(5)

 そして……。


「引き出しの中身。ゼロにするよ。ショッパーを一つあげるから、そこに必要なものだけ入れてってくれ。制限時間は引き出し一つ三分だ」


 姉貴には、それが死刑宣告に聞こえたかもしれない。だが、この時点でゴールへの道筋が見えた。今まで必死になっている姿を一度も見せたことがなかった姉貴が、血相を変えて引き出しの中をかき回し、姉貴にとっての貴重品をショッパーに入れていった。


 ばあちゃんは姉貴の探索の様子をじっと見ながら、そこに金目のものが残っているかどうかを確認していたようだ。そして、小さくふうっと溜息をついた。きっと、ろくなものが見つからなかったからだろう。


 最後の締め。ばあちゃん自ら、無造作に引き出しの中身をゴミ袋にざあっとぶちまけ、口を縛った。そして、衣類の入らないローボードを戸田さんが壊し、ゴミとして運び出していった。


「梅坂さん、あのローボードはまだ使えたんじゃないですか?」

「いや、あれは安物だよ。部屋が湿気ってるから板が膨れちまってて、もう引き出しがまともに出し入れ出来ないのさ」


 さすがだ。よく見てるわ……。


 大きな家具が撤去されてなくなった部屋。殺風景だが、こんなに広い部屋だったのかと思うくらい開放感がある。そして。自分で選んだ衣類、貴重品、小物の入ったショッパーが各二つずつ。それだけが、姉貴の持ち物になった。


 ばあちゃんが、悔しそうに唇を噛んでいる姉貴に静かに言い渡した。


「これから部屋に清掃と修理を入れる。この部屋はあんたのもんじゃない。借りもんだろ? このままじゃ、あんたがここを出る時に、とんでもない額の修繕費を請求されるよ」

「え?」


 姉貴には全然その危機感がなかったらしい。ばあちゃんは、手にしていたチラシの裏に修繕費の概算を書き連ねていた。それを淡々と読み上げていく。


「床のフローリングの張り替えに二十万。シンクの総取っ替えに十六万、壁紙の張り替えに五万、水回りの補修に五万。バス、トイレの補修、清掃に五万、虫退治に二万。ここまででもう五十万を超えてるね」


 姉貴が、その額を聞いてがたがたと震え出した。


「今言った額だって、あたしならそれ以上のとこには頼まないって額さ。ここの大家が業者指定すれば、いくら取られるか見当がつかないんだよ。そして借りてるあんたには、それは払えないとは言えないだろ?」

「は……はい……」


 うーむ。こんなにしおらしい姉貴は見たことがない。ばあちゃんは、純粋にカネの問題から姉貴を締め上げてる。道理なんてどうでもいい。カネがなくなりゃ、にっちもさっちもいかなくなるからな。

 姉貴は二重にショックを受けただろう。大事にしていたものが、自分のちゃらんぽらんがもとで全部だめになり、無価値だと判断されたこと。そして、無節操な生活のツケが……部屋のダメージという形でとんでもない金額に膨れ上がっていたこと。


 自業自得とはいえ、これだけ悲惨な状況を見てしまうと俺も声が出ない。やっぱりばあちゃんに任せて正解だったな。俺が仕切っていたら、間違いなく俺の血管がぶち切れていただろう。

 人のいうことをまじめに聞かない姉貴を、ばあちゃんがどう服従させるか興味津々だったんだけど、さすがに強力だ。これで、姉貴はばあちゃんに一切逆らえなくなった。その軍門に下ったことになる。


「なあ、栄恵さん。あたしが、なんでこんなに徹底的に物を減らしたか分かるかい?」


 姉貴は無言で俯いた。片付けられないなら物を持つな、そう言われると思ったからだろう。だがばあちゃんの付けた理由はそんな生易しいものじゃなく、俺にも想像が出来ない激烈なものだった。


「あんたに子供が出来りゃ、ここを這い回るようになるんだよ。だけどあんたは、物が増えればそれを上に積み上げてく。そいつが崩れて落ちてごらん」


 ばあちゃんが、凄まじい形相で姉貴を睨み付けた。


「大人にとってはたんこぶ一つでも、赤ちゃんにとっては命に関わる。下手すりゃあんたは殺人者になるんだよ。人殺しだ!」


 それを聞いた姉貴は、小刻みに体を震わせた。


「床に物を置くのだってそうさ。なんでも口に入れようとする赤ちゃんが喉にそいつを詰まらせりゃ、あんたはやっぱり犯罪者になる」


 ばあちゃんは、姉貴の顔の真ん前にしわだらけの指を突き付けた。


「子殺しの前科もんになるのが嫌なら、散らかせないくらいに物を減らすんだね!」


 そうか……。ばあちゃんは、姉貴に母親としての自覚が出来るってことを最初から期待していない。ないものをベースに調教をしたって、全く効果がないってことだ。俺が糧道を絞って姉貴に言うことを聞かせようというのと同じで、犯罪者になれば生活の全てを失うという恐怖を植え付けた方がいいと考えたんだろう。さすがは海千山千のばあちゃんだ。


 感服いたしました!


