最終話 真実とへっぽこ

(1)

 師走に入って、事務所は一気に忙しくなった。年末にはやたらに下半身ばかりハッスルさせる連中がゴキブリ並みに大量発生するので、案件には事欠かないもののせわしないことこの上ない。

 鷹揚にどっしり構えているセンセイまでもがばたばた走り回るんだから、ましてや貧乏暇なしの俺たちは尻を温めちゃいけないってことか? なんだかなあ。


 案件のない時にはどうしようもなく暇を持て余すのに、今は休憩すらろくに取れない。もちろん特売チラシのチェックをしている余裕なんざ、これっぽっちもない。俺のささやかな趣味を邪魔しくさって!

 所長の俺がご機嫌斜めになれば、当然のこと事務所の雰囲気も殺伐としてくる。俺たちの場合ありがたいのは、そのささくれた気持ちを所員同士ぶつけ合わなくても済むということだ。調査されるような連中は訳ありばかりだからな。そいつらが容赦なく槍玉に上がる。


「くそったれがっ! 下半身しかないやつは、年末だけでいいから無人島に隔離しとけっ!」


 キーボードを乱暴に叩きながらがあがあ吠えた俺を見て、夏ちゃんがぼそぼそぼやく。


「はあああっ。他にすることないんですかねえ」

「ないんだろ。これだけ四六時中あはんあはんやってりゃ、少子化問題なんか起こりようないはずなんだが」

「日本のスキンは世界一優秀ですから」


 バカ話をしていた俺と夏ちゃんの後頭部を、小林さんが丸めた調査資料で容赦なく張り倒した。ばしっ! ばしっ!


「っちゃあ」

「くだらないこと言ってないでっ! きりきり仕事してくださいっ!」


 してるがな。息抜きのバカ話くらいさせてくれよう。ぶつくさ言いながら、調査報告書をさくさくまとめていく。年末年始のめでたい時期をわざわざ修羅場にする連中がいっぱいいることにうんざりするものの、調査をする側としては短期間でけりがつく案件ばかりで効率はいい。浮かれてるやつは、尻尾を隠そうともしないからね。

 人様のヒミツを暴いて飯を食うという図式は歓迎したくないものの、ろくでもないヒミツは俺たちが暴かなくてもいずれ明るみに出るんだ。それなら、年を越す前にさっさとけりをつけた方がいいだろう。


「この手のごたごたはさっさと終わらせて、大事な祝い事にエネルギーを注ぎたいもんだよ」

「あの……」


 それを聞いて、夏ちゃんがえらく恐縮している。祝い事というのは、夏ちゃんと真奈さんの結婚祝賀会のことだ。


「本当に、いいんでしょうか?」

「いいも悪いもないよ。事実婚じゃないんだ。入籍してちゃんと二人で出発するなら、それなりの覚悟と打ち上げ花火はあった方がいいと思うよ」

「……そうですよね」


 夏ちゃんの表情は、必ずしも結婚を手放しで喜んでいるという風ではない。一度大失敗している自分が、これから本当に彼女を支えていけるのだろうかという怖じが混じっている。深い傷を負うと、傷が癒えても折に触れて傷跡がうずくんだ。その図式はきっと真奈さんも同じだろう。

 だが下手に傷跡を隠して出発するより、その傷を二度と作らないという決意と前向きな覚悟を手に新生活をスタートさせた方がずっといいと思う。


 二人の結婚祝賀会は、そういう趣旨で執り行うつもりでいる。サプライズはない。よくあるお披露目だ。親族や友人を大勢呼ばなくても、自分たちの出発を後押ししてくれる人がいっぱいいれば、きっと彼らから有形無形の激励と勇気をもらえるよ。

