(4)
舌舐めずりしたばあちゃんは、最初に現金、通帳、宝飾品だけは姉貴自身に回収させた。いくらばあちゃんがごうつくでも、人の重要資産にまで手を付けるつもりはないらしい。
それにしても……。俺は、想像以上の部屋の傷み方に絶句する。単に掃除してなかったっていう生易しいもんじゃない。閉め切られていた部屋は、湿気り放題だったんだろう。壁紙がどこもかしこもカビて、染みだらけだ。本来塗装がかかっているから湿気らないはずのフローリングの床材が反って波打ち、床がでこぼこだ。一部は腐ってんじゃないのか?
俺と同じように厳しい表情で室内を見回していたばあちゃんは、まずタンスとクローゼットを開けて、中の衣類を全部引っ張り出した。掃除してせっかく見えた床が、瞬く間に山のような衣類で埋まる。
ばあちゃんが、姉貴に冷徹に言い渡した。
「三日分。三日分の着替えだけ確保してショッパーに詰めるんだね。それ以外は、あたしの方で一着残らず処分する」
「そ、そんな!」
強烈な命令に、姉貴が気色ばんだ。
「まだ袖も通してない上等な服があるって言うんだろ?」
姉貴の言い訳に先回りして蓋をするみたいに、ばあちゃんが嘲笑しながら突き放した。
「ひゃっひゃっひゃ。あんた、底抜けのバカだね。そんな穴の空いた服着て、どこ行こうってのさ」
ばあちゃんは、クローゼットに下がっていたビニールカバーがかかったままの新品のスーツを無造作に掴むと、それを姉貴の顔めがけてばさっと投げ付けた。
「あ、穴ぁ?」
意味が分からずにスーツを見回した姉貴が、ざっと青ざめた。
「え? ええーっ! こ、これ、どし……て」
「ばかか」
ばあちゃんが冷ややかに嘲る。
「あんたね、こんなゴミ部屋にしときゃ、すぐに虫が湧くんだよ。防虫剤なんか、何年前のさ? そんな中身ぃからっぽのぶら下げてたって、クソも効きゃあしない」
「ひ……」
「毛や絹、綿、麻。天然素材入ったものは全滅だね。嘘だと思うなら自分で確かめてみりゃあいい」
イガ、コイガ、カツオブシムシ……かあ。穴だらけ、虫の糞だらけのブランド服。……無惨だな。それだけじゃない。クローゼットやタンスの奥にぎゅうぎゅうに押し込んであった服は、どれもひどくカビて染みだらけになっていた。次から次にしまい込んでいたスーツやコートを手にして確かめていた姉貴が、がっくりと首を折った。
そうか……。ばあちゃんの見立てでは、どんなにブランドものであっても衣類はほとんど無価値なんだろうな。サイズや流行の問題もあるし、この管理状況なら転売出来るようなものは探すだけ労力の無駄だと考えるんだろう。
へたり込んだ姉貴を後目に、ばあちゃんはてきぱきと衣類をいくつかの山にまとめ、それを紐で大括りした。
「ああ、中村さん。携帯貸しとくれ」
俺の携帯を開いたばあちゃんは、履歴から戸田さんに連絡したらしい。
「今度は衣類」
「はいよ。ランクは?」
「雑」
「分かった。売れねえな?」
「探してもいいけど無駄だと思うよ」
「おう」
そうか……。四トントラックなんか、ゴミの回収にはでか過ぎないかと思ったけど、そんなことはなさそうだな。
ほどなく呼び鈴が鳴って、さっきのおっさんがぬっと顔を出した。それから衣類の山を見回して、ぼそっと言った。
「もったいねえこった」
「全くだよ」
呆れたように衣類の山を見回すばあちゃん。姉貴は放心状態。戸田さんはさっきと同じように、衣類の山をさっさと階下に運んで荷積みした。
「こいつは処理費用がかかるから、売却料金と相殺する」
「仕方ないね……」
ばあちゃんが悔しそうだ。でも、間髪入れずに戸田さんに次の指令を出した。
「入れる服がないタンスなんか要らないね。処分しとくれ」
「ああ、分かった」
二間あった奥の方の部屋。最初に俺が姉貴の動向を見張るのに使った方。その窓際をでかでかと占拠していたタンスと大型ラックが分解され、退場になった。途端に、雑然としていた部屋の中に空間が生まれ、開放感が芽生えはじめた。
