(2)
「ん?」
俺が手帳の白紙を凝視しながら考え込んでいた時。しんと静まり返っていた事務所の外で、かすかな物音がした。その音に気付いてはっと我に返った俺は、見たことのない小柄な老人が戸口に立っているのを認めた。ついた杖に寄りかかるようにして前のめりの姿勢をしている。
ベージュ色のコートの端からグレーの背広の袖や裾が覗いているが、窓が曇っていてディテールがよく見えない。おそらく依頼客だろう。正平さんが俺を紹介したのかなと思いながら、扉を引き開けた。
「お入りください」
だが。曇ったガラス越しではよく見えなかった老人の顔貌を確かめて、俺は心底後悔した。そこには……死相が漂っていたからだ。
薄くなったのではなく、ざんばらに抜け残っている色の悪い灰色の髪。ひどく落ち窪んだ眼窩、黄疸で汚黄色になっている肌。筋肉が細り、骨だけがぼこりと飛び出している手首と喉。おぼつかない足取り。止まらない手の震え。
即座に救急車を呼ぼうと思ったが、老人は顔を上げるなり依頼を口にした。
「中村さんですね。船井さんからこちらを紹介されまして。お願いがあるのです」
戸口に立ったままの老人の口から、単刀直入に依頼が置かれる。その口調はとてもしっかりしていた。
「寒いでしょう。お話は中で伺いますので、どうぞそのまま土足で中にお入りください」
声をかけてから、しまったと思った。老人は動かないのではなく、動けなかったんじゃないのか。慌てて外に出て、肩を抱え上げるようにして中に招き入れた。
「恐れ入ります。なにせ、トシのせいで体が自由になりません」
いつもであれば世間話などをして、依頼者の意図を探った上で依頼を聞き出す。だが、俺にはその余裕がなかった。もちろん、その老人にも。
「どのようなご依頼でしょうか」
「息子を……探して欲しいのです」
「息子さん、ですか」
「はい」
「ご依頼を受ける前に身元確認をさせていただきたいので、保険証もしくは運転免許証を見せていただけますか?」
老人が、震える手でコートのポケットから保険証を引っ張り出した。
「
「ええ」
逆城……か。そうそうある苗字じゃない。嫌な予感がした。
「コピーを取らせていただけますか」
「どうぞ」
コピーを取る前に、素早く年齢と住所を確認する。まだ六十を越えたばかりだったが、八十過ぎに見えた。病魔に侵されて、身体の劣化が著しく進行しているのだろう。
通常であれば、身元確認のあと依頼にかかるあれやこれやを面談で聞き出すんだが、逆城さんの依頼内容はすでに明かされている。
「息子さんの消息探し、ですね」
「はい。息子は
やっぱりか。俺が黙り込んだのを見て、おずおずと逆城さんが言葉を足した。
「調査費用は前金でお支払いしますが、一つお願いがございます」
「なんでしょう?」
「調査を三日以内で……それもできるだけ早く完了していただきたいのです」
家出人もしくは消息不明者の調査にはかなり時間がかかる。通常ならば依頼人にその旨を告げて断らざるを得ない。だが、俺は即座に請けた。
「わかりました。一両日中にはご報告を差し上げられると思います」
「そうですか」
嬉しいというよりほっとしたような表情で、逆城さんが深々と頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
俺は契約書を作ろうとしたんだが、逆城さんはその時間を待っていられないようだった。まとまった枚数の諭吉さんが入った茶封筒を机の上に置き、ここから必要な分を取っていただければと言い残してすぐ席を立った。立った……が。歩けない。俺は逆城さんをもう一度着席させてタクシーを呼んだ。
「お宅まで送りましょう。しんどそうだ」
「恐れ入ります」
逆城さんは俺の提案を拒むことはなく、俺に背負われて事務所を出た。
着いたタクシーに一緒に乗り込み、保険証に書かれていた住所をタクシーの運ちゃんに示して車を出してもらう。逆城さんは、ぎゅっと口を結んだまま一言も発しなかった。
