(3)

 猫の時は三日で一区切りにしたが、人相手だとそうはいかない。本当は一か月欲しいところだが、最初の一週間で目処は立つだろう。なぜなら、沖竹の調査員と俺とでは見るところが違うからだ。通常の浮気調査と違って、俺はすでに材料を持っている。


『ご主人の浮気の事実はない』


 そういう、沖竹御墨付きの強力な材料だ。つまりご主人が裏手段を使って、女との密会をどこかにセッティングしているという可能性を最初から排除できる。あとは、もっと微弱な接触の有無を確かめればいい。


 ご主人は技術職で、仕事場には男しかいないそうだ。だから会社にいる間、そして帰宅した後には、ご主人に第三者と接触するチャンスがない。出勤、退勤の移動中、そして昼休みに何か第三者との接触があるか。そこしかないのだ。


 調査を開始する。朝の通勤時はラッシュで、他者との意図的な接触は無理。退勤時も、業界新聞を読んでいるだけで他人に目を向けることはなかった。携帯すらいじらない。じゃあ、あとは昼か。


◇ ◇ ◇


 数日観察した結果、通勤、退勤時の行動は全く同一。そしてご主人は、昼飯を社内で食わないということが分かった。社屋の近くに結構大きな公園があり、雨でない限りはコンビニで買った弁当やパンを持っていって、そこのベンチで食っていた。さらに、いつも一人で、誰かと一緒に飯を食うという素振りはなかった。


「こりゃあ、逆さにして叩いても埃一つ出やしないなあ……」


 まあ、見事なくらいに真っ白けだ。沖竹が、綿密な調査結果を疑うのかと激怒する気も分かる。だが、俺にはそれが白過ぎるように見えた。女の影どころの話ではない。ご主人の周りに、あまりに人気ひとけがなさ過ぎる。奥さんとは普通に会話していたと言うから、決して人嫌いの偏屈ものというわけではないんだろう。それなのに、どうもご主人のところだけ周囲と空間が切り離されてしまっているような感じがしたんだ。


 それと、俺は一つ奇妙なことに気が付いた。とても常識的な行動をしているご主人が、昼飯を食べ終わったベンチに紙くずを一つ丸めて、ぽんと放っていくのだ。


「もしかして……」


 俺はご主人が立ち去った後、清掃を装ってその紙くずを拾った。それをゴミ箱に放り込む振りをして、別のゴミを捨てる。それから、ベンチから離れた木陰に隠れた。しばらくして、事務服を着た若い女が一人。同じベンチに座って弁当箱を開けた。黙々と弁当を食べた女は、ちらりとベンチの周辺を見回して、それから弁当箱を片付けると足早に去った。


「唯一の接点、か」


 俺は、その女を調べることにした。


◇ ◇ ◇


 その若い女は、痩せた陰気な女だった。ご主人の会社とは全く違う業種の会社の事務員。口数も少なく、愛想もなく、同僚にもあまり相手にされていないようだった。さらに、病的なくらいに男性を忌避していた。男性恐怖症と言ってもいいだろう。どう考えても、一番脂ぎっているご主人の年代の男性を積極的に受け入れるとは思えない。ましてや、浮気の相手などには絶対になりようがないだろう。しかしそれが、俺の知りうる限り唯一の、ご主人と奥さん以外の女性との接点だ。


「と言うことは……だよなあ」


 ご主人が残していった丸めた紙ゴミを開いて、そこに書かれている文面を何度も確かめる。そこに、全ての真実が書き記されていた。


『レナ 君が異常というわけじゃない。

 誰もが、全ての人を受け入れることは出来ないよ。

 受け入れるのが誰かも、それが多いかどうかにも、意味がないと思う。 ナイト』


 それは、密会する場所や日時を表す通信文や暗号文ではなく、どう見ても人生相談の返答文だ。そしてそれが、ご主人があそこで昼飯を食う理由なんだろう。


 俺は、依頼人への報告を一週間延ばして、その間の二人の紙ごみ通信を追ってみた。ご主人がナイト。あの女はレナ。互いに偽名を使って、二度のやり取りがあった。それは、確実に文を交わすと言う性質のものではなかった。風の強い日には吹き飛ばされ、俺がしたようにゴミとして捨てられ、それでも互いの手に渡ったのが二週間で二度。

 レナが自分の覇気の無さ、引っ込み思案、男性不信を嘆き、ナイトがそれをやんわりと戒め、慰める。そいつは、世間一般に言う浮気じゃないね。でも、プラトニックラブとか言うものでもない。なんと言っても、二人の間には実際に顔を合わせるという接触が一度もなかったのだ。


 落ちている言葉にそっと心を寄せる? ばかばかしい。そんなの、落書きを神仏みたいに拝むのと変わらないじゃないか。

 だが、二人にはそれが必要だったのだろう。きっと。きっと、ね。


◇ ◇ ◇


 依頼人への報告を翌日に控えて。俺は公園で昼飯を食っていたご主人に近寄った。


「こんにちは」


 誰だろうという表情で俺を見上げたご主人に、用意していた一言を伝える。


「伝言です」

「伝言?」

「はい。これまでありがとう、と。レナさんから」


 男はむっとした顔で俺を睨み付けたが、その後じっと顔を伏せた。


「そうか……」

「はい。それじゃ、失礼します」


 ご主人がベンチを立ち去ったあと。しばらくして現れた若い女にも、同じように伝言を伝えに行った。ただし、伝える内容はご主人とは別だ。


「佐藤恵美香さんですね」

「は、はいい!?」


 怯えたようにベンチの端に飛び退った女に、構わず通達する。


「ナイトさんは、もう文を残されません。奥様が浮気を疑っておられるんです。分かりますね?」


 ぎょっとした顔でその場で硬直している女を残して、俺はさっさと引き上げた。もちろん、伝言はナイトとレナからのものじゃない。俺から二人への伝言だ。それを、あの二人が知ることはないだろうけどな。


 ……永遠に。


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