(3)

 俺が首をひねりながら帰宅した時。ひろは、料理本片手にキッチンで大苦戦していた。


「ああ、無理せんでもいいのに」

「いいや! わたしも何か作れるようにしないと、みさちゃんが残業になったら飢え死にするっ!」


 わははははっ! この前のばあちゃんのど突きは、本当に効いたらしい。まあ、いいことだ。でも、胃薬を用意しておこう。


「あれ? どしたの? 浮かない顔で?」

「いきなり難事件でな」

「へえ……。バイトなのに、そんなの持たされるの?」

「いや、俺への依頼さ」

「げっ! ちょっと、フレディのところと掛け持ちなんか出来るの?」

「やらざるを得ない。ちょっと、断れない筋でね」


 俺がソファーに座って口をへの字にし、じっと考え込んだのを見て、ひろはそれ以上突っ込んでこなかった。


「……っと」


 俺の携帯が鳴った。姉貴か。なんだろ?


「はい。もしもし」

「あ、みさちゃん……ちょっと……いい?」

「どした?」

「今、近くまで来てるんだけど、家寄っていいかな?」

「構わんけど」

「ごめんね」


 姉貴にしては切羽詰まった声だ。家事や金銭的なことでのSOSじゃなさそうだな。


 料理のレベルでは姉貴と大差ないということで、ひろは開き直ってる。姉貴の急な訪問にも、特に嫌な顔をするということはなかった。電話してきてから十分もしないうちに、姉貴がそわそわした不安そうな様子で、家に来た。


「ああ、上がってくれ。どうしたんだ?」


 背後で玄関ドアが閉まると同時に、姉貴が大きな安堵の吐息を漏らした。


「はあああ……っ」


 よろよろとリビングに入って来た姉貴は、ソファーにどすんと腰を下ろすとぼそぼそと窮状を訴え始めた。


「なんかね……ここ二、三日なんだけど、後を付けられてる気配があるの」

「げっ!」


 フレディのところだけじゃないのかっ! どうして、こうあっちもこっちも! 俺は思わず頭を抱えてしまった。


 フレディの件は依頼に準ずる。俺が姉貴やひろにその内容を漏らすことは出来ない。フレディのとは別に、こっちも対処しないとならないのか。俺の体は一個っきゃねえんだよ。ったく……。だが今回のは姉貴には落ち度がないし、前のクソメールと違って姉貴はストレートに不安な状況を俺に訴えに来た。それには対処しないとならないだろう。


「警察には行ったのか?」

「うん……。なんか付けられてる気配がするって。でも、具体的に誰ってことが分からないと」


 相手にしてもらえない、か。


「相手の見当は? 分からないのか?」

「うん。視線を感じて振り返った時には、もう誰もいないの。気味悪くて、会社の同僚に家まで付いて来てもらってるんだけど、わたしの単なる思い過ごしだったら、迷惑かけちゃうから」


 ううむ。姉貴の気遣いってのも不気味なんだが。でも姉貴には、今を凌ぐためには社の補佐が必須なんだ。それがないと暮らしていけないから姉貴も必死なんだろう。少ない気遣いのもとを絞り出してると見た。


「視線を感じるのはいつだ?」

「出勤する時と、帰り道の路上」

「ずっとか?」

「うん……」


 いくら姉貴がいい女だと言っても、今は紛うことなき腹デカ妊婦だ。社の関係者は残らず姉貴の状況を知ってるだろうし、それを踏まえた上で姉貴に突っ込もうという物好きはまずいないだろう。社の関係者以外で、姉貴につきまといそうな男がいないか聞いてみたが、姉貴には思い当たる節がないそうだ。でろでろの姉貴には、男とまともに付き合うことはそもそも無理だったろうしな。


 まだ腹がぺちゃんこのうちならともかく、妊婦の姉貴に一方的に言い寄るやつがいるなんてのは考えにくい。世の中には特殊な嗜好を持つ男もいるから、絶対いないとも言い切れないが、普通はないだろう。あとを付けられる理由が分からない。姉貴の懸念は当然だ。だが……フレディのケースと違って、姉貴の方にはそうしそうな男が一人いる。姉貴を孕ませた男。古田だ。


 古田は姉貴とのことがもとで職を失った。それだけじゃない。あいつは当然のことながら、奥さんに愛想を尽かされて離婚訴訟を起こされている。あいつの持っていた土地、家、資産は、全て奥さんと子供に持って行かれるだろう。

 それは俺から言わせれば無軌道な火遊びの当然の代償で、何ら同情の余地はない。ざまあ見ろだ。だがそういうクソ野郎は、神経構造もクソに出来ている。全てを失うのは自業自得なのに、人生転落の責任を姉貴に転嫁するだろう。あの年増女が諸悪の根源だってね。だからこそ、三中さんが最初にあいつに厳しい警告を出してるんだ。姉貴に近付いたら警察沙汰にするからな、と。


 三中さんの警告は、決して脅しじゃない。姉貴からそういう事実が報告されれば、三中さんは本当に行動を起こすだろう。被害者保護の観点からお礼参りの防止に力を入れている三中さんの真骨頂は、そこにある。

 しかし、古田は姉貴に直接手を出すほどバカじゃないだろう。姉貴は、古田から金銭的な見返りを何も要求しなかった。手切れ金も姉貴の要求じゃない。会社の裁定だ。相手が姉貴じゃなくて会社では、古田には勝ち目がない。古田は、姉貴から何かを取り戻すってことは出来ないんだ。それはもう諦めていると思う。