◇ ◇ ◇


 姉貴のゴミ部屋の始末が終わって、姉貴の強制送還の下地は整った。だが家事を一切しない姉貴をすぐそこに戻せば、ばあちゃんの脅しがどんなに強烈でも部屋が元に戻るのは時間の問題ということになる。


 ごみ部屋の始末以上に厄介な、姉貴への家事の仕込み。しかも、家事を蛇蝎のごとく嫌っているひろとペアだ。いかに強者のばあちゃんとはいえ、それにはきっと手を焼くだろうな……そう思いながら。ホームレスのおばさんみたいにくたびれ果てた姉貴と、上がりが予想以上に少なくてがっかりしてるばあちゃんを乗せて引き上げた。


 俺らがマンションに戻った直後に、姉貴の会社から姉貴の携帯にあてて電話がかかってきた。俺が姉貴の代理で打って、会社と上司の男に流したメール。それに対して会社が動いたということだろう。上司の男がメールを無視することは想定内だ。


「はい……はい。分かりました」


 姉貴が電話を切って、浮かない顔をした。


「なんだって?」

「あの男。俺は知らない。やってないの一点張りだって」

「はん。悪あがきだな。いい。乗り込もう」

「え!?」

「おぽんちな姉貴一人で、ごっつい男どもの相手が出来るわきゃあないだろ? フレディのところから弁護士さん一人借りてる。もちろんタダじゃないぞ。カネがかかる。それは姉貴にツケるからな」

「う……」


 重しを一個追加して、と。俺はフレディに電話して、三中みなかさんに来てもらうことにした。三中さんはJDAの嘱託で、ベテランの辣腕弁護士さんだ。調査絡みで踏み込んでしまったごたごたの解決や、依頼者のアフターケアを受託してる。


 ばあちゃんをかみさんに預け、姉貴の勤めている会社の社ビルの前で待ち合わせて、三中さんが来るのを待った。


「中村さん、ご無沙汰してますー」


 人のよさそうな初老のおじさんが、帽子を振りながら駆け寄ってきた。


「すみません、突然面倒なことをお願いして」

「いえ、かまわないですよ。ジョンソンさんには、すでに男が使ったホテルを特定してもらってます。従業員からの裏付けも取れてます」


 よし。これで、男の退路は完全に断った。まあ、いざとなれば子供の遺伝子判別という最後の切り札があるしな。


 三中さんに一つボタン形の盗聴器を付けていってもらって、姉貴と会社との話し合いの中身をリアルタイムで確認することにする。後で三中さんから説明してもらうのでも構わないんだが、不測の事態に備えられるようにしておいた方がいいだろう。姉貴と三中さんが連れ立って社屋に入った。俺は、社ビルから少し離れた路上で待機する。


 話し合いが始まった。会社側ではもう一度双方の言い分を聞きたいということで、姉貴と、古田という上司の男の両方に事情説明を求めた。


 姉貴は酒で記憶が飛んでいて、行為の間のことは覚えていない。全てが終わった後で、行為があったという会話と避妊具なしで性行為されたことをバスルームで確認しただけだ。すでに開き直っていた姉貴は、それを残らず上層部にぶちまけた。


 古田は、当然のことながら徹底してシラを切った。そもそもからして、俺はおまえとホテルになんか行った覚えはない。あんたが、誰か他の男と寝た後始末を俺に押し付けようとしてるんだろう、と。いけしゃあしゃあとよく言うわ。


 言った言わないの押し問答だけでは、一向に埒があかない。あほうの姉貴だけならとても歯が立たなかっただろう。だが、三中さんはただの弁護士ではない。犯罪被害者の法的サポートをずっとやってる人だ。いきり立った姉貴をなだめて、静かに本部長に申し渡した。


「当方では、古田さんのご家族のこともあるでしょうから、事を大きくせず穏便に済ませることを前提にしてこちらに伺いました。ですが、事実を認めて下さらないということであれば、こちらとしては被害届を出さざるを得ません」


 室内が大きくざわめいた。古田も上層部の面々も慌てたと見える。事件化して社名がマスコミに出ようもんなら、大ダメージだからな。


「私どもとしては、準強姦の被害者として警察に捜査をお願いするということになりますが。それで……よろしいんですね?」


 会社の面々も古田も、メールで最初に俺が流した警告を単なる虚仮威しと見ていたんだろう。あふぉか。


「いいですか? 今は、親子関係を科学的手法で確かめられます。あなたがどんな理由をつけようが、それが確認されれば絶対に逃れられません」


 古田は、姉貴と寝たがそれは合意の上だったと主張した方がまだマシだったんだ。だが姉貴が孕んだ子の認知が絡むのを嫌気して、姉貴をこました事実そのものを否定しにかかった。しかし、仕込まれた子の親子関係を証明されてしまえば、古田の言い逃れはすぐに崩れる。その後からは、どんな理由を後付けしたところで効力がなくなるんだ。

