第九話 釘

(1)

 梅坂ばあちゃんの強烈なヤキ入れは、ひろの矯正にはそれなりに効果を上げた。それなりと言うのは、文字通りそれなりだ。ひろが家に缶詰になってりゃ、嫌でも家事に向き合わなければならなかっただろう。でも安定期に入って、めでたく仕事を再開したからね。

 外回りにも出るようになったが、社長のチェックが厳しくて、遠出はきっちり制限されているらしい。残業もしないようにと念を押されている。これは、必ずしもひろの母体の安全を考慮してということだけではないんだろう。


 俺はひろの懐妊以前、ひろの会社の社長にこっそり呼びつけられ、たっぷりと愚痴を聞かされたんだ。ひろが、うちはダンナのサポートがしっかりしてるって自慢したのを社長が聞きつけ、俺の口からひろにそれとなく諭して欲しいという意図がどうもあったらしい。


 社長に説明されるまでもなく、俺はひろが優れた実務能力を持ってることはよーく知っている。入社早々からそのパワフルさをいかんなく発揮し、営業成績は最初から頭抜けていたらしい。社長が、まだ二十代だったひろを一足飛びに部長に抜擢したと言っても、実績を考えれば特に突飛なことではないと思う。だけど、社長は単にひろの営業成績がいいから責任ポストに付けたってことじゃないんだよね。ひろは、自分の処遇の意味を充分把握し切れていなかったんだ。


 社長もまだ四十代の若さで、しかも女性だ。女性社員の方がずっと多い社に、開放的な社風を定着させるべく腐心している。そのため、男性上位の考え方を排除するだけでなく、男のくせに女のくせにというように性別に能力や思想を結び付けて断ずることを極端に嫌っている。

 だがいくら社内がジェンダーフリーでも、一歩社を出ればそこは旧態依然の社会だ。男女同権はまだ画餅に過ぎない。そういう社内外での風向きのズレは、ポテンシャルの低い社員にはうまくこなしきれないんだ。男女に関係なく、自分の営業成績が上がらないことやヘマが多いことを性別にせいにしたり異性の社員に当てこすったりするやつが少なからずいて、社長はそれにひどく手を焼いていた。ひろを部長に据えた裏には、やり手のひろに社員の意識改革を推進してもらいたいという狙いがあったんだ。


 だが。ひろは、仕事に関しては徹底的にドライだ。半端者の部下の不出来をどやす暇があったら、自分からさっさと動いて解決してしまう。ひろは何があってもその基本姿勢を崩さず、部下のヘマの尻拭いをしても自分の手柄にはしない。それはひろが優しいからではなく、取った取られたと次元の低いところで揉めるのがばかくさいからだろう。

 当然、そういうさばけた部長は部下の恨みを買うことはない。面倒なことはひろが手早く片付けてくれて、仕事が楽ちんだからな。


 でも社長にとっては、緊張や責任感の乏しい弛んだ姿勢が社員に定着してしまうことは害悪以外の何物でもない。ひろ一人がいくらがんばったところで、有能な社員が育たなければ意味がないんだ。何か厄介ごとがあっても、それはわたしがやっとくからいいよってひろに言われたら、部下は困難なことにあえて取り組まなくなる。ヘマをしても、自力で挽回しようとしなくなる。ひろのスキルばかりが上がって、周りが地盤沈下してしまう。


 ひろはフリーランスではなく、あくまで部長様だ。部下の指導も高い給料のうちなんだ。社長に言わせれば、営業面では文句なしの満点以上だが部下の指導に関しては零点だと手厳しかった。ひろは部下を道具として使うだけで、本腰入れて指導をする気がない。部下の扱い方が丁寧だから傷まないだけで、だからと言って箒が掃除機に勝手に進化してくれるわけではないんだ。部下を道具と割り切ってしまってるひろに、社長が苦慮しているという図式らしい。


 それじゃあ……な。我が家の家事の時と同じで、もしひろに何かあれば社がどぼんになってしまう。とことんまずい。


 社長の危惧はよーく分かる。俺も同感だ。でも、だからと言って俺がひろの問題点を指摘しなければならない義理ざんざない。ひろがプライドを持ってやってる仕事に部外者の俺が口を出せば、ひろが激怒するのは目に見えている。いや、激怒じゃあ……済まないかもしれない。申し訳ないが、俺は愚痴を頂戴しただけで引き下がった。社長も、さすがに人の家庭に無闇に手を突っ込むのはまずいと思ったのか、それ以上の強引なアプローチはなかった。