 第一歩を全力で明るくすること。二人には、それ以上の祝福はないと思っている。


「さて。じゃあ前半戦をさっさと済ませて、少し気持ちに余裕を作ろう。今のままじゃ、腰に節操がない連中に振り回されて気持ちがすさむだけだからな」

「そうですね」


 キーボードからぽんと手を離した夏ちゃんが、席を立ってコートを羽織った。


「じゃあ、草野さんから聞き取りしてきます」

「頼む。年末年始を挟むから、調査開始は年明け以降になるけどいいかと確認を取っておいてくれ」

「わかりました」


 やれやれという顔をしていた沢本さんも、新聞をぱしっと畳んで小林さんを促した。


「じゃあ、俺らも行こうか。面倒なことはさっさと終わらせるに限る」

「はーい」


 地味メークをするためにさっと化粧室に行った小林さんから目を離し、窓外の曇り空に目を移した沢本さんがぼそりと呟いた。


「今夜は雪になるかもな」

「冷えてきましたね」

「張り込みにはきつい。俺も、大概トシだからな」

「しんどいと思ったら遠慮なく言ってくださいね。私が出ますので」

「助かる」

「いいえー、助かっているのは私です」

「はははっ」


 明るく笑い飛ばした沢本さんが、小林さんを引き連れて素行調査に出た。


 今日はオフ日で今野さんは不在。鬼沢さんも、依頼者の手続き関係のことで法務局に出かけている。事務所の中が俺一人になって、ほっと息をつく。

 俺は、この探偵事務所を十年以上ずっと一人でやってきた。今のように賑やかになったのはほんの少し前からなのに、長かった一人探偵時代のことが思い出せないくらい人がいて当たり前の雰囲気に馴染んでいる。


「不思議なものだな」


 組織の中に埋もれている限り、依頼人との心の交流が十分に得られない。そう思ったから、沖竹エージェンシーを辞めて独立したんだ。独立のきっかけは俺が自由にやりたいからではない。より幅広く、深く、強い交流の機会を作りたい……そういう目的があったから。

 だが調査業っていう商売は、必ずしも望ましい出会いを得ることには向いていない。人の隠している弱みや秘密、真実を暴き出すという行為は、いつも俺たちの精神を荒廃させようとする。俺は、ともすれば闇堕ちしそうになる心を必死に磨き続けるだけで精一杯だった。希望に満ちて新たな人脈を作ろうとする余裕など、これっぽっちもなかった。


 賑やかな事務所の雰囲気に当然のように浸っている今の自分は、本当の自分なんだろうかと強い不安を覚える。誰もいない事務所で、来るはずのない電話をしんねりむっつりと待ち続けている……あの頃の自分の方がずっと自分らしくなかったか、と。


「いかんいかん」


 外気との温度差で曇り始めた窓ガラスに目を向け、顔をしかめる。人恋しさと人間不信。俺の中にずっと同居している相反した二つの感情が、脳内をいつまでもふらふら揺らし続けている。その揺れが感情の中だけにとどまってくれればいいんだが、傾いちまった天秤の片方の荷が、生き方まで支配しようとごそごそうごめくことがあるんだ。

 ひろのようなこれでもかと原則を貫く生き方に憧れるものの、実際にそうするのは難しいよ。正平さんちをこれからリフォームするように、傾いて不恰好になってしまった心をどうにかこうにかやり繰りして、よろめきながら歩いていくしかないんだろう。


「ふう……」


 尻ポケットから手帳を引き抜いて、その白紙ページを開く。かつての俺は、そこによく『初志貫徹』と書き込んでいた。探偵としての基本理念を常に意識するための儀式だったが、隼人の誕生を機にそのモットーの白紙撤回を決めた。

 若い頃ブンさんに叩き込まれた魂の遺訓は、俺が曲がらずに前進するための大事なよすがだった。ただ、ブンさんの教えはとても抽象的なんだ。そいつを型通りに解釈してしまうと、自分が恐ろしく狭苦しくなる。どこかで遺訓のフルリフォーム、もしくは再構築をすることがどうしても必要だった。


 だが俺は白紙撤回した自戒を高次の目標に作り替えることができず、空白を放置したまま事務所をチーム制に切り替えた。理念構築より現実対応を先行させてしまったんだ。俺は……すごく大事なことを見落としてるんじゃないだろうか。それが何かは、わからないんだが。


 俺が感じた漠然とした不安や焦燥。そいつが、すぐ依頼に形を変えて顕在化した。小さな、しかし生涯忘れることのできない依頼として。


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