 しらばっくれる作戦が失敗に終わった古田は観念したらしく、何も言わなくなった。


「古田さん。もう一度確認しますね。あなたが栄恵さんに行った行為。それを認めますね?」


「ああ……」


 よし。陥落した。


「それでは、子供が産まれ次第認知をしていただきます」

「そ、それは……」


 古田は、自分の家庭を壊したくなかったんだろう。戸籍が汚れれば、それはいつか必ずばれるからな。三中さんは、抑揚のない声で事務的にさくっとやっつける。


「あなたご自身が招いたことですよ。当然の酬いでしょう? 責任を取るつもりもなく、栄恵さんを便器のように扱った。栄恵さんは物ではありませんよ?」

「……」

「いいですか? 正直に申しますとね、私どもが穏便に済ませようとするのは、あなたのためでもご家族のためでもありません。これから産まれてくる子に、『犯罪者の子』っていう冠詞を付けたくないからです」


 口調は穏やかなのに、中身は激辛だ。男も社の重鎮たちも、ぐうの音も出ない。


「それをご理解くださいね」


 咎は、古田にだけあるってことじゃない。古田の不埒な行動を以前から把握していたのに、それをきちんと監督、指導してこなかった責任は社にある。だが、三中さんはそこには突っ込まなかった。会社に恩を売ることで、姉貴に対する優遇措置を引き出す。その方がずっと実利が大きいからな。


 本部長から、その場で古田に打診が行われた。会社側からの解雇処分という形には、極力したくない。それは、男が退職時に受け取れる退職金等に直接影響するだけでなく、男の再就職にも響いてしまうだろうから。自己都合による退職という形で手続きを取りたい、と。古田がそれを断れるわけはなかった。


 これまで仮染めにでも会社で築いてきた地位も財産も、一瞬にして失うこと。一見残酷に見えるが、人一人の生命をそれであがなえるのなら安いものじゃないか。職を失うだけで、履歴書の賞罰欄を汚すでもなし。いくらでも、再起の道は残されているんだからな。


 続いて本部長から、姉貴にも打診があった。古田からの金銭的な補償は求めないのか、と。


 俺は、姉貴にあらかじめ言い含めてある。俺に今回のことを全て仕切って欲しいのならば、カネの話には一切口を出すな、と。姉貴がカネに色気を見せた時点で、会社が姉貴を見る目が変わる。単なる欲ぼけ色ぼけの年増女のレッテルを張られてしまったら、いくら古田がいなくなったと言っても結局社に残れなくなるからだ。


 ラッキーなことに、姉貴にはさっきばあちゃんにこれでもかとやり込められたお灸がまだ効いていた。本部長の問いかけに口をつぐみ、何も言わなかった。よし!


 三中さんが、すかさずフォローした。


「慰謝料と生まれてくる子供の養育費をお支払いいただけるのならば、もちろん要求したいのですが」


 三中さんの次の言葉は、さながら刃のようだった。


「御自身の不当行為を認めずにしらを切って逃げようとなさる無責任な方から、約束通りの支払いが行われるとはとても思えませんのでね。最初から何も期待しておりません」


 これで姉貴の株が倍くらいに上がり、男の株は完全に紙くずになっただろう。だが、それではあまりに姉貴が気の毒だと思ったのか、本部長が仲裁案を持ち出してきた。


「今後生まれてくる子供のサポートのこともあるでしょうから、古田くんの退職金から五百万自主返納させて、中村さんへの一時金として付け替えます。それで御了承していただけないでしょうか?」


 手切れ金五百万ということだな。くれるというものを拒む理由はない。三中さんが姉貴に確かめた。


「栄恵さん。よろしいですか?」


 姉貴は頷いたようだ。


「分かりました。それは受領いたしましょう。ただし」


 三中さんが、最後にきっちり釘を刺した。


「私どもは、それを慰謝料や養育費ではなく、手切れ金として受け止めます。責任を取らない人に父親面はして欲しくありません。今後、古田さんの栄恵さんおよびその子供への接触は一切お断りします。もしそういう行動、言動があれば即座に警察沙汰にいたしますので、重々ご承知置きください」


 これで、古田が姉貴のだらしなさに乗じて姉貴を再び食い物にするリスクを下げられた。俺は受信機のスイッチを切って、天を仰いだ。


「片付いたのは外だけ……か。やれやれ」


 そう、姉貴のゴミ部屋。上司の責任問題。どれも、姉貴の『外』のものだ。姉貴自身には片付けられないから、俺やばあちゃん、三中さんが代わりに片付けた。それだけなのだ。そして姉貴自身が腐っていれば、『外』はまた汚れていく。


 三中さんが古田に突き付けた言葉。犯罪者になりたいのか。それは……ばあちゃんが姉貴に言い渡したのと同じことだ。姉貴を人として認めなかった古田と同じことを、姉貴が自分の子供に対してすれば、姉貴は古田のことなんか一切言えなくなる。そして……姉貴にはまだその恐ろしさが何も分かっていない。


 本当に頭が痛い。


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