(2)
姉貴の気力が続かなくなり、元の怠惰な生活に戻ってしまうこと。それを俺がことさら危ぶむのには、わけがある。姉貴には何もご褒美がないんだ。同じ妊婦でありながら、ひろと姉貴の間で徹底的に違うところが、ご褒美なんだよね。
ひろは、子供が欲しかった。望んで出来た子だから、生まれてくるのを本当に楽しみにしてる。もちろん、俺だってそうだ。つまり、俺たち二人の愛情の結晶が生まれてくる子であり、それ自体が最高のご褒美なわけだ。だからひろは妊娠期間がどんなに辛くても乗り切れるし、それを楽しむことすら出来る。
だが、姉貴は違う。姉貴にとって、お腹にいる子は望まなかった子だ。タイムアウトで堕胎できず、産むしかなくなったんだ。まずもって、その子に愛情を注げるかどうかすら分からない。しかもその子種を仕込んだのは、女にだらしない犯罪者だ。言うなれば、悪魔の子を産むに等しい。
今は俺や梅坂ばあちゃんがどやして崖っぷちに立たせているから、その恐怖で体が動いてる。お腹の中の子が云々と言うより、まず自分が生活しなければならないという切羽詰まった状況があるから、余計なことを考える余裕がないんだ。
でも、それはカンフルみたいなものだ。喉元を過ぎて恐怖感情が薄れてくれば、望まなかった子が腹の中で蠢くのを、姉貴がどういう悪感情を持って見つめることになるか分からない。そして、俺らはそれをたしなめることは出来ない。愛情ってのは、外から第三者が操作するものではない。あくまでも、姉貴の心の問題だからな。本当に……厄介だよ。
俺はJDAのオフィスの片隅で、報告書類のチェックのためにパソコンのキーを叩きながら、そんなことを考えていた。おっと、仕事に集中しなきゃな。
「ふう……」
姉貴を連れてフレディに挨拶を済ませてから三日め。俺は、オフィスで過ごす勤務形態にやっと慣れてきた。慣れてはきたが……やっぱり俺の性には合わないな。他の社員さんとの距離も計らないとならないし、どうも肩が凝っていかん。
それにしても。フレディとの付き合いも、もう十年以上になったんだな。
俺とフレディに同じ依頼を持ち込んだやつがいて、それが縁でやつと知り合った。フレディは来日して今の調査会社を立ち上げ、それがちょうど軌道に乗ったころ。俺は沖竹のところを退社して、個人営業を始めたばかり。立場はまるっきり違うんだが、なぜか馬が合ったんだ。
そして。十年経っても俺のところは相変わらずおんぼろで、俺はへっぽこのままだ。フレディは堅実な仕事を重ねて業績を伸ばし、順調に社を大きくしてる。その財務力や人的資源には、俺とは天と地ほどの差がある。だが経営規模が大きいからいいかと言うと、必ずしもそうではないんだ。
一人でやってる俺の最大の武器は、臨機応変に出来ることだ。社としての掟や規則があるわけじゃない。俺個人が依頼をこなせるのであれば、調査の手法をどうにでも調整出来る。カスタマイズが非常に楽なんだ。だが依頼者のプライベートに触る調査業では、大勢の社員を抱えるほどその質を保つのが困難になる。フレディのところだけでなく、大手の調査会社ではどこでも社員のクオリティコントロールに苦労してるってことだ。
俺が最初勤めていた沖竹では、社員をどんどん切り捨て、入れ替えていた。それは非情なやり方に見えるが、クオリティの低い社員を淘汰しないと、解決率が下がるだけでなく秘密厳守の原則が緩んで信用を下げてしまう。それじゃあ、すぐに依頼が来なくなる。厳しい運営方針だが、理には適っているんだ。
フレディのところは、沖竹とは逆で社員を大事にする。その代わり仕事の習熟度に応じて、預ける仕事の内容を調整している。経験がまだ浅く、秘密厳守の重みが心髄に叩き込まれていない社員には雑務しか預けない。そこから上を目指せるかどうかは社員の努力次第のところがあり、そこはフレディ自らきっちり査定する。
ビジネスでは絶対に妥協しないアメリカ人らしく、フレディの査定は容赦ない。出来が悪くてもすぐにクビにはならないが、端金で飼い殺しされるはめになる。俺が臨時雇いで入ることをすんなり認めてくれたのも、そういうことだ。
フレディはそんなに甘くはない。いかに友人として付き合いが長くても、それはそれ、これはこれだ。俺がフレディから預けられる仕事には、決して重要案件は含まれていない。ヒマネタだけ。まあ、俺はそれに文句を言える立場ではない。こうして仕事をもらえ、それに報酬を支払ってくれるだけ、俺はうんとこさ恵まれている。
それにしても……。
「もうちょいマシな文章を書いてくれよなー」
思わずぶつくさ言ってしまう。JDAの調査報告書は極めて充実しているんだが、社員の作文能力はおしなべて平均以下だ。日本語は不得手なはずのフレディの方がマシな報告文書を書いてるんじゃないかと思うくらい、俺の仕事量が多い。きっと、フレディも社員に文句言ってるんだろうなあ。普通のビジネス文書であれば、推敲や校正を外部に投げるんだろうが、機密扱いだとそうはいかないもんな……。
俺が渋面を作りながらパソコンと格闘している間に、フレディがひょいと顔を出した。
「おう、みさちゃん。調子はどうだ?」
「うーん……。報告書の手直しなんざ朝飯前だと思ってたけど、こらあはんぱじゃないわ」
「だろ? そのうち社員研修で作文講座義務付けないとだめかも知れない」
「ははははは……」
「ああ、ちょっと話があるんだ。いいか?」
お? なんだろう? フレディの口調は、そんなに軽いものではなかった。それに、苛立っている。はて?
