第十話 ほわっつはぷん?

(1)

 姉貴のつわりはひろより長引いたが、安定期に入ってからはすっかり落ち着いた。ひろの経過も順調で、姉貴と二人揃ってしっかり腹が目立つようになってきた。もう八か月めだもんなあ……。


 妊娠中毒の徴候や早産の気配などはなく、どちらも年いってからの初産にしては体調が極めて安定している。胎児の発達も今のところ順調で、羊水検査の結果も異常なしだそうだ。ひどいつわり。ありゃあ、一体なんだったんだって感じ。それは、サポートしている俺にとってはとてもありがたいことだ。もちろん、ひろや姉貴にとっては俺以上に安心出来るだろう。


 ひろは、産時休暇はぎりぎりまで取りたくないらしい。収入のことよりも、その後の育児休業も合わせて職務復帰にしばらくかかることが気掛かりなんだろう。ゼロ歳児の保育を引き受けてくれる保育所はあるが、だいたい三か月めくらいからだ。それに合わせて、会社の方針で出産後三か月目までは強制的に育児休暇を取らされるらしい。会社の制度だと、さすがにひろのわがままは通らない。腹をくくるしかないね。


 姉貴は逆だ。さっさと会社の仕事を切り上げて休暇に入り、部屋でぐぅたらしたいらしい。だが、そうは言っても自宅で誰かが家事をしてくれるわけでもないから、ぎりぎりまで仕事をするしかない。

 姉貴の様子を見にタイからすっ飛んできた両親も、まあがんばれと言い残してさっさと帰ったらしいし。呆れ果てた対応だが、この期に及んでまだすちゃらか気質が抜けない姉貴が、親のけーわいに文句を言える筋合いはないわな。姉貴はぶつぶつ言いながら、出産という大事業を一人でこなすしかない。やれやれ。


 でも梅坂ばあちゃんの監視は続いてるし、会社のサポートもしっかりしてる。まあ、なんとかなるだろう。


 二人が落ち着いたことで、俺はやっとフレディのところの臨時雇いで出勤出来る状況が整った。貧乏とはいえ探偵業の空白期間が今まで一度もなかった俺にとっても、この数か月間は極めてストレスの溜まる期間だった。だから、ひろほどではないにせよ、俺も久しぶりの調査業務にわくわくしていたんだ。


 とはいえ。出社初日には、別件でフレディと面談をせなあかん。それをちゃっちゃとこなしておこう。いや、別件と言ってもたいしたことじゃない。姉貴から古田を切り離す際に、フレディのところの嘱託弁護士である三中さんを借りた。依頼費用はすでに支払い済みだが、フレディにもちゃんとお礼を言わないとならん。それを最初に済ませておこうということだ。


 そんなわけで。俺は身支度に異様に時間のかかる姉貴が出てくるのを、車の中でいらいらしながら待っていた。


「ごめんごめん。遅くなっちゃった」

「ごめんじゃねえよ! フレディのところも時間商売なんだ。姉貴のぐだぐだには付き合ってくんねえんだよ。ったく! けーわいは相変わらずだよな。少しは気を遣えって」

「うん……ごめんね」


 ほう。やっぱり少し変化があるね。今までなら、すぐに拗ねて屁理屈をこねていただろう。いろんな人の助力を受けてるから、だいぶその温情が沁みたと見える。おでんも、しっかり煮込まないと味が付かないからな。いいことだ。俺もそれ以上の小言はかまさずに、黙ってアクセルを踏んだ。


◇ ◇ ◇


 JDAの受付に話を通して、所長室に案内してもらう。でかい腹を抱えてよたよた歩く姉貴を引き連れ、最上階の所長室に辿り着いた時、フレディは電話でクライアントと忙しそうに打ち合わせをしていた。所長直々に話しているということは、きっと上客なんだろう。邪魔しないよう、黙って応接ソファーの隅っこに腰を下ろして打ち合わせが済むのを待つ。


 俺らが待っている間に、三中さんがこそっと所長室を覗き、俺らがいることに気付いてひょいと頭を下げた。それから、俺らと同じように無言でソファーに腰を下ろした。その十分後くらいに、打ち合わせが終わったのかフレディが大きくふうっと息を吐いて笑顔を作った。


「ああ、みさちゃん。待たせて済まない」

「いや、構わんよ。上客なんでしょ?」

「そう。企業からの依頼だからな。直接俺が出て行かないとならなくてね」


 なるほどね。俺のような弱小探偵事務所には絶対来ないタイプの依頼だよなー。巨体をどすんとソファーに落とし込んだフレディが、姉貴をぎょろっと見た。


「ああ、フレディ。紹介が遅れて済まん。今回、三中さんにお世話になってケリをつけたんで、フレディと三中さんに直接お礼を言いに来させたんだよ。姉貴の栄恵だ」


 姉貴が窮屈そうに立ち上がって、二人に会釈した。


「あの……本当にお世話になりました。おかげで、なんとか自立のめどが立ちました」


 そんなめどなんかまるっきり立ってないよ。俺は思い切り突っ込みたくなるのをぐっとこらえて、薄笑いで口に蓋をした。


「いや……とんだ災難でしたね」


 フレディが笑顔で姉貴をねぎらった。


「はい。でも、わたしの不注意が元ですから……」


 さすがに姉貴がしおらしい。因果応報を絵に描いたような災難だからなあ。いくらすちゃらかの姉貴とはいえ、強烈に堪えたということなんだろう。まあ、徐々に意識を変えていってもらうしかない。子供が生まれたあともこれまで通りのぼよよんじゃ、まるっきりしゃれにならないからね。


