(4)
翌日。事務所に来られたおばさんに、これまでの調査結果をつぶさに報告した。ご主人には、肉体関係を伴うような明らかな浮気の事実はない。ただし、面識のない女性を相手に
俺は、最初に拾ったナイトの文を広げて見せた。おばさんが、それを食い入るように見ている。
「私が思うに、ですが。ご主人は、あなたがフラワーアレンジの教室を始められてから、急に寂しくなったんじゃないでしょうかね」
「そうですか?」
「はい。あなたが毎日生き生きと過ごされているのを見て、自分の生活の味気なさが辛くなってきた。職場でも家庭でも、自分の心の出口がない。その時に、ご主人はたまたま昼ご飯を食べていたベンチで、その女性が書き置いていたポエムか何かを読んだんでしょう」
実際にレナの書いた文章も手元にあるんだが、それを見ておばさんの嫉妬が爆発してしまうと全部おじゃんになる。俺は状況説明だけにとどめた。
「自己嫌悪と自虐にまみれた暗い文章。その女性もまたいっぱいいっぱいだった。どこかに出口が欲しくて、SOSのつもりで書き置いたものだったんでしょう。ご主人は、それに危うく同調しそうになった」
「同調、ですか」
「ええ、私はそう思います。ですが、ご主人は思い直した。それじゃいかん、あまりネガティブに考え込むなと返事を書いて、その女性にエールを送った」
「エール……」
「それは、ラブレターとかそういう次元のものじゃないです。溺れそうな、凍死しそうな者同士が互いに励ましあうのに近い」
「はい」
「ただね、それはお互いを知らないから出来るんです」
「ええ、分かります」
「でしょう? 今回のケースでは、相手の女性は男性恐怖症で、男性の前ではまともに会話出来ません」
「!!」
おばさんが、口をあんぐり開けて絶句した。
「ご主人は、それを女性の書いた文から読み取っていた。だから、一度も会うということを考えなかったんです」
「あ……」
「でもね。ご主人とその女性の関係は、どのみち互いの虚像を見ているに過ぎません。限られた言葉で、限られた機会で、辛うじてつながっているだけ」
「ええ」
「発信者の分からない文は、幽霊からの手紙みたいなもんです。誰もそれに責任を取ってくれない。何の力にもなり得ない。いずれ腐って二人の妄想を膨らませ、どちらにも深刻なダメージを与えることでしょう」
「は……い」
「ですからね」
俺は事務机から鋏を出すと、ナイトの文をばさばさっと切り裂いて、それをゴミ箱に放った。
「私がその接点をぶった切ってきました」
「わっ!!」
おばさんがのけぞって驚いた。
「そ、そんな」
「だから、最初に確認させていただいたんですよ。私がご主人に接触することを容認してくださいね、と」
おばさんが、俺の顔を凝視する。俺は少しだけ笑ってみせた。
「私は相手の女性の代理人を装って、レナはもうご主人には接触しないと伝えただけです」
「あ……」
「ご主人が、相手の女性をどのように思われていたのかは存じません。ですが相手の女性に自分の姿を見せれば、これまでの関係が壊れるということは分かってるはずです。そこから先は、もう幻想の入る余地がないんですから」
「そうか。そうですよね」
「はい。ですから女性からのアプローチがなくなるということは、そこで関係が終わるということを意味します」
おばさんが、何度か頷いた。
「ご主人は、とてもまじめな方ですね。あなたをないがしろにしてまでその女に突っ込むことはしなかった。ですが、接触してしまった女の心をむげに振り捨てることも出来なかった。その板挟みになったんですよ」
「板挟み……ですか」
「はい。それは浮気という言葉では現せません。もっともっとひっそりしたものです。ですから」
俺は、開いていた手帳をぱたんと閉じた。
「ご主人を責めないでくださいね。私に突然ぷっつり接続を切られて、しばらくはがっくり落ち込むはずです。ですが、それが紛れもなく現実ですから」