うちは、ひろがものを増やしたがらない。ごちゃごちゃ雑然とした雰囲気が嫌いらしく、家事をしないと言っても、結婚前から部屋はすっきり片付いていた。その殺風景とも言える景色に段々近くなってきた。
「次は、と」
ばあちゃんはすたすたとベッドの横に歩いていくと、押し入れの戸を開け放った。普通は布団が入っているはずの押し入れの中には、バッグ類が乱雑に詰め込まれていた。グッチやフェラガモ、シャネル。ドレスアップした姉貴が持てば映えるだろうブランドものも、この部屋の中じゃあ単なる場所塞ぎの皮袋に過ぎない。ばあちゃんは、バッグをしまってる箱を開けては中身を無造作に床にぽんぽん放り出した。
「ちょ、ちょっと! 何すんのよーっ!」
姉貴が真っ赤になって、ばあちゃんに食ってかかった。
「は? こんなカビ塗れのずだ袋に何の意味があるって言うんだい?」
「えっ!?」
放り出されたバッグを手にしていた姉貴が、ぎょっとした表情でそれを床に投げ付けて、手をぷるぷる振った。こんもりカビが生えて、まるでスエード起毛の布バッグのようになってしまったブランドバッグ。表面がぬるぬるしているものまである。ひでえな……。
臭いや染みがこびりついちまったやつは、いくらクリーニングしたところでどうにもならんだろう。おしゃれには全く興味がない俺でも、もう使い物にならないってことはすぐに分かる。ごみにしかならん。
ばあちゃんはバッグを手早くゴミ袋に放り込んでいくと、それを廊下にぽんぽんぶん投げた。
「ああ、カビ臭くてかなわないね。ったく」
ばあちゃんは、姉貴にがっちり当てこする。ぼよよんの姉貴も、さすがにショックを隠せない。でも一番ショックなのは、姉貴に買われちまった服やバッグの方だよなあ。一度も日の目を見ないうちにゴミにされてさ……。
押し入れを空けたばあちゃんが次に目を付けたのは、巨大な食器棚だった。狭いアパートの、さらに狭いキッチンなのに、その空間を無駄に浪費していた食器棚。その中には、無数の食器が乱雑に詰め込まれていた。
「全部処分だね」
無慈悲にそう言い放ったばあちゃんに、姉貴が食ってかかる。
「あ、あんたに何の権限があって!」
衣類、バッグはもう使えない状態になってたからしょうがないけど、腐らない食器は別でしょ? 姉貴がそういう屁理屈をこねた。だが、ばあちゃんは容赦なかった。
「それは中村さんに言っとくれ。あんたは自力じゃどうにもならなくなって、中村さんに泣きついたんだろ? あんたにはもう何も決定権がないってことなんだよ。その中村さんから、あたしにきちんと依頼があったんだよ。あのゴミ部屋を人が住めるようにしてくれってね」
「う……で、でも」
「デモもストもあるもんかい!」
ばあちゃんは、姉貴を一方的に責め立てる。
「台所見てごらん。いつから流しやコンロ使ってないか知らないけどさ。食器使うようなことなんか、ずっとなかったんだろさ」
狭い台所の隙間に無理やり潜り込んだばあちゃんは、窮屈そうに手を伸ばして食器棚の扉を開けようとした。ぎ……。蝶番が錆びついていて、きちんと開かない。
「ほら、見たことかい」
姉貴がそれに反論出来るわきゃないわな。
またぞろ俺の携帯を使って、今度は浜野さんの方を呼ぶ。浜野さん夫妻は、喜び勇んでやってきた。
「お、すっげえ! これはでけえヤマっすね!」
「だろ? あんたらもいつもは汚れ商売だ。たまにはご褒美がないとね」
「いいんすか? 助かるっす!」
二人は食器棚の中の食器を選別して、がらくたの食器は土のう袋に無造作に放り込んでいった。ぱりんぱりんと皿が割れる音が無情に響く。箱に納められているまともな食器は、その内容を確かめて、引っ越し荷物を作るように慎重に梱包して運び出した。
「折半でいいすか?」
「かまわないよ。出来るだけ高く売り付けてくれ」
