(2)
身なりのいい女だ。つまり、自分の見てくれをしっかり意識している。もしストッキングが枯れ草まみれになれば、それを気にするはずだ。普通なら、一度自宅に戻って着替えてから俺のところに来るだろう。だがあの格好はそうではなかった。どういうことだ?
俺には、一つしか考えつかなかった。つまり、あの女は失踪した猫を『生きている状態で』公園に連れて行ったと言うこと。これまでのように、部屋で虐待死させた猫の死骸を捨てに行ったわけじゃないんだ。
今回の行動は、単なる捨て猫だ。しかも子猫ではなく成猫ならば、すぐにその命に関わるということもないだろう。公園には猫好きの連中がたくさん出入りしていて、野良にエサをやったりしてるからな。猫の虐待を繰り返していた女の行動だとすれば、それはずいぶん生温い。だが女は猫を公園の枯れ草の中に放り出し、その足ですぐに俺のところに来たのだろう。ここに来たのは猫を捨てた直後だったと、そう考えるしかない。
じゃあ、なぜ俺に捜索を依頼するような七面倒なことをする? 猫を捨てるだけなら、置いてくりゃあそれでおしまいだ。あとは、徹底して知らぬ存ぜぬを通せば済むはず。そして、もし愛猫家を装うなら、少なくとも自力で猫を探すジェスチャーを俺や住民に見せる必要がある。だが、そのどちらのアクションもない。奇妙だ。
もう一つ、おかしいことがある。あの女が住んでいる部屋は、猫部屋として近所中に知れ渡っている。猫の鳴き声と臭いで、他の部屋の住人から再々苦情を申し立てられていた。多頭飼いしていたのは、猫の虐待を覚られにくくするためだだろう。しかし、俺が尾行でその女の部屋の様子を確かめた時には、部屋の中には全く猫の気配がなかった。
どんなにうんうんうなって考えても、女の行動に理屈も一貫性もない。そいつの意図が全く読めないんだよなあ。精神に異常を来して思考や行動が破綻しているなら、それは会話の間にそれとなく鎌首をもたげるだろう。だが、あの女とのやり取りはごくまともだった。何かを顕示しようとか、逆に隠そうとか、そういう姿勢が全くなくて、ものすごく坦々としていた。
「ん? 待てよ」
違うな。一貫性がないんじゃない、女の姿勢がどこかで変わったんだ。そう考えるしかない。
飼っている猫に対しての虐待行為を、周囲にひたすら隠しながらも止めることはなかった女。猫に偏執狂的なこだわりがあったと言っていいだろう。どんなに苦情を申し立てられても、決して猫を飼うことを止めなかったことでもそれは分かる。だがそのこだわりは、今や完全に消え失せていると言ってもいい。部屋には猫の気配がなく、猫探しの依頼もどうしても見つけて連れ戻してほしいというほど熱心なわけではない。
何がきっかけで、そう変化したんだ? これまでの自分の残虐な行為を反省した? いや、それはありえない。反省したのなら、猫を捨てるという行為はありえない。疑いを逸らすために、猫への加害の仕方を変えた? いや、この手の嗜虐趣味はエスカレートすることはあっても、その逆はないだろう。
なぜあの女は飼っていた猫を全て『追い出した』のか。なぜその中の特定の一匹だけ行方を探そうとするのか。はねられて死んだ猫には、なぜ首輪がなかったのか。いくら考えても分からない。分かっているのは、女の猫に対する姿勢が変わったということだけだ。だけど極端な性格の持ち主が、そう簡単に心を入れ替えたり、行動を変えたり出来るものか?
