが、確かにみさちゃんは一人の方がいいな」
「だろ?」
「奥さんのお世話が出来なくなるからな」
「そっちかい!!」
わははははっ!
俺は、そこで一度話を締めた。このままだらっと会食に入ったんじゃ、二人を呼んだ意味がないんだ。
「悪い。前口上がえらく長くなってしまったな。俺が今日フレディと姉貴を夕食に呼んだのは、けじめをつけて欲しかったからさ」
フレディと姉貴が顔を見合わせた。
「確かに、二人ともいろいろな傷や厄介事を抱えてる。でも、だからと言って、鎖に繋がれた犬みたいに同じところをぐるぐる回っているだけじゃ、何も事態が変わらない」
フレディが顔を伏せ、ぐっと両拳を握る。何かを……全力で思い切るかのように。俺は全力でその背を押した。
「ちゃんと言葉で、行動でけじめをつけて欲しい。お節介かも知れないが、それが弟として、そして友人として、俺に唯一出来るアドバイスだからさ」
「ああ。そうだな」
フレディが姿勢を正して、姉貴に正対した。
「栄恵さん」
「はい……」
「結婚してくれ」
ずどーーーーーーーーん!!!
思わず、俺とひろがぶっこけた。付き合ってくれじゃなくて、いきなり結婚してくれかよ! フレディ! それは、なんぼなんでもプロセスを無視してないか? だが、姉貴はフレディのプロポーズを聞いて。テーブルに突っ伏して激しく泣き出した。
「ううーーっ! うっ、ううーーーーっ!!」
あ……そうか。それで……か。
フレディには……姉貴の心の危機が見えていたんだろう。望まない子供を抱えて、フレディと腹の探り合いをする余裕は姉貴にはもうないんだ。しかも俺と同じで、姉貴にも太い釘が刺さったままだ。勘のいいフレディは姉貴の生活崩壊の原因を探ろうとしていたが、それは俺の貧乏性と同じで親の放置が原因だと思う。姉貴は開き直ったんじゃない。開き直るしかなかったんだ。
親の愛情をしっかり受け取れなかった姉貴は、いつも愛情に渇いていた。だが親すら信用出来ない姉貴は、それ以外の第三者はもっと信用出来ない。からっからに乾いているのに、すぐ側にある水が恐くて飲めなかったんだ。
わがまま勝手に見えるところ。それは、うかつに自分に近付くなというバリケードの代わり。すちゃらかで享楽的なのは、自分が抱え込んだ矛盾を解決出来ない苛立ちの反作用だ。だがそういう深層心理は、身内である俺すら今まで読み取ることが出来なかった。ああ、そうさ。姉貴は……死ぬほど寂しかったんだろう。フレディには、それが見えてたってことか。だから、前振り一切すっ飛ばして結婚してくれだったんだ。
姉貴が泣き崩れている間。フレディは何も言わずに、姉貴の背中にずっと手を置いていた。姉貴の昂った気持ちが落ち着くのを辛抱強く待っていたんだろう。
姉貴は、泣き喘ぎながら体を起こした。
「ひ……ひっく、ひっく。あ……りがとう……ござい……ます」
「栄恵さん。俺はね、冴えない中年男だ。さっきもみさちゃんに言われたが、まだ自分の心の傷を塞げてない。人を愛するどころじゃない。もっと前、人を信用するところからまともに出来てない。半端者さ」
「……」
「だが、さっきみさちゃんの言ったこと。それが俺に勇気をくれた。今はだめでも努力すりゃあいいってね」
姉貴がこくんと頷く。
「まだ出会って間もない俺たちが、好きだ愛してるって言ったところで、それはままごとだろう。だが、そこはゆっくりやればいいと思う」
「……はい」
「今すぐにでなくていい。いつか……返事を聞かせてほしい」
フレディは姉貴を急かさず、笑顔でそう囁いて体を起こした。
「いえ」
だが、姉貴の決断は早かった。
「こんな……出来損ないの女でよければ……よろしくお願いいたします」
姉貴が涙でぐしゃぐしゃの顔をフレディに向けて、その後深々と頭を下げた。それをじっと見ていたフレディが、笑顔を爆発させてがっちり姉貴を抱きしめた。
「はあっはっはあ! やっぱりみさちゃんの腕前は大したもんだよ!」
「おいおい、フレディ! なんぼなんでもちょっとぶっ飛び過ぎだぜ。ったくよう」
そう言いながら。俺とひろは、抱き合う二人に精いっぱいの拍手を送った。
ぱちぱちぱちぱちぱちっ!
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