タクシーは、見るからにおんぼろのアパートの前で止まった。俺は逆城さんを抱えて車から降り、逆城さんから鍵を預かって解錠した。ドアを開いた俺の目の前に、想像を絶する光景が飛び込んできた。
ぼろアパートの汚れた室内がきれいに見えるほど、何もない。段ボール箱が三つ、四つ。敷かれたままのせんべい布団。あとは……何もない。そして、布団の周りには湿布薬のようなものが散らばっていた。
「……」
癌疼痛を抑える強力な鎮痛剤、だろう。この状態でどうやって事務所までたどり着けたのか、それが不思議に思えるくらいの衰弱ぶりだ。俺は、すえた臭いの漂う布団の上に逆城さんをそっと横たえた。
「お世話を……かけました」
「いいえ。できるだけ早くご報告いたしますね」
「よろしくお願いいたします」
それきり。目を閉ざした逆城さんの口が開くことはなかった。命を賭した外出で、残っていた全精力を使い果たしたのだろう。すぐにかすかな寝息が聞こえてきた。
◇ ◇ ◇
逆城さんが受診していた病院を探し当て、病状と逆城さんの身上を聞き出した。逆城さんは、金がないという理由で入院していた病院から自室に戻っていた。実際には、とても動けるような病状ではないらしい。
とても温和な人で、病院ではトラブルを起こしたことがなかったそうだ。ただ、身上は気の毒だった。訳あって離婚し、自宅を奥さんに明け渡したあとは、簡宿やぼろアパートを転々としていたらしい。担当だったという看護師さんが、最後まで彼の容体を案じていたのが印象的だった。
病院での聞き取りを終えて事務所に戻ってすぐに、船井さんのところに電話を入れた。うちと同じ小さな探偵事務所なんだが、うちとは運営ポリシーが異なり素行調査専業。家出人や消息不明者の探索を一切請けていない。被調査者の所在が明らかな素行調査と違い、人探しはストーカーやDV加害者に悪用されるリスクがあるからだ。
船井さんの運営方針の是非についてとやかくいうつもりはない。俺だって、特殊事情さえなければ船井さんと同じように依頼を断ったはずだからな。ただ俺は、船井さんがなぜあの老人に俺を紹介したのか、理由を確かめたかったんだ。
「ああ、船井さんですか? 中村ですー。ご無沙汰しています」
「じいさんが一人、そちらに向かったはずです」
俺が聞く前に、船井さんが逆に切り出した。
「なぜ私のところに?」
「あの様子だと、行けてあと一件。でも、どこでも断られますよ」
「私なら請けると?」
「断られたんですか?」
苦笑するしかない。おそらく沖竹所長の筋だろうな。同業者の誰もが断る依頼でもあいつなら最後まで粘る、所長はきっとそう言ったに違いない。俺はよそから難題が回されてくることを承知の上で独立したし、実際どんな難題であっても門前払いしたことは一度もない。だが……これはないよ。思わずこぼした。
「えげつないなあ」
「済みません。幾重にも謝罪いたします。でも」
ふっ。小さな吐息の音とともに、切ない理由が耳に押し込まれた。
「うちは人探しはやってないから他に行け。それだけなら、世の無情を恨みながら彼岸に旅立たれることになる。私は、そこまでビジネスライクになれなかったんです」
なるほど。決してたらい回しではなかったんだな。時間のかかる人探しを限られた日数で完了してほしい。その条件は俺らにとっては非常識だが、依頼人に残されている時間を考えれば当然なんだ。そういう事情を勘案した上で紹介したということなんだろう。
「事情はわかりました」
「請けたんですか?」
「請けました。明日報告します」
「えっ!?」
船井さんが絶句している。
「そんなに早くわかるものなんですか?」
「偶然ですけどね。私は被調査者をよく知っているので。ただ」
「はい」
「どう報告するかが大問題なんです」
「なるほど」
同業者だ。俺の言葉の裏は読んだんだろう。船井さんは、神妙によろしくお願いいたしますと言い足して、それ以上余計なことは何も詮索せずに電話を切った。
「ふうっ」
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