(7)

 最悪だ……。ソフトからハードまでいろいろな事態を想定してあったが、いきなり刃物が出てくるなんてのは論外だよ。


 駆けつけた警官を見た宝井さんは、やっと恐怖から解放されたんだろう。パトカーの中でこれまでの経緯をちゃんと話しているようだ。それはよかったんだが、こっちが大ごとになっちまった。あの勢いでナイフを突き出されたら無傷では済まない。夏ちゃんの腹は血まみれ。俺は最悪の事態を覚悟した。でも……夏ちゃんはいててと言いながら自力で立ち上がった。


「夏ちゃん! 大丈夫か? 腹は?」

「ちびっと切れました」


 苦笑した夏ちゃんが、シャツの下から雑誌を抜き出した。思わず腰が砕ける。


「はああっ……。プロテクターが入ってたか」

「所長に直に教わりましたから。紙の束っていうのは意外に刃物が貫通しにくいって」


 あの時のことを思い出し、苦笑いする。


「まあな。でも、それは薄すぎだよ。アサ芸だろ? ジャンプくらいにしなきゃ」

「今度はそうします」


 アドレナリン爆裂になっていた沢本さんだけど、犯人確保のあとでどっと反動が来たらしい。腰をとんとん叩きながら、しきりにぼやいた。


「年寄りの冷や水だなあ。あとで足腰立たなくなりそうだよ」

「すいません……でも、さすがですね」

「はっはっはっ! やっぱり血が騒ぐね」


 久良瀬は、駆けつけた警官に手錠をかけられてもまだ興奮が収まらず、「ぶっ殺す」を連呼していた。それが自分の罪状にどれほど不利に働くか全くわかっていないという時点で、相当イカレてることがわかる。殺人未遂の現行犯で逮捕され、警察に連行されていったが、あのいっちまってるツラは二度と見たくない。


 夏ちゃんは、刺された部分の傷なんか大したことないと言い張った。そうは行かないよ。久良瀬の立件にも関わるからね。それなりに出血していたのを理由にして、救急病院に連れて行った。事情聴取が一段落した宝井さんも付き添うと言ってくれたが、実のところは怖くて一人でいられなかったんだろう。


◇ ◇ ◇


 久良瀬が振り回したのが安物のペティナイフだったということもあって、夏ちゃんの傷は刺創ではなく切創のレベルで済んだ。それでも、しなくていい怪我をさせてしまった責任は俺にある。何度も頭を下げて平謝りする。


「夏ちゃん、済まん。一番ハードなケースを想定しなかったわけじゃないんだが、本当に刃物まで出てくるとは思わなかったんだ。備えが甘かった。済まん」

「いえ……」


 ベッドを取り囲んでいた俺らの顔を見回して、夏ちゃんがふっと笑った。


「刺される時の気分て、こういうものなんだなってわかったから。よかったです」

「おいおい」

「すいません」


 ずっと泣き顔の宝井さんは、消え入りそうな声で謝り続けている。


「すいません。すいません」


 その様子を心配そうに見ていた夏ちゃんが、いててと言いながら上半身を起こした。


「宝井さん。謝るのはなしです。それより」

「はい」

「ノーは最初からしっかり言いましょうよ。そうしないと」


 ふうっと小さく息を吐いて。傷の上に手を置いた夏ちゃんは、自分自身に言い聞かせるように呟いた。


「また……同じことが起こります」

「……」


 宝井さん以上に泣きじゃくっていた小林さんが、あえぎながら頷く。


「わたしも……そう……思う」


 うん。今はむしろ、危機が去った宝井さんより小林さんの方が辛いかもしれないな。過去の傷が大きい小林さんは、どうしても最悪だった時のことを思い出してしまうから。それでも……逃げなかったな。

 人に背を向け、目が一向に外を向かない。自己主張が必要な時ほど黙り込んでしまう。いつも逃げこめる場所ばかり探している。それが小林さんの悪い癖だった。でも、今回ばかりはそれが逆になった。自分のことは後回しで宝井さんを気遣い、大事なところで危機を声にした。今度は恐怖に負けなかったんだ。

 ずっと課していた宿題を自力でやっつけた小林さんには、でっかい勲章をあげることにしよう。


「なあ、小林さん」

「う……ん」

「上出来だよ。最初の試験は満点で合格だ」


 にっと笑った俺を見て、小林さんがほっとしたように目をこすった。さて、本筋を切り出すか。


「宝井さん。本件、これで終わりだと当事務所は怪我人出した上にただ働きになってしまうので、少しだけリカバリーにご協力ください」

「あ、はい」

「経過観察だけみたいですが、夏岡の付き添いをお願いします」

「はい」

「それと、今のうちにきちんとあの男との関係を整理しておかなければならないので、久良瀬の調査を当所に依頼してくださいませんか?」

「わかりました」

「久良瀬の言う婚約というのは嘘っぱちだと思うんですが、今後の対処のこともありますので」

「……」


 宝井さんが無言で頷いた。


◇ ◇ ◇


 宝井さんとの契約締結は、夏ちゃんが退院してからにする。もう急ぐ必要はないし、夏ちゃんや小林さんに依頼人からの聞き取り手順を教えないとならないからね。久良瀬の現行犯逮捕で緊急度が下がったから、リラックスした雰囲気の中でできるはずだ。

