(2)

 例によって、特売のチラシの隅々まで目を通す。今日は午前中に買い出しを済ませているが、もしかしたら俺が見落とした特売品が宝物のように隠れているかもしれない。まるで、競馬新聞を食い入るように見るおっさんのような姿で、ちらしをとっかえひっかえ何度も裏返しながら、赤鉛筆を動かす。


「むぅ、いかん。今日はどこもシブいなあ」


 まあ、そんな日もある。俺は諦めて、チラシの束を輪ゴムでくくって、机の上にぽんと放った。


 お? 電話が鳴った。久しぶりに依頼か? 俺は小躍りしながら受話器を取った。


「はい、中村探偵事務所です」

「あの……所長の中村さんでしょうか?」


 所長と言っても俺しかいないが。


「はい、そうですが」

「わたくし、畑野はたのと申します。ちょっとご相談がありまして……」


 声からすると、おばさんだ。ご主人の浮気調査だろうか。


「調査依頼でしょうか?」

「あ」


 しばらく黙っていた女性が、諦めたように続きを言った。


「ええ。主人のことで」


 やっぱりな。


「ご依頼の内容を詳しく聞かせていただきたいので、ご面倒でしょうが事務所までご足労願えませんか?」

「はい。これから、よろしいですか?」

「ああ、私はずっと事務所におります。場所はお分かりですか?」

「はい、沖竹おきたけさんから伺っていますので」


 電話はそこで切れた。だが、俺は受話器をがちゃんと放り投げて頭を抱えた。


「げえー。まあた尻拭いかよう」


◇ ◇ ◇


 沖竹。ああ、聞きたくもない名前だ。


 沖竹エージェンシーは、俺が以前勤めていた大手の調査会社だ。社長も社員も若く、行動力、解決力を売りに、がんがん業績を伸ばしていた。俺も、それに惹かれて入社したんだが。

 とにかく、そこは儲け主義が徹底していた。高い解決力を打ち出す反面、調査手法が際どい上に社員を容赦なくこき使った。安い給料で犯罪紛いの潜入調査までさせられ、それがバレたら無能社員として首にし、切り捨てていく。しかも、依頼者への調査費用請求がバカ高い。とても付いていけなかった。


 まさに、鶏口となるも牛後となるなかれ。どんなに貧乏のへっぽこでも一国一城の主の方がマシだと悟って、俺は社を辞めて独立した。でも社長とケンカして辞めたわけではないので、一応今でも沖竹へのスジが残っている。それをいいことに、沖竹が難ありの不良案件をしれっと回してくることがあるのだ。今回のはまさにそうなんだろう。

 沖竹が依頼を放り出すケースには、いくつかパターンがある。依頼がヤの字絡みだった場合。依頼人が貧乏で、調査費用を値切りにかかった場合。そして依頼人が妄想系だった場合、だ。そして俺は、今回はその三番目なんじゃないかと踏んでいた。


 電話を受けて一時間後くらいに、本当にここでいいのかしらというような顔をした上品なおばさんが、戸口に立った。俺は、おばさんがノックをする前に戸を開ける。


「どうぞ。お入り下さい」

「あ、はい」


 本当にここに踏み込んでいいものかって感じのへっぴり腰で、おばさんが中に入った。あらふぃふという感じだな。大金持ちの夫人という雰囲気ではないが、こじゃれていて生活臭が強くない。経済的にはそこそこ恵まれているんだろう。とても沖竹が放り出しそうな人物には見えないが。


 俺が出した名刺をしげしげと見ていたおばさんに、依頼の内容を聞き出す。


「それで、どのような調査をお望みでしょうか?」

「はい。実は」


 おばさんが、俯いてぼそぼそとご主人のことを訴えた。


 おばさんとご主人は恋愛結婚。その後一男一女に恵まれ、夫婦関係に大きな破綻もなく、仲良く暮らしてきた。それが、子供の独立後から少しずつずれてきた。先に五十の坂を越えたおばさんに女としての魅力を感じなくなったとでも言うかのようにご主人が冷淡になり、その背後に他の女の影が見えるようになったと言うのだ。


「具体的な証拠があるんですか? 行きつけの飲み屋があるとか、特に理由なく遅くまで残業しているとか」

「いいえ。沖竹さんのところで調査していただいたんですが、そういう素振りはないということで……」

「調査は一回きりですか?」

「いえ、三回お願いしています」


 ああ、そうか! 分かったぞ。なんで、沖竹にとっては絶好の金蔓であるこのおばさんを俺に放り出したか。このおばさん、何度依頼しても夫の浮気の事実を上げられなかった沖竹を、ぼろっくそに言ったんだろう。高い金を取っておきながら何も見つけられないのか、この無能、訴えてやるってね。