うーん……。おかしいと言えばもう一つおかしいのが、逃げた猫の行動だ。外に出たことがない臆病な家猫が、わざわざ捨てられた公園から遠く離れた市街地に移動するか? 普通は怯えてそこから動けなくなるか、せいぜいそれまでいた部屋に戻るか、だろう。犬とかやんちゃな子供に追われて、慌てて逃げ回った? なんか、どうにも違和感が拭えない。
女の態度。猫の行動。本来なら付くはずのない枯れ草。そして、死んだ猫にはなかった首輪。キーワードはいっぱいあるのに、それが有機的に結びついていかない。俺は頭を抱えてしまった。
その猫に関して、女がまだ俺に隠してる情報がある? いや、隠すくらいなら最初から依頼になんて来ないだろう。猫を探し当てるためには、正確な情報が不可欠なのだから。あの女の情報は確かだと思う。だが、なぜかそれには不完全感が伴ってる。
ああ、そうか。俺が最初から感じていて、まだ解消していない疑問の一つが、それだ。正であれ、負であれ、猫に対する感情が見えれば、俺はそこから動機を手繰れる。だがあの女は自分の心情を何一つ言葉にせず、態度にも現していない。それが、ものすごく不自然に感じるんだ。
「もし探している猫が生きている状態で見つかったら、あの女は猫をどうするつもりなんだろう?」
普通は全く考えなくて済むことが、でっかい疑問符になる。それがそもそもおかしい。そして、新しい疑問符ばかりがどんどん積み重なる。
はああ。俺は探偵にはなったが、名探偵にはなれねえな。大きな溜息を一つついて、女の携帯に電話を入れた。
「あ、三島さんでしょうか? 中村探偵事務所です。ご依頼のあった猫の消息が掴めましたので、ご足労願えますでしょうか?」
女は最初に来た時と同じように、静かにそれを了承した。俺は電話を切って、机を一つがんと拳で叩いた。
「推理の材料がまだ足りないな。何か決定的な決め手が欲しい」
◇ ◇ ◇
女は、俺が電話したあと十五分もしないうちに姿を現した。三日前と全く同じ服装で、ストッキングについた枯れ草もそのままだった。髪はぼさぼさ。化粧はあちこち崩れていて、それを直そうとした跡もなかった。そして風呂に入っていないのか、体臭がすごくきつくなっていた。もっと有り体に言えば、臭くなっていた。さらに。空腹なのか、ふらふらしていた。
「あの……見つかったんでしょうか?」
「ええ。死骸でね。車にはねられていました」
俺は、その時の女の反応を注視した。
「ああ、そうですか」
それを聞いても、女の表情は変わらなかった。何も特別な感情のない、乾いた反応だった。強いてその反応を表現するとしたら、かすかに安堵感を浮かべたというくらいのものだろう。俺の説明を聞く気はないようで、無表情に財布を出した女は、残りの捜索費を現金で支払うとすぐに帰ろうとした。
「ありがとうございました」
「ああ、三島さん」
「はい?」
「一つお聞きしたいんですが、私の事務所を何で探されたんですか? うちは小さい事務所なので、滅多に依頼が来ないんです。参考までに教えていただければ」
「はい。わたしの部屋の窓からここの看板が見えたんです。わたしは遠くまで出歩くのが苦手なので」
「そうでしたか。ありがとうございます」
女はがたぴし言う引き戸を開けようとしたが、力が入らないようでうまく開かない。引き戸のノッチに手をかけていた女の細い手首に、赤い輪が見えた。そして、それがかすかにちり……と鳴った。
!!!
あれは失踪した猫の首輪だろう。猫じゃなく、あの女が着けていたのか! そうか、ずっと服の袖が下りていたから気付かなかったんだ。だが、そんなのをわざわざずっと手首にはめている意味は、どこにもないはず……。
手にはめている? いや……違う……違う……違うっ! そうかっ! 手にはめているじゃない! 外せない、だ! その途端、それまで俺の中にばらばらに散らばっていた謎が、ぴしんと音を立てて全部繋がった。
……ありえない話だよ。でも、それが起きちまったんだろう。
「ああ、しぶい戸でね。済みません」
俺が力任せに戸を引き開けると、女はよろよろと帰っていった。俺の方を、一度も振り返ることなく。逃げるように。
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