へっぽこ探偵中村操の手帳
水円 岳
第一部
第一話 猫探し
(1)
探偵と言ったって、決してかっこいい仕事じゃない。
なんと言っても、俺には実績が何もないからね。難事件を推理で解決したこともなければ、大犯罪の計画を暴いたり国家を揺るがす陰謀を嗅ぎ付けたりしたこともない。せいぜい浮気に励むダンナや奥様の素行調査をするのが関の山で、それとて弱小もいいところのうちの事務所にはほとんど依頼が来ない。
自分では探偵が本業だと思っているけれど、実際には女房の稼ぎにぶらさがっているヒモとなんら変わりはない。情けないっちゃ情けないが、一応家事は万端こなしているから、女房からがみがみ言われることもない。一日中だらだらしてるわけじゃないんだし、いいんじゃないの、と。そういう寛大な配偶者を首尾よくゲット出来たと言うのが、俺にとっては人生最大の幸運なのかもしれない。
ま、そんなわけで。俺は、今日も自称事務所のプレハブの貧相な部屋で、今日の晩飯は何にするかなあとスーパーの特売ちらしをチェックしていた。
とんとん。建て付けの悪い引き戸を叩く音がして、おやあと思って顔を上げると、若い女が一人、戸の前に立っていた。当たり前っちゃ当たり前なんだが、素行調査の依頼主はおおっぴらに事務所に来ることなんかないわけ。まず電話で探りを入れてきて、こっちの腕や信用度を探った上で料金の駆け引きをして、やっと契約ということになる。向こうとしちゃあ、出来れば最後まで匿名Xで済ませたいくらいのものだ。飛び込みで客が来るなんてことは、滅多にって言うか今まで一度もない。でも、名乗らずに戸口に居るということは、きっと宅配のあんちゃんじゃなくて依頼主なんだろう。
「はい」
どなたですか、と聞くのはヤボだ。俺は、その女にはおそらく開けられないであろう、どシブの引き戸にぎしぎし悲鳴を上げさせて、中に招き入れた。
「どうぞお入り下さい」
「失礼します」
若いが、身なりはいいし、立ち居振る舞いにもスれた感じがない。とてもうちのようなおんぼろ探偵社に依頼をしそうな人種には見えない。
「ご用件は?」
「あの……こちらで、探し物を引き受けてくれますでしょうか?」
「探し物ですか?」
「はい。猫……なんですが」
おっと、そう来たか。
「私も商売でやっていますので、もちろんお引き受けしますよ。ただし相応の料金はいただきます。探す対象が人物でない場合は、交通費の実費と日当、それに基本の依頼料を頂戴することになっていますが、よろしいですか?」
「いくらぐらいになるんでしょう?」
「そうですね。尾行を要しない場合、基本料金は二万円。日当が一日五千円。プラス交通費ということになりますね。だいたい三日を限度として一度ご報告差し上げますので、初期費用として四万くらいを見ていただければ」
その金額を聞いてほっとしたんだろう。緊張を解いて笑顔を見せた女が、俺の勧めた椅子に座った。
「すいません。お客様のお名前を伺わせてください」
「三島、です。三島善枝」
……。やっぱり、そうか。
「はい。ありがとうございます。あとは携帯のお電話番号だけ教えていただければ、その猫の発見時にご報告いたします。三日後までに見つからなかった場合は、捜索を継続するかどうかも含めて再度ご相談させてください」
「はい。それでいいです」
「お探しの猫の詳しい特徴を教えてください」
「はい」
その女は、落ち着いて猫の特徴を語り始めた。雑種の白黒ぶち猫。いわゆる足袋足で、四肢の先は白毛。雌でやや太め。鈴の付いた赤い首輪をしている。尻尾は曲がっていて輪のようになっている。臆病な家猫で、動作はおっとり。これまで自発的に家の外に出たことはない。
「年とった猫なんですか?」
「いいえ、わたしが拾った子猫なので、まだ二年くらいしか経ってません」
「ふむ」
俺は、さっきからいくつかの違和感が脳裏にこびり付いて、それが気になって仕方なかった。
まず。目の前の女が、妙に落ち着き払っている。大事に飼っていた猫ならば、その失踪にもっと大慌てしているか、がっくり落胆しているはずなのに、そうした気配が一切ない。なんて言うのか……。いないのを探し出してくれというよりも、いないという『事実』を確定させてくれと、そう言わんばかりだ。
身なりにも違和感があった。金銭的にはかなり恵まれているのだろう。上から下まで服装はかちっと上物で固められていた。なのに、ニットのスカートから覗いているすらりとした足を覆う黒いストッキングに、枯れ草の切れ端がいっぱい付いていたのだ。猫を探してあちこち歩き回った末に、ここに辿り着いたというのならそれは分かる。だがさっきも気になったように、この女にはいなくなった猫のことを心配している素振りがない。それならなぜ、枯れ草が付くようなところにわざわざ行く必要があるのか? むぅ。分からない。まあ、いい。とにかく捜索を始めよう。