 姉貴は時間を確認してすうっと席を立つと、もう一度フレディと三中さんに丁寧に会釈した。


「それではこれで失礼します。本当にありがとうございました」


◇ ◇ ◇


 姉貴が出社のためにJDAを出た後、俺はフレディの尋問を受けていた。


「おい、みさちゃん」

「ん?」

「すごくいい女じゃないか。とてもアラフォーとは思えないよ。本当にみさちゃんのお姉さんなのか?」

「間違いなく実の姉貴だよ。確かに見かけはいいんだが、中身がなあ……」

「は?」


 フレディと三中さんがほける。


「どういうことだ?」

「今回みたいなことになっちまった経緯で分かるだろ」


 三中さんが、苦笑しながら頷いた。


「確かにそうですね。アラフォーの方にしては世間ずれしていないというか、天然というか……」

「それ以前に、人間じゃなくてナメクジですから。いい女印のナメゴン」

「おいおい、それは……」


 フレディが、言い過ぎだろうという顔で俺をたしなめた。


「いや、冗談抜きで俺は姉貴を人前に出したくないんだよ。つわりがひどくなって俺にSOS投げて来たから、姉貴の部屋に行ってみたらさ……」


 フレディが俺の憤怒の形相を見て、ごくりと生つばを飲み込んだ。


「……凄かったのか」

「殺人現場でもあれよりゃましだ!」


 フレディと三中さんが揃って、ソファーからずり落ちた。


「あわわわわ……」

「ゴミ部屋なんて生易しいもんじゃないぜ。部屋の内外、ろくでもないものでぎっしり埋め尽くしやがって! あの恥さらしがっ!」


 フレディが俺の剣幕に後ずさった。


「床にゴミが堆積してるってだけじゃないよ。湿気で床板が腐ってるわ、シンクは腐食して崩壊してるわ、食器には分厚く埃が積もってるし、衣類とバッグは虫とカビで全滅。ゴキは大量養殖状態。それに加えてゲロと生ゴミで部屋中異臭ぷんぷんだ。ホームレスでももう少しきれいにすっぞ!?」

「う……」


 二人とも、その凄惨な状況が想像出来ないんだろう。信じられないという表情で首を振った。


「姉貴をこました男にも、そいつを先に見せてやりゃあ良かったんだ。それなら絶対にあんなことにはならんかった」

「それにしても……そこまでって言うのは何か原因があるのか?」


 さすがフレディ。きっちり詰めてくるな。


「まあね。姉貴は親のコピーさ。それも、親の不出来なところばかりね」

「へ?」

「俺の両親は、そろって家事能力ゼロ。場当たり、すちゃらか、お気楽、けーわい、自分勝手だ。俺はそれに冗談じゃねえと反発し、姉貴はそれを世の中そんなもんだと考えた」

「うーむ……。なるほどなあ」

「反面教師にするか、浸っちまうかの違いだよ。俺は自分がまともだと思ってるけど、中村家では俺の方が間違いなく異端児さ」

「ははは」


 フレディが苦笑いした。


「でも……」


 三中さんが、首を傾げた。


「交渉の時に比べて、少し雰囲気が変わられたような」

「だいぶどやしましたからね」

「そうなんですか?」

「はい。前の姉貴のままなら、子供が生まれてもすぐに放り出してギブアップでしょう。それじゃ、不幸が二倍になる。強力な家庭教師を付けて、がっちり調教したんですわ」

「うわ……調教ですか」

「そう。元々すちゃらかなんですから、きっちり重石をつけとかないとすぐに元通りになるんでね。首根っこ押さえ付けるのに、借金漬けにしたんですよ」

「おわ!」


 三中さんがのけぞった。なんとハードな姉弟なんだろうと思ったかな。


「姉貴の不始末の解決を、私が探偵として引き受けた。三中さんへの依頼費用、部屋の清掃・改修費用を含め、全額姉貴が俺に支払うべき調査費用として姉貴にツケたんです。経費含めてン百万になりますからね」

「強烈だな……」


 フレディが呆れてる。


「まあね。でも、そのくらいしないと姉貴には効かないんだよ」

「そんなんで、お姉さんの生活は大丈夫なのか?」

「ああ、取り立てはしてないよ」


 フレディが、それを聞いて大きく頷いた。


「うーん……さすがだなあ。みさちゃんのやり方は奥が深い。セーフティネットを張った上で、崖っぷちに立たせるってことか」


 たとえがうまいなあ。三中さんも、俺の方針に納得したらしい。


「なるほどねえ。禁治産者の扱いではなく、まだまだチャンスを与えてるってことなんですね」

「はい。姉貴は好き勝手やるんですが、あくまで自分の給料の範囲内。家計管理の概念がないんで出納はめちゃくちゃなんですが、借金してまでの買い物とかはやってないんですよ。思ったよりみみっちいんです。だから、ある程度絞ってやるだけで、家計のコントロールは出来ます」

「ふうん……それにしては、みさちゃんの姿勢が厳しいが」

「俺が目を離すと、すぐに手抜きするからだよ。元のゴミ部屋に戻っちまったらどうにもならん」

「ああ、そうか」

「姉貴だけなら放置するけど、子供込みじゃあしゃれにならんからさ」

「確かにな」

「まあ、今のところ薬はよく効いてる。家事能力ゼロで、する気もなかったのが、最低限はやるようになったし。社の助力にもちゃんと感謝してる。まだゴミ部屋には戻ってないし。あとは、それがずっと続いてくれりゃいいんだけどな」

「そこが問題か」

「そうなんだよ」


 俺は、でっかい溜息を連発した。


「そこがね……」


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