(2)

 懸案。それは何か。


 親への告知だ。


 最初、俺はそうするつもりはなかった。


 俺の両親は、俺と姉貴が就職した時点で親としての責務は完全に終わったとして、すぐさま第二の人生に踏み出した。親父もお袋も勤めていた会社を辞め、タイに移住したのだ。それ以降、向こうで日系企業の嘱託職員として適当に稼いでは、その金で好きに遊び回っている。俺や姉貴に何かあったところで、あとは知らんと放り出したわけだ。まあ、俺らもそれは予想していたから特に何の問題もなかったんだが……。


 俺がひろと結婚した時、そういう事実を親に知らせても、ああそうで終わり。祝儀どころか、おめでとうの言葉の一つも返ってこなかった。親とケンカしてるとか恨みつらみがあるとか、そういうわけでは決してないが、俺の親はあまりに乾いていて無味乾燥。いくら俺が冷静でさばけていると言っても、さすがにその態度には辟易してしまう。


 俺は、自分勝手で享楽的な両親のことを決して尊敬出来ないし、今後もあまり関わり合いにはなりたくない。だが、俺はばあちゃんにどやされたことをしっかりこなしておかないとならない。


 『親にきちんと筋を通しておけ』


 両親の脳天気さ、極端なドライさ、家事能力の低さ。それは全て、今の俺の性格や行動の規定要因になってしまってる。ああはなりたくないという意識が強すぎて、それが俺のクソまじめなところやストイック過ぎるところに吹き出してる。身内につい厳しい目を向けてしまうのもそうだ。ああはなって欲しくないという意識の裏返しだからな。


 今回は、それをひろや姉貴にダイレクトにぶちまけてしまった。そして、ばあちゃんに背景を見透かされた。


「……」


 俺は、右手で自分の喉の辺りを撫でた。


 俺の喉には、刺ではなく、ぶっとい釘が刺さっている。刺はしょせん刺だ。それはいらいらや違和感のもとにはなるが、呼吸や食事の阻害要因にはならない。抜こうが抜くまいが、あまり俺自身には影響しないんだ。

 だが釘は違う。それは根元までずっぷり突き刺さっていて、一見しただけではそこに釘があると分からない。だがそれがある限り、俺は自由に深呼吸することが出来ない。自由に飲み食いすることも出来ない。そして……自由に言葉を発することが……出来ない。そういう厄介な釘が深々と刺さったままだと言うことを、この際しっかり自覚しなくてはならない。


 俺がすること。いや、しなければならないこと。


 ひろや姉貴の妊娠を親に告げることは、大したことじゃない。両親から乾いた反応が返ってくることも予め分かっている。そんなことはどうでもいい。親が俺らに対して今現在持っている感情、俺らに対する姿勢。それを……俺の私情を交えずにもう一度きちんと確かめておきたい。


 なぜか。俺が、刺さっている釘を自力で抜くためだ。


 俺は……俺の子に言いたくはない。おまえのじいちゃんばあちゃんは、とんでもないろくでなしだよ、とはね。それは俺の子に、何もポジティブなものを残せないからな。だが、祖父母がいるのにまるっきり没交渉と言うのは、子供にはきっと理解出来ないだろう。

 じゃあ、俺が親父として子に何を伝えるか。それをまじめに考えるためには、俺自身の意識や思い込みを一度白紙に戻しておく必要がある。今のうちに俺の喉に刺さったままの釘を……抜いておかなければならないんだ。


 ひろの親への対処は、その次。抜かなくてはならないのは俺の釘ではなく、今度はひろの喉に突き刺さっている釘だ。そっちも間違いなく刺ではなくて、釘。俺のよりももっと太く、深く刺さっていて、曲がっていて、真っ赤に錆び付いている。それをどうするか。こっちも、抜くには相当の根性がいるだろう。


「白紙……か」


 口では簡単に言えるさ。過去は過去だ、とね。


 俺はもうガキじゃないんだ。もう立派におっさんの域に足を突っ込んでいる。今さら親とのことがどうのこうのと騒ぐようなトシじゃない。もういいじゃないか。親は親。俺らは俺ら。気楽にやろうぜ。そう、その通りだ。だがそう思いながら、一方で俺は白紙の上に血の滴をぽたぽたと垂らし続けている。


 喉に深々と刺さった一本の太い釘。それが俺を縛り、振り回し、黙らせ、叫ばせ、くよくよさせているってこと。俺は紙の上に落ちて広がる赤い染みを見る度に、そいつを思い知らされてしまうんだ。