「はい。そうですね」
おばさんは、やれやれという表情でかすかに笑った。それからもう一度、心配顔になった。
「あの……」
「なんですか?」
「その相手の女性から……は?」
「ああ、ご主人へのアプローチは二度とないでしょう」
「え!?」
「その女性はご主人の年齢も、職業も、容姿も、家庭の状況も何もかも知らない。知らないからこそ、安心して自分の心のゲートを限界まで開けてたんです。ですが、私が彼女に直接たれ込んできましたから。あなたの相手は年配の妻帯者で、その奥様が浮気を疑ってますよ、と」
「うわ!」
そこまでしていいのかって感じで、おばさんが頭を振った。
「ははは。私はご主人の名前も身分も一切出してませんよ。でもその事実を知れば、彼女にはもう幻想が何一つ残りませんから」
「そう……ですか」
「本当はそこまでしなくても、二人の密かな通信を第三者が知っているという事実を伝えるだけでも、関係は壊れたと思うんですけどね。一応念には念をということで。これで、この件はおしまい、です」
おばさんが肩の力を抜いて、ふうっと大きな息を吐いた。おばさんさえ納得してくれれば、浮気騒動の泥沼には誰も足を突っ込まずに済むだろう。俺が出過ぎたまねをした甲斐があればいいけどね。
◇ ◇ ◇
ちょうど二週間を要した案件。人物対象の調査なので、基本料金が五万。プラス、日当が十日分で五万、交通費等で五千円。合計十万五千円だったが、俺は六万しか受け取らなかった。
「あの、こんなにお安くていいんですか?」
「私のところじゃ、沖竹さんのようなごつい調査は出来ません。今回もヘマをしましたしね。そのペナルティの分を割り引きさせてもらいました」
「え? ヘマ、ですか?」
「はい。調査員が、依頼人の関係者に余計なことをしちゃあ絶対にいかんのですわ。だから私は、いつまでたってもへっぽこなんです」
おばさんは、それを聞いてにこっと笑った。
「いいえー、とても素敵なへっぽこだと思います」
「ははは。ありがとうございます。予定額との差額で、ご主人とおいしいものでも食べに行ってください」
「ほほほ。そうですね。ありがとうございます。それでは失礼いたします」
俺は、がたの来た戸をぎゃるぎゃる言わせながら力任せに引いた。穏やかな表情で事務所から出たおばさんは、俺に何度か深々と頭を下げるとゆっくり歩き去った。
◇ ◇ ◇
「ううー、どっと疲れたー」
ぶつぶつ言いながら、ひろがリビングに入ってきた。今日はいつも以上に激務だったんだろう。
「おお、お疲れさん」
「あれ? みさちゃん、機嫌いいね?」
だから、みさちゃんは止さんかー! 他にどう呼べばいいんだと突っ込まれておしまいなんだが。くそう。
「まあね。一つ案件が片付いたから」
「へえー、浮気調査?」
「そう。白だったしな」
「でも、クロじゃないとお金にならないんじゃないの?」
「まあ、稼ぎ的にはね。でも、俺的には白の方がずっといいさ」
「そっかー」
納得顔のひろが、スーツを脱ぐのもめんどくさいって感じで座卓に飛びついた。
「わあい! イイダコ煮たのだー」
「子持ちだよ。好物だろ?」
「うん!」
嬉しそうにイイダコにかぶりつくひろを見て、俺はほっとする。
砂の中に隠れているアサリ。その中にさらに隠れているピンノ。心と言うのは脆くて、そして儚い。それが恋心であってもなくてもだ。だから、壊れないようにとひっそり隠しておきたい気持ちはよく分かる。だけどな。見えないもの、見せないものは、実際には決して顧みられることはないんだ。たとえそれが、形を伴わない心ってやつであってもね。
俺の思索をぶち壊すように、茶わんを持ち上げたひろがでかい声を張り上げた。
「みさちゃん、お代わりー!」
【第二話 ピンノ 了】
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