(6)

 超特急で自宅に戻り、車の鍵をひっ掴んで部屋を走り出る。エレベーターの階数表示が、悪夢のカウントダウンのように感じる。


「くそっ!」


 どちらの現場も大事さ。でも、俺の身体は一つしかない。自分の身体を引き裂いて二つにするわけにはいかないんだ。勢い、俺はどうしても二択の一つを選ばないとならない。


 Aか、Bか。

 進むか、退くか。

 右へ行くか、左へ行くか。

 請けるか、止めるか。


 両方とも放棄するという選択肢は採りうるが、両方を選ぶことは決してできない。必ずどちらか一つだけ。選んだ一つが適切だったかどうかは、その時にはわからない。選んだなりの結果が付いてくる……きっとそれだけなんだろう。当然、選択の結果に安堵することもあれば、後悔することもある。


 これまで関わってきたたくさんの案件。二択のどちらかを選ばなければならないケースは少なくなかったが、概ね俺のチョイスは当たりを引いて来た。だから、二択に対して楽観的だったんだ。運命の選択に対してダルになっていたんじゃないのかと指摘されれば、確かにその通りだ。返す言葉がない。初動の遅れが悲劇につながらないようにするには、どうしても最悪のケースを想定しておく必要があるのに、それを怠った。自分自身を殴りつけたくなる。


 エレベーターの扉が開くのが待ちきれず、その隙間に体をねじ込むようにして飛び出す。それからマンションの駐車場に向かって全力で走る。


「ぎりぎり……だな」


 園児が帰ってすぐ職員も帰宅というわけじゃなく、勤務時間はよくある九時五時だ。そして宝井さんは、昨日きっちり定時に退勤している。久良瀬が張り付いている限り、定時に帰らざるを得ないんだろう。

 久良瀬が宝井さんの退勤時間よりもずっと前から車で来ているのは、勤労者を装う努力を放棄したということ。あいつはもうなりふり構っていないんだ。車で連れ去られたら一巻の終わりになっちまう。絶対に久良瀬より先に宝井さんを回収しなければならない。


 エンジンセルを回し、暖気する間も無く車を出した。


「間に合うかどうか微妙だ。少なくとも、向こうで宝井さん本人に事実確認する時間はない。ぶっつけ、か……」


 推測ばかりが先走っている宝井さんの事態が本当に深刻なのか。解析優先で結局園に電話できなかった俺には、その正確な判断ができない。だが、宝井さんを見守っている三人の印象にブレがない以上。そして、まだプロではない小林さんと夏ちゃんがそろって強い危機の匂いを嗅ぎつけている以上、俺はリスクのばかでかい宝井案件を優先しなければならない。

 宝井さんの案件は、銭にならん。たぶん一銭にもならん。でも、人生や生命を買い戻せるカネってのはないんだ。もし俺らの先走ったアクションが的外れに終わっても。終わり方はその方がいい。ずうっといい!


◇ ◇ ◇


 慎重運転がモットーの俺にしては目一杯飛ばして、なんとか四時四十五分に現地着。運転中にも沢本さんの詳報が続々入ってきていた。久良瀬は、目立たない場所ではなく、園の真横に乗用車を停めて堂々と宝井さんの退勤を待っていると。これまで日参しているなら、園の職員はみんな彼のことを知っているのだろう。待ち伏せが非常識だと咎める風ではないらしい。


「ちっ!」


 久良瀬の干渉を避けて宝井さんを回収するなら、正面以外の場所から退出してもらうしかない。夏ちゃんに指示して、裏口がないか探してもらった。


「あります!」

「そのあたりに車を停められそう?」

「いや、狭い路地です。軽でもきついです」

「ううー」


 参った。だが、背に腹は代えられない。近くに車を停め、そこまで走ってもらうしかない。幼稚園から150メートルほど離れたコンビニの駐車場に車を入れ、そこで一度全員集合。最終打ち合わせにする。


「私が、裏口を出た宝井さんを後ろからサポートします。沢本さんと夏ちゃんは、いつでも動けるようにコンビニの前で待機してください。前後でガードしましょう」

「おう!」

「小林さんは車の中で待機ね。宝井さんが乗り込むまでは、状況確認できるように窓を開けておいて」

「はい」


 車は、ドアや窓をロックすればシェルターになる。激昂した久良瀬が強引に宝井さんを連れ去ろうとしても阻止できる。そしてコンビニは客の出入りがあるから、人目を確保できる。いくらかは久良瀬への抑止力になるはず……なんだが。車や人目による歯止めは、まともなやつにしか効果がないんだ。期待しすぎてはいけない。


「さあ、急いで回収しましょう!」


 携帯で園に電話を入れて園長さんにざっくり事情を説明し、宝井さんの避難を促した。突然のきな臭い話に驚くかと思ったんだが、園長さんは前から異常を嗅ぎつけていたようだ。ただ、宝井さんのプライベートそのものだったために手を出せなかった……そんな口調に聞こえた。


 電話口で、園長さんが声をひそめた。


「じゃあ、宝井さんを裏口から帰らせますね」

「お願いします。私が付き添うとカレシを刺激するかもしれないので、少し距離を置いてガードします。月原のコンビニにグレイのセダンが停まっているので、それに乗るよう伝えてください。うちの女性所員がフォローしてくれます」

「わかりました」


 電話を切って、正門横に停められている久良瀬の車を見る。


「わナンバーか。レンタだな。ん?」


 車内に人影がないっ! しまった、気配を悟られたか!