「さて……と」


 俺は、テーブルの上の白紙をつまみ上げると、それで紙飛行機を折った。


「あれー、みさちゃん。それどうしたの?」


 定時に帰ってきたひろが、俺が手にしていた紙飛行機を見て首を傾げた。


「ああ。久しぶりに折ってみたんだけど、意外に覚えているもんだな」

「へえー……。よく飛ぶの?」

「分からん。どれ」


 俺は紙飛行機の体裁をもう一度整えると、それを窓目がけてひょいと投げた。紙飛行機は一度ふわりと宙に浮いて、それから流れるように部屋を横切って飛んだ。


「おっ! 思ったより飛ぶな。やっぱ、白紙ってのがよかったんかな」

「ふうん……」


 床にぽとりと落ちた紙飛行機を拾って、今度はひろがそれを投げた。今度もさっきと同じ。一度ふわりと浮いた飛行機は、部屋の中をすいっと滑空した。


「うひゃあ! すっごいよく飛ぶじゃん」

「ははは。縁起がいいな。さて……」


 俺はそれを拾い上げて、テーブルに戻した。そして。


 携帯を開いた。


◇ ◇ ◇


 タイと日本との間には、ほとんど時差がない。夕刻だと二人揃って出かけてるかもなと思ったが、電話は繋がった。


「Yes. This is Nakamura speaking」

「ああ、お袋か?」

「なんだ操かい」

「なんだはねえだろ」

「声、忘れたよ。この親不孝ものが」

「てか、たまにはこっちにかけろや。俺は貧乏なんだからよ」

「甲斐性がないんだね」

「余計なお世話だ。親父は?」

「ああ、今スペインに行ってるよ。明日こっちに戻ってくる」

「相変わらずだな」

「まあね。で、なんでまた?」

「ああ。ひろが妊娠した。十一月出産予定」

「へえー……あんたみたいな貧乏神が父親になるってかい。世も末だね。大丈夫なんかい」

「それをぐうたらのお袋には言われたくないね。放置の女王が何言うか」

「はん。子供なんてのは放っといても育つもんなんだよ」

「へえ、そうかい。じゃあ、もう一つ」

「なんだい?」

「姉貴もひろと同じタイミングで妊娠だ。同じく出産予定は十一月だよ」


 がたん! お袋が受話器を落っことしたらしい。しばらくして電話が切れちまった。

 もう一度かけるか。俺が携帯を操作しようとしたら、向こうから掛かってきた。


「ちょっとっ!! それ、どういうことさっ!」

「その通りだって」

「栄恵から何も聞いてないよ!」

「お袋に言えなかったんだよ」

「は?」

「俺も姉貴も、お袋や親父の放置プレイには手を焼いてた。だから姉貴は思ったんだろ。妊娠の事実を伝えたところで、お袋も親父も何もしてくれんてな」

「……」


 お袋が黙り込んだ。


「まあ、それはいいんだ。俺が伝えたかったのは、ひろと姉貴の妊娠の事実。それと予定日。それだけだからさ。じゃな」


 お袋がごたくそいう前に、俺はすぱっと電話を切った。それは、俺がお袋を突き放したからじゃない。


 これは賭けだ。


 お袋が中途半端な俺の情報をぶん投げても、突っ込んできても、そのどっちでもいい。俺はそのアクションがどちらかを確かめるだけでいい。


 親が俺たちを本気でぶん投げるつもりなのであれば、俺は今後一切親のことは考えないことにする。交渉を断つ。交流のない形だけの親子関係なら、百害あって一利なしだ。それは俺らにとって、何の意味もメリットもないからな。

 そういう意味で、俺の意識を白紙に戻す。敵意も好意も残さず、親という存在が最初からなかったものとして初期化しないと、俺の釘は刺さったままずっと疼き続けることになる。それはヤバ過ぎるんだ。だから親という文字の上に白紙を乗っけて、抜いた釘でどっかよそに打ち付けてしまえ……そういうことになる。


 だが……。さっきのお袋の反応。微妙だった。


 俺は、お袋が狼狽しているんじゃないかと踏んだ。俺とひろについては、両親が現況を大体把握している。ごく普通の恋愛結婚で夫婦仲もいい。だから、いずれ子供も出来るんだろう。両親がそう思っていても、何ら不思議ではない。


 だが、姉貴は別だ。トシがトシだし。結婚するとか、したなんて浮いた話は今まで一度もなかったんだ。その姉貴が妊娠した。いくら俺らの両親が利己的でドライだと言っても、さすがにどういう経緯があったのかくらいは気にするんじゃないかと。俺はそう予想したんだ。


「ねえ、みさちゃん」

「ん?」

「なんで、ご両親に電話したの?」


 俺が両親に常々冷めた目を向けていることを知ってるひろが、俺が親に電話連絡したことを訝った。


「一応は初孫だからさ。知らせるだけは知らしておかないとね。反応は期待してないけど」

「……」


 ひろが、じっと俺の顔を見た。


「ねえ。ずっとご両親のことを突き放してたのに。何か心境の変化があったの?」

「あった」


 俺は手にしていた白い紙飛行機を、もう一度宙に放った。それは糸を引くように、すうっと部屋を横切って。こつんと窓に当たって落ちた。


「さすがにね。俺は、もう釘を抜きたいのさ」

「はあ!?」


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