 で、問題は沖竹案件の方。ちらっと見せられた尻尾は二度と見せてくれんだろう。ただ、デザイン事務所の社員全員の画はもう撮れてる。それを沖竹所長に注釈付きで送った。実質残り三日。だが、俺はもう調査を切り上げるつもりでいた。


「意味がないからな」


 見せられたワンシーンは、連中の予告に過ぎない。あんな真昼間の逢瀬が毎日あるわけないよ。現実に起こっても不思議ではないというレベルに、最初から調整されている。調査している間に一回あればいいってわけ。俺の印象を操作するためにね。

 つまり、山崎が俺や所長に掴ませようとしているシーンが『クロ』だと確定しただけで、それ以外の意味は何もない。問題は、俺らに掴ませた『クロ』をどうやって『シロ』にひっくり返すか、だ。そのトリック解読には女性の目があった方がいい。小林さんに聞くことにしよう。


 まだ事件のショックを引きずっていた小林さんだったが、翌日もちゃんと出勤してきた。宝井さんの案件がなんとか収拾したことと俺が活躍を高評価したことで、気分が持ち直したらしい。感情の定常ラインがだいぶ高いところに上がってきた。それが安定してくれるといいんだが、まだ無理は言えない。

 彼女が事務机の前に着席したところで、例の写真を差し出す。小林さんが何葉かの写真をじっと見比べた。


「これ?」

「私が単独で当たってるもう一件の方なんだけど、この女性二人どう思う?」


 山崎の妻とデザイナーの女。見てくれは全く違うんだが……。真剣な表情でじっと写真を見比べていた小林さんは、俺と全く同じ結論を出した。


「双子、ですよね?」

「やっぱりか。メイクや服装の違いだけだよな」

「そう思いますー」

「よし!」


 湿布薬の匂いを振りまきながらも、沢本さんが経過を気にして朝から来てくれた。いろいろ話したいことはあったが、案件優先にせざるをえない。事務所の留守番を沢本さんと小林さんに任せ、俺は警察に出向いて江畑さんを訪ねた。


「あ、江畑さん。度々すみません」

「ん? 今度はなんだ?」


 俺が無言で差し出した美香の写真を見て、江畑さんが顔をしかめた。


「こいつか……」

「何か?」

「結婚詐欺をやらかしてるようなんだよ。被害届が出ているんだが、挙げられん。証拠がなくてな」

「証拠?」

「そう。被害者が一緒にいたと主張している時間には、女にアリバイがあるんだ。どうしてもそれを崩せん」


 写真をじっと見ていた江畑さんが、何か思いついたようにぽんと手を打った。


「ああ、そうだ。この前みさちゃんが写真持ってきた男。思い出した」


 思わず身を乗り出す。


「前科者ですか?」

「違う。詐欺まがいの催眠商法で告発された会社があってな。そこのスタッフ……というかバイトだ。がさ入れの時に事情を聞いてる。どうにも態度の悪いやつだったんで覚えてたんだよ」


 そうか。端役だったから、江畑さんの記憶に残らなかったということか。


「事情聴取だけだったんですね」

「そう。詐欺まがい会社にいる連中は上から下までまんべんなく黒さ。だが起訴対象になるのは役員から上だ。下っ端は上から言われたことをこなしたって言うだけ」

「なるほど」


 詐欺と端役……か。山崎は、うまいこと自分の立場を利用してやがる。間違いなく知能犯だ。だが、これで欲しい裏は取れた。沖竹案件も一気に行ける。じわりと笑いながら江畑さんに耳打ちした。


「結婚詐欺の女。挙げられますよ」


◇ ◇ ◇


 江畑さんのところから、真っ直ぐ沖竹所長のもとに出向いた。まだハエがくっついてくるが、好きにしてくれ。社屋に駆け込み、受付をスルーして総務の部屋に首を突っ込む。


「所長います?」


 期限より早く俺が来たからほっとしたんだろう。三井がにやっと笑った。


「いるよ。ご機嫌は相変わらず斜めだけどな」

「いつものことじゃん」

「ま、そうだ」

「じゃ」

「おう」


 所長室のドアをノックする。


「所長?」

「ああ、中村くんか。入ってくれ」


 咳き込むような所長の返事が響いた。相当精神的に追い詰められているな。


「失礼します」


 所長室の雰囲気は、ブンさんがやめる前のあのどうしようもなく不穏な空気と同じだった。所長は眉間にくっきりと深い縦じわを刻み、固く腕を組んだまま貧乏ゆすりを際限なく繰り返している。推理材料が足りなくて、ずっといらいらしていたんだろう。これまでの報告を兼ねて、対策を進言する。


「所長、山崎の依頼は承けても大丈夫ですよ」


 ぎょっとしたように所長が立ち上がった。


「なぜだ?」

「依頼者が。山崎が、調査依頼を自ら取り下げるからです。確実にね」


 それから、所長の耳元でごしょごしょと情報提供。大きく頷いた所長は、にこりともせず言い放った。


「そういうことだったのか。あの野郎、死ぬほど後悔させてやるっ!」


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