 沖竹のが強引なやり口だっていっても、それでも信用商売だ。調査を完遂し、事件を解決させて初めて、まともに報酬と評価を受け取れるわけだから、調査業者としてのプライドは極めて高いと言っていいだろう。自分のところは一流だからということで、高額な料金設定にしているわけだし。浮気の事実なんか、ないものはない! そう突っぱねたんだろうなあ。

 その上で、同業者に速報を回したと見た。たちの悪いクライアントがいる。クレーマーだ。依頼を受けると絡まれてひどい目に遭うから、絶対にスルーするように、と。おばさんは、調査業者のブラックリストに載っちまったんだ。当然のことながら、名だたるところからは一様に断られたんだろう。沖竹さんに分からないものは、私たちにも分かりません、と。依頼すら受けてもらえず途方に暮れたおばさんは、以前沖竹のところにいた俺を探り当てた、と。そういうことか……。


 まあ当たり前のことだが、俺もクレーマーはごめんだ。妄想が爆発していて、それが事実を踏んづけてしまう状態なら、何をどうしたところで双方が嫌な思いをするだけだ。さっさと断るに限る。

 だが。この前の猫事件とは逆に、俺にはこのおばさんの感情がきっちり見えた。おばさんの疑念が、単なる意味のない思い込みや妄想ではなく、その勘にちゃんと意味があるような気がしたんだ。ご主人の浮気の有無だけではなく、それがどんな形なのかを、もう少ししっかり探るべきなんじゃないだろうかと、そう思ったんだ。


 俺は、おばさんに隠し事をしたくなかった。


「沖竹さんのところで調べられたということは、何も浮気の事実が出なかったということですね?」

「はい。ですが……」

「納得が行かないんですね?」


 ハンカチを出して目尻の涙を押さえたおばさんが、こくっと頷いた。


「あの人は、わたしが何を話し掛けてもずっと上の空なんです。今までそんなことはなかったのに」

「仕事とかで、何か悩み事を抱えておられるのでは?」

「そういうのは、これまで隠し立てしないで何でもわたしに話していたので」


 夫婦間の風通しはよかったということか。


「あなたの方では、何かご主人を怒らせるようなきっかけとかは思い付きませんか?」

「いいえ、特に……」

「失礼ですが、奥さんは、お仕事は?」

「していません。ただ、自宅でフラワーアレンジを教えています」

「いつからですか?」

「三年前からです」

「その時、ご主人はなんと?」

「喜んでくれました。がんばれ、と」


 フラワーアレンジだと、生徒さんはみんな女性。男性の影はないな。ご主人が、それを疑る余地はない、か。


「ご主人の態度の変化にはいつ頃気付かれたんですか?」

「半年ほど前です」

「その前後で生活の変化は? 帰宅時間が変わったとか? 嗜好が変化したとか?」

「いえ、特に……ありません」


 俺は考え込んでしまった。沖竹が調べて、ぼろが出ない。おばさんの見立てでも、実生活に変化はない。巧妙に隠しているというよりも、本当にそういう事実がないとしか思えない。もし俺がご主人の素行調査を行っても、きっと出て来る結果は同じだろう。沖竹は、おとりを使うくらいにえげつない調査をする。それでも出て来ないんだからな。


 だが。俺は、どっか引っかかっていた。その引っかかりのもとになっていたのは、今朝見たピンノだ。ご主人の心の中に、ひっそりと潜んでいるピンノがいるんじゃないだろうか。そして、このおばさんはその気配に気付いている。だけど、それは一切外からは見えない。分からない。そのことに、強い不安と苛立ちを覚えているんじゃないかと。


「んんー」


 しばらく考えて、俺は依頼を引き受けることにした。


「ええとですね。調査をお引き受けしますが、一つ条件があります」

「条件、ですか?」


 おばさんが、顔を上げた。


「はい。私がご主人に接触することをご了承下さい。それが引受ける条件です」


 秘密裏に調査を行うのが、素行調査の鉄則だ。おばさんも、当然そうだと思っているだろう。だが、沖竹が調べて出ないものは、俺には絶対に出せない。そうしたら、本人に接触するしかない。もちろんそれは最後の手段だが。


 黙りこくったおばさんに、補足説明をする。


「もちろん、あなたの名前は一切出しませんし、私がご主人を調べてるなんてことも口には出しませんよ。私はそこまでバカじゃない。ですが、大手の調査会社のように、何人もの調査員を使って綿密な調査をするってやり方は、ここじゃ出来ません。私一人しかいないんですから」

「はい」

「ですから、私なりの調査手法でご主人を調査させてもらいます。その中の一つのオプションとして、本人への接触がありうる。それがお引き受けする条件になります」


 超弱小のうちで断られれば、他は引き受けてくれないか、金だけボられる劣悪なところだけだ。それはおばさんにも分かっているだろう。小さな吐息とともに、首が小さく縦に振られた。


「わかりました。お願いいたします」


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