(3)

 ひろには、あらかじめメールを入れておいた。マンションに客が来る。プライベートな客じゃなくて、クライアントだ。よろしく。慌てたひろからすぐに返信が来た。掃除も何もしてないよ、と。俺は速攻で返す。何もせんでいい。そのままにしといてくれ。

 ひろは目を白黒させているだろうな。だが家事の苦手なひろは、普段から家の中のことは俺に任せきりだ。きっと開き直ると思う。


 山のような買い物袋を下げて、俺とその子はマンションに帰り着いた。もう昼時だ。いつもならすぐにメシの支度だが、今日はそうはいかない。もう一仕事、と。

 男の子は思いきり面食らっていた。体験学習っていうから探偵の仕事を見せてもらえると思っていたのが、いきなり買い物。それもとんでもない量。尾行とか監視とかそういうのが紛れてるのかと思ったのに、俺はチラシしか見ないし。なにこれって感じで。そういう戸惑いを抱えたまま、マンションに来た。


「あ、入って」

「は、はい」


 リビングに上がったら、ひろがその子を見て絶句してる。


「ちょ、ちょっとみさちゃん。クライアントって、その子なの?」

「そう。調査費用払えないっていうから、体で払ってもらうことにしたんだ」

「ほ」


 勘のいいひろのことだ。俺の狙いはすぐ読むだろう。


 どっかりソファーに腰を下ろしたまま、会社の書類に目を通しながら牛のように動かなくなったひろを後目しりめに、俺はこまねずみのように走り回った。洗濯機を回して洗濯物を干し、全部の部屋に掃除機をかけ、昼メシの支度をする。男の子にはそれを逐一手伝わせた。

 俺だけじゃない。男の子にも一切緩む暇はない。なぜ僕がこんなことしないとならんのーという感じはばりばりありながら、それでも俺に依頼を引き受けてもらうために、与えられたノルマを必死にこなす男の子。


 いつもよりずっと遅く、二時過ぎにやっと昼食になった。


「遅くなったな。メシにするか」


 ひろは、いつものように貧相な座卓の前にどかっと座って、箸を持って待ち構えてる。男の子が、それを呆れ顔で見てる。


「あの……おじさん」


 みさちゃんつー呼ばれ方も辛いが、おじさんて言われるのもとことんかなわんわ。とほほ。


「なに?」

「奥さんて、何もしないんですね?」


 ははははは。まあ、普通はそういう感想を持つわな。


「まあ、それは食いながら話しようか」


 小さな座卓には、二人分でも食器が乗り切らない。俺と男の子の分は、ダイニングテーブルの上だ。それをひろが恨めしそうに見ている。


「さて。食べよう」

「はい! いただきます!」


 男の子はお腹が空いたんだろう。実に気持ちのいい食べっぷりだった。ひろは、その様子をにこにこしながら見てた。


「わ! おいしいですー!」

「ははは。そりゃあ、よかった」


 食事の後片付けをして、お茶とお菓子をテーブルに並べた。かみさんの分は座卓の上。お腹が落ち着いた男の子は、しきりに首を傾げてる。やっぱり分かんないや。これのどこが体験なんだろう? そんな感じで。さあ、ここから座学ってことだな。


「じゃあ、私が何か言う前に、岸野くんの質問から受けよう。何か学ぶ時には、自分の不足分からスタートさせるのが鉄則さ。出来ない、分からない、おかしい、そういうところが、それを解決しようっていう原動力になるからね」

「あ、確かにー」


 男の子がうんと頷いた。


「あの。じゃあ、正直に聞いていいですか?」

「いいよ」

「僕が手伝ったのは、探偵とは何も関係がないように思えるんですけど」

「そうだろうね」


 至極真っ当な疑問。まず、そこからスタートだ。


「最初に、私は君にこう言ったはずだよ。私の仕事ぶりを見てもらう、と。さあ、どういうことかな?」


 俺は、最初から回答は与えない。この子は頭がよく回る子だと思う。それをしっかり使えるようにした方がいい。じっと考え込んでいた男の子が、上目遣いで俺を見上げた。


「あの。それは……さっきの買い物や、掃除や洗濯、ご飯作りもおじさんの仕事ってことですか」

「正解」


 男の子の目がひろに向く。きつい視線。きっとこの子のお母さんは専業で、家事を万端こなしているんだろう。その子からすれば、何もしないでただふんぞりかえっているひろの態度は理解できないだろうな。