「また追加でお聞きすることがあるかもしれません。お手数ですが、その際はよろしくお願いいたします」
「分かりました」
女は前金を払うと、ゆっくり事務所を出て行った。
◇ ◇ ◇
俺は、すぐに猫を探すつもりはなかった。臆病な家猫が外に逃げても、そんなに遠くに行けないはずだ。それが見当たらないと言うことは、もう何かあったと考えた方がいい。あてもなく歩き回って猫を探すよりも、まず保健所や清掃局に問い合わせる方が先だろう。
そして、俺が読んだ通りだった。猫の消息は、市の清掃局への問い合わせですぐに分かった。今日午前十時頃、道路に飛び出して車にはねられた猫が居て、通報を受けた職員が死骸の後片付けをしていた。一応飼い猫である可能性もあるということで、まだ死骸の処分には至っておらず、正確に特徴の照合が出来た。その猫の特徴は、さっきの女が言ったものとぴったり一致していた。ただ一点、首輪をしていなかったということを除いては。猫の捜索そのものは、依頼直後にすでに完了していたのだ。
じゃあ、その後俺は何をしていたのか。俺は依頼者が事務所を出てすぐ、彼女を尾行した。なぜか。この辺りでここ一年ほど、虐待の跡のある猫の死骸が遺棄されるという事件が多発しており、犯人が男ではなく女なのではないかという噂が流れていたからだ。その被疑者が先ほどの三島という女で、この界隈ではよく知られた有名人だったのだ。
公園で子猫を拾って自宅に連れて帰る姿は、周辺住人に何度も目撃されていた。本人もそれは認めている。ただ、その女が猫を虐待死させているという確たる証拠がなかったのだ。いかに商売でやっているとはいえ、探偵が犯罪の片棒を担ぐわけにはいかない。三島という女が何を企んでいるのか、それを見極めなくてはならない。俺はそう考えた。
俺は、二日間かけて三島という女の行動を見張った。だが俺の予想と異なり、女の部屋に猫がいる気配は全くなく、女はずっと部屋に閉じこもっていて、野良猫のいる公園に出かける様子もなかった。
「おかしいな。俺の勘が狂ったかな」
虐待しようとした猫に逃げられて、それを執拗に探し回ってるんじゃないのか。俺はそう考えたんだが。しょせん、噂は噂か。俺の勘もまるっきり当てにならないな。三流の探偵じゃこんなものか。俺は、自分のへぼさ加減に心底がっかりした。尾行を切り上げ、重たい足を引きずりながら事務所に戻って、仕方なくあの女への報告書を書き始めた。
「ん?」
待てよ。キーボードを叩く手を止めて考え込む。
やっぱりおかしいぞ。もし、あの女が普通の猫好きの女だとしたら。猫の変死に全く関わっていないのだとしたら。自分の飼っていた猫の動静をもっと真剣に心配するだろう。だが、女の態度は妙に冷静だった。それに尾行で分かったように、俺への依頼後も自力で猫を探そうとする素振りが全くない。つまり、俺が最初に覚えた違和感が何も解消していない。
もし、あの女が猫を虐待死させている犯人だとすれば、そもそも自分が疑われるような行動は絶対に起こさないはずなんだ。これまで狡猾にその行状を隠しているのだから、とてもやり口が陰湿だ。自己顕示のための犯行とか、愉快犯とかではない。そういうやつが、自力で探さずに、腹を探られそうな俺のところにのこのこ来るか? そりゃあ、自殺行為に近い。周囲の疑いの目を逸らすために、愛猫家を装って俺のところに来たのなら、猫好きをことさら強調するはずだ。あんなに素っ気ない態度を取ること自体がおかしい。
それに、猫の死因は轢死だ。これまで頻発していたような、あからさまな虐待死ではない。清掃局の職員の話だと、まだ轢かれた直後でしばらくは息があったのかもということだった。猫の飛び出しによる、よくある輪禍に過ぎない。虐待から逃れるために女の家を脱出した猫が、女に追われて車道に飛び出してはねられたと考えることも出来るが、そうすると女の脚に付いていた枯れ草の説明が出来ない。なぜなら、猫が跳ねられた場所は女がよく行く公園とは反対方向で、そこは路地の入り組んだ住宅街だからだ。猫と追っかけっこをすりゃあその姿は目立つし、草が着衣に付くような場所もない。
つまりあの女は、愛猫家でも猫虐待の当事者でもないということになる。それなら、なぜわざわざ俺に猫の捜索を依頼する? 動機がないじゃないか。もっとしっかり考えよう。俺はコーヒーを淹れて、回転椅子の上にどすんとあぐらをかいた。
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