「オークションに出せば結構いい値がつくかも」
「期待してるよ」
食器を運び出した浜野さんと入れ替わるように戸田さんが現れて、空になった食器棚を分解して運び出していった。ばあちゃんが、それを見てぽつりと言った。
「まだ赤字だね……」
「え? そうなんですか?」
「ああ。家具は一銭にもならないよ。新品なら別だけどね。処分料取られちまう」
食器棚がなくなったところを浜野さんたちがきれいにして、キッチンに人が立てるスペースが出来た。
シンクの上下の収納。その中の鍋釜や台所用品も、問答無用で廃棄となった。こっちは食器と違って全く無価値だったらしく、ばあちゃんはがっかりした様子だった。
ろくなものが出てこないといえば、それに尽きるのが、ゴキ。廃墟と化したキッチンはゴキの養殖場になっていたらしく、あちこちに死骸と現物がうろうろしていた。同居人がゴキじゃ、笑い話にもならんわ。姉貴をこました男も、これを見たら尻尾を巻いて逃げ出しただろう。やれやれ……。
そして、俺とばあちゃんが心底驚いたのはシンクだった。姉貴が料理なんか絶対にしないってのは分かってたけど、いつの鍋釜と食器なのか分からないものが、シンクの中にうずたかく積み上げられたままになっていた。そして、錆びないはずのステンのシンクが真っ赤に錆びて、腐食した底には無数の穴が開いていた。
俺はシンク下から懐中電灯を当てて、腐食の具合を確かめた。薄暗いキッチンにその光が漏れて、天井に星が浮いた。まるでプラネタリウムだ。それを見上げたばあちゃんが、眉間に皺を寄せて呻いた。
「こらあ……大ごとだよ。シンクと台所の水回り全取っ替えなら、たぶん六桁以下じゃ出来ないね」
一体……飲料水をどうやって確保してたんだ? あ、そうか。飲み水は全部買ってたのか。外食と、ビニ弁、飲み物の食生活じゃあ、確かにシンクやコンロの出番はないわな。それで電子レンジがキッチンに置かれてなかったのか。ひでえ……。
がらんどうになったキッチン。シンクの修理が必要になるから、掃除は最低限だ。それでも、一応物置きではなくキッチンだと分かるようにはなった。
だが、ばあちゃんの追撃の手は一時も緩まない。次の標的は、トイレとバスだ。どっちも、とても女性の部屋のものとは思えないくらいのひどい汚れようで、ばあちゃんが思わず顔をしかめた。
「……」
ばあちゃんは浜野さんたちに、トイレやバスの中にあるものを全部廃棄するよう命じた。
酷いと言えば、バスの横に置かれていた洗濯機。洗濯槽が巨大なゴミ入れと化していて、全く使われた形跡がないってのは……。普段服はクリーニングが使えるからいいにしても、下着はどうしてたんだ? 紙パンツか?
俺がそれ以上何も考えたくなくて固く目を瞑っている間に、戸田さんが洗濯機を撤去した。洗濯機の下は……見事なゴキ城になっていた。ばあちゃんが、逃げ惑うゴキ軍団に無表情に殺虫剤を噴霧する。すでに掃除っていうよりは、ゴーストバスターの雰囲気だよ。とほほほほ……。
「まあ、ものが限られてるからバスやトイレはまだいいんだよ。問題は……」
ローボード、ローチェスト、押し入れの天袋、そしてテレビ台とその周りの収納棚。小さな引き出しや収納の中に、ごちゃごちゃといろんなものが詰め込まれてる。中の物は、量的にはさっきの衣類や食器に比べるとずっと少ないが、収納を無駄に塞いでいてまるっきり実用性がないという点では同罪だ。
ばあちゃんの指示は冷徹だった。
「天袋は開ける。あそこは誰が使っても普段からものが出し入れしにくいんだよ。死蔵の元だ」
姉貴自身も何が入っているか分からないんだから、中を見ずに捨てよう。それほど重いものは出てこなかったが、ゴミとの識別が出来ないがらくたが浜野さんの手によって葬られた。
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