 必死に走って裏に回る。男の姿が見えない。どこかに潜んだのかもしれない。厄介だ。びくびくした様子で、宝井さんが裏口から出てきた。俺には気づいていない。監視部隊の沢本さんに電話する。


「沢本さん、夏ちゃん! 久良瀬に感づかれてる! 宝井さんが園を出たからフォロー頼む!」

「了解!」


 きびきびした沢本さんの返事が耳元で響いた。

 たった150メートル。その150メートルさえ凌げればなんとかなる。園の裏口を出た宝井さんは、細い路地から幹線道路にさっと走り出た。よし! このまま……と思ったその時だった。

 園に一番近い電柱の陰に潜んでいたのは、沢本さんでも夏ちゃんでもなく久良瀬だった。しまった! 今は、沢本さんと夏ちゃん揃ってコンビニの近くにいる。間に人が……いない!


「やばいっ!」


 車の流れも人通りもある幹線道路に出てほっとしたのか、宝井さんが歩みを緩めた。まずいっ。力一杯叫んだ。


「走れーっ!」


 俺の警告が号令になったみたいに、宝井さんと久良瀬が同時に走り出した。コンビニの前から沢本さんと夏ちゃんが走り寄ってくるが、どう見ても久良瀬の方が足が早い。くそっ!

 後ろから追いかける俺と久良瀬との距離より、久良瀬と宝井さんとの距離の方が近い。誰か! 誰か久良瀬の足を止めてくれっ!


 俺ら三人、久良瀬、宝井さん。関係者の距離が急激に近づいていく。ただ……どう見ても久良瀬と宝井さんとの距離が一番近い。そして、久良瀬は右手に何か握りしめている。息を切らしながら、沢本さんと夏ちゃんに叫んだ。


「得物持ってるっ! 気をつけろーっ!」


 正直気をつけようがない。わかってることはただ一つ。もう支配できないことを覚った久良瀬が、宝井さんを壊しにかかったということ。ストーカー殺人の典型だ。


「くそーっ! 間に合わないっ!」


 それでも宝井さんが転ばなかったことで、間一髪夏ちゃんが久良瀬と宝井さんの間に身を滑り込ませた。久良瀬の視界を狭めるかのように両手を広げて制止する。だが久良瀬の足は止まらなかった。


「あぶないーっ!」


 ナイフを腰だめして構えた久良瀬が、走り込んだ勢いのまま夏ちゃんの腹に向けて突き出した。


「じゃまするなーっ! ぶっ殺す!」


 かわしてくれ! そう祈ったけど、夏ちゃんはよけなかった。どすっ! 突き出されたナイフをまともに腹に食らった夏ちゃんがくの字に折れてうずくまる。


「小林さん、騒げーっ!」


 助手席の開けた窓から上半身を乗り出してこっちを見ていた小林さんに向かって、全力で叫ぶ。薄暮の時間帯は何が起こっているのかが周囲にわかりにくい。異常事態であることを知らせるには騒ぐしかないんだ。自分も同じシチュエーションの時に声を出せなかった小林さんは、そのシーンがフラッシュバックしたんだろう。真っ青な顔で唇をわななかせていたが……すぐ渾身の力で叫んだ。


「きゃあああああっ! 誰かっ! 誰か来てえええっ!」


 ナイフを抜いて再度走り出そうとしていた久良瀬の足が、叫び声で一瞬止まった。沢本さんはその機を逃さなかった。


「ちぇえいっ!」


 沢本さんは得物を持った久良瀬の腕を取り、体落としで路面に叩き伏せた。ずしんという鈍い衝撃音。久良瀬の手からナイフが落ちた。すかさずナイフの柄を蹴って遠ざける。腕を背後にねじ上げて押さえつけようとする沢本さんに加勢し、俺も馬乗りになった。だが、久良瀬の往生際が悪い。大声でわめきながら、手足をばたつかせて激しく暴れる。くそっ! 刺された夏ちゃんの様子をすぐ確認したいのに動けない。


 騒動を見ていたコンビニの店長さんがすぐ110番してくれたらしく、俺らの荒い息が整う頃に赤い回転灯とサイレンの音が近づいてきた。


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