俺は校正中の文書にパスワードロックをかけて、フレディの後を付いていった。
◇ ◇ ◇
所長室に入って内鍵をかけたフレディは、ソファーにどすんと腰を下ろし、顔をしかめた。
「どした?」
「ああ……どうも気持ち悪くてな」
「気持ち悪い?」
「そうなんだよ」
「どう言うこと?」
「監視の気配を感じるのさ」
元軍人のフレディは、峻烈な戦闘経験があるから自分の周囲の気配には非常に敏感だ。フレディがあえて日本で仕事をしているのも、調査に伴う危険の発生頻度がアメリカに比べてずっと低いからだ。単純な素行調査一つとっても、追尾している相手に気付かれれば下手すると銃が出てしまうアメリカよりは、日本の方がずっと仕事がしやすい。いつも自分の周囲の気配にアンテナを立て続けなくても済むからな。
それでも、用心深いフレディは滅多なことでは自分が前面に立たない。社の上層部以外には自分のスケジュールをオープンにせず、常に黒子に徹している。それは調査の成功率を上げるだけじゃなく、自衛も兼ねてるんだよね。ヤの字に絡んだ仕事を慎重に避けるのも、そのためだ。そのフレディが、監視の気配を感じてる……か。
「いつから?」
「三日前からなんだよ」
「相手は?」
「分からん」
え!? 俺は思わず立ち上がってしまった。
「フレディに分からないって!?」
軍人上がりのフレディの危機察知能力は尋常じゃない。そのフレディが、相手を特定出来ない? そんなことがあり得るのか!?
俺はソファーにどすんと腰を下ろすと、もう一度よーく考えてみる。極めてアンテナのよく発達しているフレディが、自分を監視している相手を特定出来ないこと。それは……監視の気配がものすごく微弱だということだろう。フレディだから気付くのであって、普通の人には分からないくらい微弱な気配。
「うーん」
俺は唸ってしまう。
「なあ、フレディ。何か思い当たることは?」
「それがあれば俺も手が打てるんだが……」
「ふうん」
「ここんとこ、俺が直接出張ったのは例の小林さんの件だけだ。そっちは、社員に関係者全員のフォローアップをさせてる。少なくとも、現時点では異常はない」
「この前電話で受けてたやつは?」
「あれはまだ商談中さ。契約に至っていない。それに内容的にほとんど危険性がない。市場調査の延長だな」
「なるほど」
「それ以外は、俺は指揮だけだ。俺が直接前に立ってる案件は、小林さんの以外はここ数年ないんだよ」
「……。それ以前から引っ張られるってことは?」
「俺が把握している限りないと思う。気になって一通りさらって見たんだが、特に異常はない」
まあ、堅実なフレディのことだ。ヤバそうなヤマには最初から突っ込まないだろうしな。
「で、見当が付かなくて、ずっと気味が悪いってことなのさ」
「あの、スーパーのクソ女の件は?」
「俺も気になったんだが、女は俺たちの罵倒を何も気にしてない。相変わらずオトコを取っ替え引っ替えさ」
「犯人のオトコの関係は?」
「そいつに、面会に行った」
「おわ!」
やるなあ……。
フレディは、ぐいっと体を起こすと、にやっと笑った。
「あいつには俺たちへの敵意はない。あくまでも自分をゴミ扱いしたあのクソ女に恨みがあるだけさ」
「ああ、そうだろな」
「自分が無事だった女は、面倒な裁判に出る気なんかないし、直接の被害者だったみさちゃんがあの男に同情してるだろ?」
同情って言うより、あまりに哀れで何も言えんかったからなあ。
「初犯で未遂。再犯性も低い。クソ女のせいで全てを失ったことへの同情も加わる。たぶん執行猶予が付くだろう。実刑にはならないよ」
俺はそれを聞いてほっとする。俺が面会に行った時には、まだ話を出来る状況じゃなかった。少し時間が経って、気持ちが落ち着いたんだろう。
「そらあ、なによりだ」
「まあね。で、やる気があるなら俺のところに来いと言っておいた」
ずどん! 思わずぶっこける。
「あわわわわ」
さすが、フレディ。やるときゃやるなあ……。
「あいつは、俺たちが自分の立場を分かってくれたってことで、少しは気が楽になったらしい。刑が確定して心の整理がついたら、俺に連絡すると言ってたよ」
「よかった……」
「ああ」
でも。そうすると、確かにフレディに絡みそうな筋がないんだ。フレディが派手な人物なら別だが、図体のでかさとは裏腹にほとんど外部に露出しないフレディをあえて見張るってのは。
「うーん」
「なあ? 俺が気にするのが分かるだろ?」
「確かにね」
「で、済まんが、俺の代わりに少し探ってもらえないか? 俺は、自分自身のことで社の仕事をすっぽかすわけにはいかないんだ」
世話になっているフレディ直々の依頼だ。俺に断れるわけがない。
「分かった。とりあえず相手を特定する材料が欲しい。いつどこで気配を感じたか、これまでのを含めてメモを書いてくれ。そこからまずあたりを付ける」
「助かる」
フレディが立ち上がって、ふうっと大きな溜息をついた。
「人間てのは、めんどくさく出来てるんだな」
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