「説明する前に、私の家内を紹介しておこう」

「はい」

中村なかむら広夢ひろむ、ひろ、だ」


 ひろが座卓に両肘を付いて、にっと笑った。


「よろしく」

「あ、はい」


 男の子が首を傾げる。


「あの……」


 俺ではなく、ひろに問い掛ける男の子。


「おく……さんは、何もしないんですか?」

「しないよ」


 あっけらかんと答えるひろ。


「みさちゃんが、しなくていいって言うからね」


 絶句する男の子。さあ、そろそろ種明かしと行くか。


「岸野くんにいろいろ手伝ってもらったのは、仕事ってことに固定観念を持って欲しくないからなんだ」

「は?」

「まあ、ぶっちゃけた言い方をすれば、私は家内のヒモだ」

「ヒモってなんですか?」


 ひろも顔をしかめた。まあ、こういう時はしょうがないって。


「女性に奉仕して、それで自分を養ってもらうオトコさ」


 異様なものを見るみたいに、男の子がじりっと俺から距離を取った。


「私の調査業の収入は、月に均せば十万になるかならないか、だよ。たぶん、君のお父さんの三分の一もないね」

「え!?」

「それに比べて、家内は会社の部長さんだ。君のお父さんの倍くらいは月収があると思う」


 部屋を見回した男の子が納得する。


「君がもし私の立場なら、君はそれに我慢できるかい?」


 俯いた男の子が、ゆっくり首を横に振った。


「出来ないです」

「だろ? 君は部屋で飼われてるわんこと同じだ。女に何を言われても、何をリクエストされても逆らえない。じゃあ、もう一つ聞こうか。私がそれで卑屈になってるように見えるかい?」

「いいえ」

「なぜ?」


 男の子がじっと考え込んだ。


「分からないです」

「ははは。簡単なことだよ。私と家内は正式な夫婦だからさ。私たちはある出来事がもとで知り合って、互いに好きになって結婚した。家内が金持ちだから結婚したわけでも、家内が私をヒモにするために結婚したわけでもない」

「は……あ」

「収入の格差ってのは、気になるっちゃ気になるが、私はそれはどうでもいいんだよ。ただね」

「はい」

「家内は高給取りだが、仕事も激務なんだ。朝早く出かけて、夜遅くに帰ってくる。その状態で、家事を手際良くこなす余裕はない。放っておくとカップ麺がメシで、クリーニング屋に洗濯物全部放り出して、部屋はごみだらけってことになる」

「あ……そうですか」

「私には、依頼が不定期にしか入らない。その他は自由時間なんだ。そこに家事業務を詰め込んだってわけさ。私にとっては立派に業務なんだよ。稼ぎ頭の家内の健康と生活を維持するっていうね」


 しばらくじっと考え込んでいた岸野くんが、何度か首を傾げる。


「それでも……なんか」

「ははは。私たちのとこは、ちょっと世間から外れてるかも知れない。でもね、私が言いたかったのは、それを理解してくれってことじゃないんだ。生きる、生活するってことはきれい事じゃないってことなんだよ」


 まあ。まだ親掛りなら分からんだろなあ。でも、そろそろ意識はしといた方がいい。


「私が家事に精を出すもう一つの理由。それは、私の調査業の腕を上げることにつながるからなんだ」

「え? どうして?」


 問い返す声は、男の子だけじゃなくひろの口からも漏れた。俺は男の子から視線を外して、ひろを見た。


「家内と結婚するまでは、調査業だけで食えない分を他の仕事で埋めてたのさ。当たり前だけど、その仕事中は探偵としての仕事は一切出来ない」

「あ!」


 男の子が、がたんと立ち上がった。


「それに比べると、家事っていうのはものすごく融通が利く。私は手を抜いてるつもりはないよ。それは一緒にやってもらって分かったと思うけど」

「はい!」

「それでも、その時間や業務量の振り分けを、私の方で決められる。それに金銭的な心配をしなくても済む。足と目で稼いだ情報をしっかり頭の中で整理して、依頼人が納得する解を探る、そういう時間と心の余裕が確保出来るんだ。それは、調査業に携わる私の腕前の向上につながるってことなんだよ」

「そうかあ……」


 男の子とひろがハモってるのが、なんか面白い。


「私が欲しいのは、そういう余裕なの。だから、それを確保する手段は選ばない。それが、私が生きるっていう方法なんだよ。形なんかどうでもいいんだ」


 男の子は、まだ首を傾げてる。


「あの……」

「うん」

「聞きにくいことなんですけど」

「おう」

「そこまでして、どうして儲からない探偵っていう仕事にこだわるんですか?」


 まあ、そうだろな。普通は、探偵って商売が好きだからって答えるんだろう。でも、俺は別の言い方をした。こいつは宿題さ。この男の子が、将来自分をどう生かすか考える。そのヒントを今持たせてあげよう。


「それはね。私が」

「はい」

「探偵だからだよ」


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