(9)

 ばあちゃんという目付役が付いてくれることになって、俺は安心して姉貴をアパートに返した。一番不安な家計管理。大きな財源に関しては、ばあちゃんが厳しく出納を見てくれるので、浪費による破綻の心配はなくなったと言っていい。


 姉貴には調査料を取ると重石を付けておいたが、別に取り立てに行くつもりはない。姉貴の生活態度が改まればいいだけの話だ。

 ただそれとは別に、アパートの部屋の補修には冗談抜きに巨費がかかった。大家に決定権がある以上、俺らにはそれの値切りようがない。今追い出されるわけにはいかないから、向こうの言い値で補修を入れるしかないんだ。


 その結果、ばあちゃんが試算した五十万どころじゃなく、なんと七桁を超えてしまった。これだけは、実費を姉貴に負ってもらわないことにはしょうがない。古田の手切れ金も、かなり目減りしてしまうことになる。ったく、もったいないったらない。


 あとは、お気楽な独身者から厳しいシングルマザーへの転身がうまくいくかどうかだが。まあ、姉貴も今回のことでちったあ懲りただろう。少しずつ自覚を深めて、現実的な線を探っていってくれりゃいい。


 そしてひろ。俺に叩かれたことよりも、俺がひろと必ずしも対当でないと思っていたことの方がショックだったようだ。もちろん、ひろには俺を飼っているなんて意識はこれっぽっちもないだろう。だが夫婦の間の役割分担の意識がズレていると、どうしても口に出しにくい不安や不満が溜まる。


 俺が家事をやって当然というひろの意識がどこから出て来たか分からないが、そういう意識がある以上俺の違和感もずっとなくならないってことなんだ。夫婦間の意識の擦り合わせにしてはいささか乱暴だった気もするが、お互いのホンネがぶつけられたってことを前向きに考えた方がいいと思う。そして、ひろにはそう言った。


 俺のすることは変わらん。ひろに無理に家事をさせようとすることもない。ただ、それを当たり前だとは思わないでくれ。子供が出来て家事の量が増えれば、それは俺だけじゃこなし切れなくなるかもしれない。そのサポートをしてくれりゃ、それだけでいいよ。


 ひろは、それを納得してくれた。いろいろごたごたあったが、ひろが意識を少し変えてくれたのならそれで充分だ。


 もちろん、俺もだいぶ勉強させてもらった。まじめはいいが、身内にからすぎるというばあちゃんの指摘。それは、重々自分に言い聞かせておかないとならない。まだ……大きな難問が残っているからな……。


 ばあちゃんのレクチャーが終わり、姉貴が去って、いつもの穏やかな夕食が戻ってきた。つわりが少しましになってやっと落ち着いてご飯が食べられると、ひろがぶつぶつぼやいた。それでも、これまでと変わらずうまそうに料理をぱくつくひろを見て、俺は心底ほっとする。


「やれやれ。やっぱり出産てことになると、いろいろあるよなあ」

「うん。つわりがこんなにしんどいものだとは思わなかったわ……」


 ひろが、腹に手を置きながらしみじみ漏らした。


「ひろ。職務復帰はいいけど、最初から飛ばし過ぎるなよ。流産は本当にしゃれになんないからな」

「うん……そうだよね……」


 ひろが、膝の上に手を揃えてじっと考え込んだ。


「ねえ、みさちゃん」

「ん?」

「お姉さん……大丈夫かなあ……」

「どういう意味だ?」

「うん……。わたしはみさちゃんが看てくれてるから、なんだかんだ言ってもしのげるけどさ……。お姉さん、一人……なんだよね?」

「そうさ。俺だって不安いっぱいだよ。あのすちゃらか姉貴だし」

「……」

「ただな」

「うん」

「本当のことを言うと、生活のことよりゃ心の方が心配なんだよ」

「そうか……」


 ふう……。大きなトラブルの渦中にある時は、それを乗り切ることだけに全部の意思、感情を使える。でも、そいつを乗り切った後が辛いんだ。


「自分の望まなかった子供。姉貴がそれを本当に愛することが出来るのか。自分の生活や未来を大きく狂わされたショックを、子供に押し付けることにならないか。今は生活の苦労に紛れて表に出ないことが、落ち着くと暴れ出すようになるかもしれない。まだまだ安心は出来ないな」

「うん……」

「ひろには迷惑かけて悪いけど、時々でいいから姉貴の相談に乗ってやってくれ。俺は身内だって言っても男だ。どうしても、姉貴には厳しく当たっちまう。つい、このバカがって言っちまうんだよ。それじゃあ、姉貴が保たない」

「分かった。っても、話聞くくらいしか出来ないけど……」

「それで充分さ」


 子供が授かったと聞いた時の喜び。それと同じくらいに、人を一人世の中に送り出す責任と重圧がのしっとのしかかる。いかに姉貴がお気楽すちゃらかと言えども、その重圧に一人で耐えるのはしんどいだろう。何か、いいサポートの方法があればいいんだけどな……。


◇ ◇ ◇


 夕食が済んで、俺がキッチンで食器を洗っていると。それをぼやっと見ていたひろが、ぽつりと言った。


「ねえ、みさちゃん……」

「ん?」


 俺は水栓を絞って聞き直した。


「なんだ?」

「あのさ。梅坂さん」

「おう」

「みさちゃんが鬼婆って言ってたけど」

「ああ、そうだ」

「鬼婆じゃないじゃない。芯の通った、しっかりした人で」

「いや、間違いなく鬼婆さ」

「ええー?」


 ひろが、不服そうに頬を膨らませた。


「そうじゃないと、訳あり過ぎの俺らの母親指南なんか頼めないんだよ」

「あ……そういう意味か」

「そう。ひろや姉貴の感情に巻き込まれて、低レベルの口げんかぶちかますようじゃ論外。かと言って、ロボットみたいに機械的に当たるんじゃ、ひろたちに何も伝わらない」

「うん……」

「心を鬼にして、曲がらない信念を持って、ひろたちに母親になる自覚を迫る。それは……鬼婆じゃないと絶対に出来ないんだ」

「でも……」

「ん?」

「なんか……それってかわいそうだね」

「はっはっは。大丈夫さ」

「えー?」

「ばあちゃんが言ってたぜ。あたしは二人も孫を抱ける。楽しみだってね」

「ふふふ。そっかあ……」


 ひろが、それを聞いて安心したように笑った。俺は、ばあちゃんの皺だらけの笑顔をふっと思い出す。


「鬼の目にも涙……になるんだろうなあ」




【第八話 鬼婆 了】

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