 俺にスルーされて切羽詰まった社長は、最後の手段としてひろを部長ポストから外すことも真剣に考えたらしいが、その矢先にひろが妊娠した。千載一遇のチャンスを逃がすわけがないわな。俺にこぼした内容をそっくりひろに伝えて、深々と釘を刺した。


「あなたが動けないうちに、部下の教育に本腰を入れてちょうだい。あなたはプロなんでしょ? 営業手腕を部下に教え込んでもらわないと、社が傾いちゃう。あなたの会社じゃないのよ?」


 社長のクレームは、職務に全力投球していたひろには寝耳に水だったらしい。ひろが統括していたセクションの営業成績は抜群だったし、部下の信頼も厚い。自分は完璧に部長職をこなしていると思い込んでいたらしいからな。

 だが自分がつわりで出社出来なかったわずかな期間に、ひろのセクションは大混乱に陥っていた。いくらテレビ会議やメールで指示を出しても、ひろが自力で客先へ行けないと解決しない案件が山積してしまったんだ。

 社長の苦言と、自分の不在時の混乱。ひろは、ここに至って新たな課題にチャレンジしなければならなくなったことを自覚した。


 でも、俺はまるっきり心配していなかった。ひろは、困難にぶつかればぶつかるほど激しく燃える。反発が前進のエネルギーという、非常に分かりやすい精神構造を持っている。


 それじゃあ、いっちょやったろうじゃないの!

 どうしてもデスクを暖めなければならない期間があるのなら、その時にしか出来ない懸案を一気に片付けよう。社長の懸念を吹き飛ばすかのように、ひろは間髪入れずにばりばり動き始めた。役割分担と責任範囲を定め、クロスチェックを実施し、自己査定を徹底させ、トラブルが起これば解決へのロードマップを全員に書かせた。

 部下たちもまた、ひろの不在時に各自の能力不足を痛感していた。その危機意識とやる気を共有し、不具合を個人の問題に矮小化させなければ、非生産的な感情のもつれは生じにくい。


 ひろは、社長が感心するほど短期間にしっかり部下を鍛え上げていった。ノウハウを部下に受け渡し、全体のスキルを上げる。その課題をまるで楽しむかのように。後日、社長から俺に丁寧な経過報告が寄せられた。


「やっぱりひろは特別ね。見込んで部長に抜てきした甲斐があったわ」


 最高の賛辞だ。ひろが聞いたらものすごく喜ぶことだろう。


◇ ◇ ◇


 心配していた姉貴の方も、あの後大きく状況が動いていた。


 あの古田とかいうクソ男は、社内の主立ったきれいどころに片っ端から手を出していたらしい。ドンファン気取りで姉貴を便所代わりにするようなやつだから、品性下劣な無責任男は多くの女子社員の反感と恨みを買っていた。


 上司と部下という力関係ゆえに我慢していたセクハラも、古田が会社から切られれば我慢する必要はなくなる。古田は社内の女性から総スカンを食った。蛮行に泣き寝入りしなかった姉貴は、社内から古田を駆逐したヒーローということになる。それを受けて、社内で姉貴をサポートしようという機運が高まったらしい。


 シングルマザーは本当に大変よと言って、ベテランの女性社員さんが姉貴の相談に乗り、交代でケアに当たってくれることになった。アパートにも足を運び、何かと姉貴の手助けをしてくれる。もちろん、会社の上層部からのサポート要請もあったんだろう。ともあれ姉貴は、その助力に心底ほっとしたようだ。


 そしてそれらのサポートは、姉貴に思わぬ影響を及ぼした。これまで散らかし放題でだらしなさの権化だった姉貴だが、お世話に来てくれる人に豚小屋を見せるわけにはいかなくなったのだ。そこで馬脚を現してしまえば、せっかく集めた同情が一瞬で消し飛んでしまう。渋々ではあったが、姉貴は部屋を掃除するようになったんだ。


 ばあちゃんが部屋のものを徹底して減らしたことで、姉貴の部屋は掃除がとても楽になった。床の上にものがないから、直前に大慌てでばたばたしなくても、フローリングワイパーをすいすい押して回るだけで済む。姉貴は、最初腹を立てたばあちゃんの仕打ちに心から感謝することになった。


