第七話 メールオーダー
(1)
「げーっ!」
中村家の朝は、ひろの豪快な嘔吐の音から始まる。
「げーっ!」
むぅ。オトコの俺には分からない世界だが。あれを見ただけでも、俺はオンナには絶対になりたくないと思ってしまう。それくらい辛そうな光景だ。
「げーっ!」
ひろ自身は食欲がないわけじゃなくて、お腹は空いてる。食べたいという欲求は常にある。だが、まるで胃袋が敵軍に寝返ってしまったかの如く、飲み込んだ食料が即座に宛先不明で戻ってきてしまうらしい。
「げーっ!」
ううう。いたたまれない。
ひろは、どうしても体がしんどいというところまでは仕事をするつもりだったらしいが、外回りがメインのひろがこの状態ではそれどころじゃない。社長から直々に外回り禁止令が出ていて、出勤してもオフィスに缶詰にされてしまうらしい。ひろ的には、そんなのは勘弁してってことなんだろうけど、お客さんの顔にげろぶちまけるわけにはいかんだろよ。俺が社長でも外出禁止を命ずるわ。
つーことで。その後つわりがいっそう悪化したひろは、今は外回りはおろか出社すら禁止され、自宅軟禁状態になっている。ありがたいことにテレビ会議やらメールやら、会社にいなくてもそれなりに仕事をさばける環境が完備している会社なので、つわりのストレスでぶち切れそうなひろも辛うじて正気をキープ出来ている。どこにいっても仕事の手先が待ってるってのは、俺的にはあまりありがたくないが、仕事人間のひろにとっては地獄で仏なんだろう。
やつれ顔でよろよろと洗面所から戻ってきたひろが、ソファーにばったりと倒れ込んだ。
「おなかすいたー……」
「だよなあ。今度は何試す?」
つわりがひどいからって、何も食べないというわけにはいかない。ご飯から麺類へ、スイーツもゼリー系へ。少しでも吐き気に結びつきにくい食材を探して、毎日試行錯誤が続く。
「とりあえず、ポカリ飲むわ」
「分かった」
冷蔵庫から出したポカリをグラスに注いで、少しだけレモンを絞って足す。口の中に残った嘔吐物の臭いで、また吐き気が誘発されるからな。飲まないまでも、これで口をすすぐだけでも少しはすっきりするはず。
俺がポカリのグラスを持ってリビングに戻った時には、もうひろの姿はなかった。そして洗面所から再び豪快な音が……響いてきた。
「げーっ!」
こらあ……大変だあ。
◇ ◇ ◇
今までがっちり貯めましょうしてきたから、一年や二年収入が途絶えたところで慌てるこたあない。そっちはいいんだが、予想以上のつわりのひどさでひろが完全にダウンしちまった。悪阻って言うよりゃ、すでに妊娠中毒一歩手前だ。ひろの状態によってはすぐに病院に連れていかなあかんから、俺は長時間家を空けられないし遠出も出来ない。
つーことで。俺は自分の事務所にも、フレディのところにも詰められなくなってしまった。それどころか、買い物にも時間制限ありの状態だ。こういう時には、俺かひろの母親に来てもらって、一時看護を頼むってのが一番の解決策なんだが……。
俺の両親は今海外に住んでいるので、さすがに呼び出せない。もっとも、近くに居たところで頼む気はさらさらないが。なんでああいうのが親と名乗れるんだっていうくらい、揃って勝手気ままで、無責任で、空気を読めないのが俺の両親だ。緊急事態だから来いと呼びつけたところで、家にじっとしてられなくて、元気そうで何よりとかバカなことを言い残してさっさととんずらこくのが関の山だろう。もちろん、率先して家事を手伝うなんてこたあこの世の終わりが来てもありえない。
俺がこれだけ何でもこなせるようになったのは、親の家事の手抜きが極端にひどかったからだ。うっかりそういう穀潰しを招き入れてしまったら、そいつがメシを食い散らかす分だけ俺の仕事が増え、財布が痩せる。そんなのは真っ平ご免だ。
そして……。まだ独身の姉貴は、ひろに輪をかけて家事がだめな上に、だらしないことこの上ない。気の毒だが、悪いところばかり両親から受け継いじまったよなあ。
姉貴はひろに負けず劣らず面もボディも極上だが、もう四十を越してる。いい年だ。それに、見た目が峰冨士子でも中身がナメゴンじゃあ、さすがに引き取り手は現れないだろう。俺が呼べばほいほい出て来るだろうが、何の役にも立たん。
俺の家族に輪をかけて頭が痛いのが、ひろの両親だ。大変ご立派な家なんだが、惜しむらくは脳みそが鉄筋コンクリートで出来ている。良妻賢母が理想の両親は、そもそも一人娘のひろが働くことすらものすごく嫌っていたらしい。家に閉じ込めて習い事をさせ、婿を取らせるか、深窓の令嬢としていいとこに嫁がせたかったんだろう。
だが、ブルドーザと相撲が取れるくらい馬力の有り余っているひろが、それにはいそうですかなんて言うわきゃあないわなあ。激しいどんぱちを繰り広げた挙げ句に、家を飛び出して早くから自活してる。その割に、家事がまるでだめっていうのがどうにもこうにも解せないんだが。
自分の親のことを『あの猫跨ぎ』と言い放つくらいだから、その確執は生半可なものじゃない。それに加えて、結婚した相手がほとんどヒモ状態の俺だ。親のユメとキボウを木っ端みじんに粉砕した上に、分厚くアスファルトを乗っけてローラーかけたようなもんだからな。激怒した両親は、あんなやつは娘でもなんでもないとひろを見捨ててる。実質勘当状態だ。
双方の親が揃いも揃ってネジが外れたトンデモ系で、俺たちとはずっと没交渉だったから、普段はえらく気楽でいいんだが、こういう時に跳ねを食ってしまう。かと言って……家政婦を入れるカネもない。もし俺が入れると言っても、ひろが拒否するだろうしな。
外での戦闘モードが激しい分、自宅に帰ったひろは徹底的に緩んで、地を曝け出す。客なら短時間だから構わないんだろうが、家政婦が常時うろちょろしているのは、気が張ってかえってストレスになるんだろう。
まあ数日様子を見て、その間にまた方策を考えるとするか。
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