(3)
ごくごく単純な人探しだ。そして、逆城さんが息子の居場所を知ったところで、息子にアクセスすることは叶わないだろう。俺の知らせた情報が悪用される心配は全くないと言っていい。だが……俺は猛烈に気が重かった。
探すまでもない。逆城忠志という男がどんなやつかはよく知っているし、彼が今どこにいるのかも正確にわかっている。効率ということで言えば、これほど効率のいい調査は今までない。しかし俺は、その調査結果を依頼者にどう報告すればいいのかわからない。とんでもなく重い荷を背負わされちまった。
事実は手帳にいくらでも書き込めるが、迷いをいくら書き込んでも意思決定の足しにはならない。開いていた手帳を閉じて机の上に放り出し、頭を抱えてしまう。
「ううー、どうしよう」
この前雄介案件が片付いた際に、これからは黒塗り案件を避けると宣言したものの、現時点で本案件を共有すれば所員が難題を消化できないだろう。この案件は、俺がなんらかの落ちをつけるまで潜らせておくしかない。
ふと、小林さんや夏ちゃんの教育用に作った調査員心得テキストの一文を思い浮かべた。それを書いた俺自身に、一番覚悟が足りなかったのかもしれないなと。
「調査の遂行はみなさんの身体、精神、生命に深刻な影響を及ぼすリスクがあります……か。全くだ」
◇ ◇ ◇
逆城さんの様子から見て、すぐに報告する必要があるだろう。疼痛の問題だけじゃない。あの様子じゃ、ほとんど水も食事も摂れていないように思えたんだ。なんとか間に合えばいいんだが……。
万一の事態に備えて医者を連れて行くことにする。場合によっては強制的に病院に担ぎ込まなければならないが、ほんのわずかな延命が本当に望ましいことなのかどうかは極めて難しい判断になると思う。その是非を、医療にど素人の俺が判断するわけにはいかないんだ。プロ医師の見立てと指示に頼るしかない。
正平さんに独居老人の様子を見てくれるお医者さんがいないかと相談を持ちかけたら、松沢さんがいいんじゃないかと言ってすぐに連絡を取ってくれた。松沢さんというのは老人会に繁く出入りしている一人暮らしの元内科医で、運営していた自分の診療所を畳んだあと健康相談のボランティアをなさっているらしい。正平さんよりかなり年上だが、とても気さくで明るい人だという。お宅に伺って事情を話し、一緒に来ていただけないかと懇願したら思いがけず快諾してくれた。
「私はもう医者はやってないから、真似事しかできないよ。それでいいかい?」
「もちろんです」
いいも悪いもない。時間がないんだ。ひどく気が急くものの、他の所員に非常事態を覚られるわけにはいかなかった。俺は、報告を翌朝行うことにした。
◇ ◇ ◇
そしてあくる日の朝。空は俺の心境同様、ずっしり重い鉛雲で隙間なく覆い尽くされていた。全所員が調査に出かけたすぐ後で事務所を施錠し、自宅に戻って車を出した。老人会の集会所で待機していた松沢さんをピックアップし、逆城さんの部屋を訪ねる。
「やっぱりか」
握ったドアノブはあっけなく回った。鍵がかかっていない。昨日万一に備えて、鍵をかけずに帰ったんだ。あれから鍵がかけられていないということは、逆城さんが床から立ち上がる余力すら残していなかったことを示している。
「逆城さん、中村です」
まだ生きておられることを祈りつつ、足早に部屋に上がる。横たえられていた首がゆっくり反転し顔がこちらに向いた。間に合ったか。
俺の方を向いたものの、濁った目の焦点はどこにも合っていない。乾いた唇が縦横にひび割れ土気色になっている。体調が極めて悪化していることを示していた。松沢さんも顔を一目見てすぐに首を振った。もう……
「わかり……ましたか」
「はい」