 それより、古田が今乗り切らなければならないのは離婚訴訟の方だ。つまり奥さんと別れるのはいいにしても、身ぐるみ剥がされるのだけはどうしても避けたい。裁判を有利に進めるためには、姉貴に罪科つみとがをなすり付け、自分の責任を回避するのが一番手っ取り早い。

 オトコにだらしない姉貴の誘惑があって、俺はそれに巻き込まれただけだ。そういうシナリオを立てて、巻き返そうとしていると見た。ただその場合、古田は奥さんから、姉貴がそういう女なのだという事実の証明を求められる。苦し紛れの口から出任せじゃ、すぐにばれる。なにせ浮気の前科がてんこ盛りにある男だからな。奥さんは、何か決定的な証拠が出て来ない限り決して古田の口車には乗らないだろう。


 そして、もし奥さんから直接姉貴に真偽の詰問がなされれば、姉貴が血相を変えて否定するだけでなく、三中さんが出てくる事態になる。そうすれば、古田はもう完全に終わりだ。姉貴の行状を裁判でネタにするには、古田は最初から何か手札を持っていないと話にならないんだ。


 古田が姉貴に付きまとっているのだとすれば、姉貴のオトコ関係で裁判に証拠として出せるような材料がないか嗅ぎ回っているからだと思う。事実がなくても構わない。そういう風に見える写真でも会話でもなんでもいい。それをこじつけられれば、裁判でネタに使える。古田はそう考えたんじゃないか。だから、姉貴の目に付きやすいところには現れなかったんだ。用心深く、姉貴の行動を監視していたってことなんだろう。


 俺はそんな風に推理した。


 つまり、フレディの件に比べれば姉貴の方は対策を立てやすい。付きまとっている古田を、本気でど突けばいい。自分の行動が関係者に知られてしまえば、三中さんの警告は警告で済まなくなるからだ。それを古田に知らしめるだけで、もう充分だろう。面倒な警察沙汰にするまでもない。


「なあ、姉貴」

「うん」

「俺には、姉貴の回りをちょろちょろしているやつに見当が付く」

「誰……なの?」

「古田さ」


 ぎょっとした顔で、姉貴がのけぞった。


「え……ええっ!? だって三中さんが……」

「あれは古田に対する三中さんの警告に過ぎないよ。もし古田が本気で姉貴のあら探しをするなら、その抑止力にはならないんだ。三中さんは、あくまでもフレディのところからの借り物。姉貴のボディガードとして、ずっと付いててくれるわけじゃないからな」

「あ……」

「まあ、今姉貴は信じられないくらいまともな生活をしてる。サポートしてくれる人に変な姿は見せられないからね。そうだろ?」


 姉貴が渋々頷いた。


「それがばっちり効いてるってことさ。古田があら探ししたくても、今の姉貴には隙がないんだ。会社のサポを受けてる限り、姉貴は前みたいに好き勝手に行動出来ない。お腹の子供のこともあるしな」

「うん。そう」

「だろ? 生活にきちんとリズムが出来ていて、破綻がない。古田は、姉貴がオトコと接触するっていうチャンスを狙ってたんだろうけど、姉貴のところに出入りがある会社の人やばあちゃんは、みんな女性だ」

「あ! 確かに」

「んだ。それで、昔の姉貴のすちゃらかを知ってる古田は焦ったんだろ。こんなはずじゃって」

「そ……っか」

「だから最初は慎重に気配を隠してたのに、遠くからじゃネタを拾えないから、鈍感な姉貴に気付かれるほど接近してるってことだと思う。きっとここ二、三日じゃなくて、もっと前から付けられていたはずさ。姉貴が気付かなかっただけだ」


 姉貴が不安げに首を傾げた。


「それって……大丈夫なの?」

「あいつが裁判を諦めない限り大丈夫だろ。ぷっつんしたら本当に人生終わりになるからな。あいつは、そこまでバカじゃないと思うよ」

「ん……」

「まあ、うっとうしいことには変わりないね。三中さんに、もう一度強い警告を出してもらおうか。それで気配が消えるかどうかを確認してくれ」

「うん。分かった」


 姉貴の方は、古田が絡んでるということが予想出来るから対策も立てられる。問題はフレディの方だな。


「みさちゃん。お姉さんに夕飯食べてってもらう?」

「ああ、俺は構わないが、分量は大丈夫か?」

「作り置きしようと思ってたくさん作ったから」


 ほう。チャレンジャーのくせして、することが大胆だな。さすが、ひろだ。俺はキッチンに行って、ひろがかき回していた鍋を覗き込んだ。


 お! 肉ジャガじゃん。見た目はちゃんとそれっぽいぞ。どれ。俺は鍋に手を突っ込んで、味のしみていそうなところをつまんでみた。


「おおおー! 上出来だぜ。ばっちりだ!」

「ひゃっほう!」


 ひろがお玉を振り回して無邪気に喜ぶ。まあ、煮崩れやちょっとの焦げはアクセントさ。数作りゃ、そのうち慣れる。


「じゃあ、俺が汁と小鉢を作る。鍋をテーブルに持っていってくれ。熱いから気を付けてな」

「分かったー!」


 俺たちの他愛無いやり取りを、姉貴が恨めしそうに見ていた。その視線が……どうにもやるせなかった。


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