 そして姉貴が戻る前に、部屋は大家立ち合いのもと完全にリフォームされていた。シンクやバス、トイレを含めた水回りも修理され、壁紙やフローリングが張り替えられた室内は、飾り気こそないものの実にこざっぱりした状態に整えられた。

 手伝いに来てくれる人はそれを見て、会社でのぐだぐだとは一味違って意外に堅実な人なのねと思ってくれたんだろう。間違っても使用前の写真なんか見せられないね。


 姉貴が古田に慰謝料や養育費を要求しなかったことは、会社の上層部から漏れて社内中に知れ渡っていた。加えて、薄ら寒いほどものがない部屋だ。それを気の毒に思ったのか、今後の経済的な苦難をおもんぱかってくれたのか。会社の人たちが、出産後すぐに必要になるものを手分けしてロハで探してきてくれた。


 ベビーベッド、ベビー布団、産着やスタイ。ちょっとしたおもちゃやメリー。哺乳瓶やベビーバス。腰の重いめんどくさがりの姉貴がでかい腹を抱えて嫌々店を回らなくても、大体のものは揃ってしまった。俺とばあちゃんとで最初に立てた作戦が、見事に当たったということになる。

 ばあちゃんが言ってたんだよね。姉貴には、アメなんか一切要らない。ぎりぎりまで追い詰められれば、そこから先、人から差し出された厚情がどんなに小さなものでもアメになるってね。うん、まさにその通りだったな。


 ひろ以上に家事嫌いだった姉貴だが、ばあちゃんの容赦ない警告がとてもよく効いたようだ。最低限の家事を手抜きすると、その後のツケがどんどん膨らむってね。


 ゴミの問題一つとってもそう。捨てに行くのが面倒なら、ゴミが出ないようにすればいい。姉貴の部屋の床一面に広がり、異臭とゴキの温床になっていたのは弁当がらや総菜が入っていたプラ容器だ。ばあちゃんはそれを見て、姉貴にこう警告した。

 プラスチック製で分別が必要なものを部屋に持ち込むから、ゴミ処理が面倒になって豚小屋化が始まる。炊事が面倒なら弁当や総菜を買ってきても構わないが、ゴミになる容器を部屋に持ち込むな! うーむ……実に分かりやすい。


 ばあちゃんが姉貴に授けた知恵は、総菜屋を上手に使えということだった。


 タッパや弁当箱を持って買いに行け。向こうも商売だから、容器代をけちれる分だけ粗利が上がる。決して嫌な顔はしない。それを持ち帰って食べた後は、洗ってすぐ次に使えるようにしておけばいい。洗い物も最低限で済むから、水道代も洗剤もけちれる。


 素晴らしい!


 これからは自分で炊事しなければならないのかと半ばうんざりしていた姉貴は、ばあちゃんのテクに見事にはまった。職場から自宅に戻るまでの間に立ち寄れる総菜屋を洗いざらい調べ、味比べも兼ねてしっかり楽しんでいる。そして……ゴミが出ない。


 どうしても炊事が必要な時は、食器も鍋釜も一つ、ワンプレートで済ませろ。これも姉貴のツボにはまった。マグと皿一枚で済む食事スタイルは、おしゃれに見えるってこともある。面倒臭がりの姉貴にしては珍しく、料理本を見ながらちょくちょく鍋釜を使うようになったらしい。


 まあ生まれてこの方、まともな生活をするという概念のなかった姉貴だ。コペルニクス的転換で、いきなりがらっと生活態度が変わるなんてことはありえない。それでも、姉貴のお気楽なところを蝕まない範囲内ではあるが、それなりに生活感らしきものが育まれていることはプラス評価する必要があるだろう。ばあちゃんが言ったように、いくらすちゃらかな姉貴でも、腹が出てくればちゃんと身辺を見るってことなんだな。


 いきなり妊婦二人を抱えて途方に暮れてしまったが、捨てる神あれば拾う神ありだ。まだ先々アクシデントはあるだろうが、サポーターが確保出来たことで、俺が何から何まで抱えて右往左往しなくても済むようになった。うんとこさ気が楽になったわ。


 よし。これで、後は俺が解決しなければならない懸案にしっかり集中することが出来る。


「だけど、それが一番厄介なんだよなあ……」


 テーブルの上に広げた一枚の白紙。それをじっと睨みつけて。俺はしばらく唸っていた。


「ううー」


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