あれからずっと考え続けた。調査内容をどう伝えるか、その方法を。俺の決断が本当にそれでいいのかわからない。だが……。逆城さんの耳元に口を近づけ、少し大きめの声を上げる。
「息子さんは、事故で亡くなられていました」
激しい落胆も、俺の報告を訝る様子もなく。逆城さんは、わずかに口元を緩めた。
「そうですか……」
一瞬の間があって。逆城さんが残っていた最後の声を絞り出した。
「たん……てい……さん」
「はい」
「手を……握って……もらえませんか」
本当なら自分の最期を息子に看取ってもらいたかったんだろう。俺は。俺は……。皺だらけのしなびた右手を取り、あの世から連れ戻せるならば連れ戻したいと念じながら、ぎゅっと手を握った。
しかし、俺の手が握り返されることはなく。力なく緩んだ指は動かなくなった。報告を聞いて張り詰めていた気が抜けた途端に、ぎりぎり保っていた意識がぷつりと途絶えたのかもしれない。目の前で静かに胸が二度大きく上下し。全ての後悔と、全ての執着を吐き尽くすようにして、細い息が漏れ。そのまま。動きが止まった。
俺は……涙が止まらなかった。毛羽だった畳が濡れて、薄い染みが広がる。
「ど……うして」
松沢さんが、俺が握っていた反対側の手首で脈を確かめ、それから聴診器を出して胸に当てた。深い深い嘆息と共に、死去が宣告された。
「心音がない。亡くなられたよ」
腕時計を見て時間を確かめた松沢さんは、その時間を手帳に書き留めて、嗚咽が止まらない俺に声を掛けた。
「警察と医師を呼ぼう」
◇ ◇ ◇
身寄りのない独居老人の病死。俺は逆城さんにとって赤の他人であり、俺がその死に負うところは何もない。だが、俺の心は鉛のように重かった。
逆城さんの葬儀や荼毘を取り仕切る人は誰もいない。縁者がいない者は死者になった途端に物体として扱われてしまう。それがどうにも辛かった俺は、松沢さんとともに逆城さんを送ることにした。
「私で……よかったんですかねえ」
線香の残り香が漂う室内で、穏やかな逆城さんの死に顔を見ながらぼやく。
「よかったと思うよ」
かすかに苦笑した松沢さんは、あぐらを崩して組み直しながら薄汚れた天井をじっと見上げた。そこに逆城さんの遺志が書き残されているかのように。その内容を読み取ろうとするかのように。
しばらくその姿勢をキープしたあと、俺にではなく彼岸に旅立った逆城さんに話しかけるような口調でぼそりと言った。
「医者が臨終間際の患者の手を取ったところで、それは医者としての仕事をしているからだと思われるだけさ。だが、あなたは違うだろ」
「……」
「独りってのは、どうしようもなく寂しいんだよ」
松沢さんが、ぽんぽんと膝を叩きながら繰り言をこぼし続ける。
「彼だけじゃない。私だってそうなんだよ。女房には先立たれた。子供はいない。親族や友人もどんどんあの世に旅立っていく。このトシになれば、明日どうなるかなんてわからないよ。誰かに手を握ってもらいながら冥土に行けるなんてのは、とんでもなく幸運で贅沢なことだ」
「そう……ですか」
「そりゃそうさ。昔みたいに、誰もが家族に看取ってもらえる時代じゃないんだ。正ちゃんだって、縁者のない一人ものだろ。いや、正ちゃんだけじゃないさ。お達者クラブには、私らみたいな一人ものがいっぱいいるからね」
「……」
「だからこそあの一本気な正ちゃんですら、葬式が続いた時にひどく落ち込んだんだよ」
「ああ、そうか」
ふうっと大きな息をついて、やりきれないという表情の松沢さんがゆるゆる首を振った。それから。慈愛といくらかの嫉妬が混じった眼差しで、亡骸をじっと見下ろした。
「一人じゃない。それだけでいいんだよ。彼にとってこの最期は……きっと本望だろうさ」
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