(4)
どうしようもなく臭いトイレを出て、所長室に戻る。この程度の冷却時間じゃ、所長の思考を変えさせるには全然足りない。まだファクトが全くないからね。それでも、所長に依頼内容を変更してもらうためにはどうしても地ならしがいるんだ。
「すみません。お待たせして」
「いや」
「断れそうですか?」
所長のむっすり顔は変わらない。変化なしか。やっぱりそうだよな。理由を示さず門前払いするのはどうしても嫌なんだろう。じゃあ、突っ込もう。
「ねえ、所長。山崎ってやつの素行を調べても、俺らに監視がついてる状態なら何も出てきません」
「……ああ」
「それなら、山崎に絡んでるやつの調査をするしかないです」
「意味があるのか?」
「山崎の妻の素行調査依頼なんでしょ?」
「そうだ」
「その妻ってやつの調査はしたんですか?」
「請けてない調査だからしてないよ」
これだからな。はあ……。本当に融通が利かないったら。でも、所長に発想を変えろと忠告したところで意味がない。アプローチを変えるしかないんだ。
「じゃあ、俺がそこをやりましょう。妻の素行調査じゃないですよ。妻の身元調査です。それなら監視があってもできます」
「意味があるのか?」
どうしても山崎案件自体にタッチしたくないんだろう。所長の渋面は変わらなかった。
「所長の推理の足しにはなるかと」
「……」
「ねえ、所長。この案件、所長は絶対に断れません」
「む」
「俺なら、どんな理由をこじつけても断りますよ。でも、所長は絶対に断れない。違いますか?」
ひたすら黙り込む所長。
「それなら引き受けたあとどうするかも考えておかないと、そこから先が所長の大嫌いな出たとこ勝負になっちゃいます」
「ああ」
「山崎だけでなく、山崎の関係者も含めて『そこになにがあるか』くらいは最低限把握しておかないと、所長が推理を働かせる材料が揃わないです。引き受け後に何かあっても対処できないでしょう?」
「む……う」
山崎以外のやつが絡んでいて、俺たちを監視しながら動いているという事実を知った所長は、これまで以上に依頼を断りたいはず。だが所長が監視を避けるために所長室に閉じこもれば、山崎の企てを探るためのファクトは何一つ得られなくなる。しかも、全く利益にならないリスクありの調査だから所員が使えない。所員以外に信用して動かせるメンツは俺しかいないんだ。
しばらく煩悶を繰り返していた所長だったが、渋々俺の提案を飲むことにしたようだ。
「わかった。調査対象を山崎本人から山崎の妻に変更する」
「了解です。素行調査はサービスの範囲でやりますけど、さっき言ったようにそれは参考にしかなりません。こっちの動きが向こうに割れてる以上意味がないです。相手に情報操作されたらお手上げですから」
「ああ」
「身元確認だけなら瞬殺ですが、俺らを尾行してる連中も含めて関係者の洗い出しをしたいので、リミット一週間はそのままということでいいですか?」
「仕方ないな」
よし! 所長の説得に成功した。ここをクリアできないと、所長をかえって窮地に陥れてしまう。今はまだわずかしかない推理材料を調査で増やし、所長が納得できる形での危機回避法を共同で探れば、所長の個性を侵食しなくても対処できるはずだ。
「じゃあ、契約ということでいいですね?」
「もちろんだ」
相手が所長であっても、説明は欠かせない。きちんと条件やオプションを示し、不明瞭なところは質問してもらった。細かい所長の指摘は多岐に渡ったが、俺も抜かりはない。明文化されていない項目は全て付帯条件として追記し、契約の欠陥が調査に影響しないよう徹底的に備えた。今回のケースは、うちが大型案件を請ける際の試金石になる。俺もしっかり勉強させてもらうことにする。
ちんぴら付きということで危険手当を大幅上乗せし、調査費用は限りなく七桁に近い六桁に膨らんだ。それでも、俺的にはまるっきり割りが合わん。結局、連中との接点は所長ではなく俺になってしまったんだ。当然連中は俺にも探りを入れてくるだろう。いざという時に調査員を使える沖竹と違って、うちではリスクありの現場がまだ俺しか扱えない。監視付きの単独調査の上に調査期間が短いというハンデを背負うのは、正直ものすごくきつい。
だが、この件は鋏でぱちんと裁ち落とすようには終わらないと思う。山崎らの出方を見ながら、臨機応変に落とし所を探ることになるだろう。調査報告までの期日は短くても、その後にはもっと時間を使える。
契約書の隅々まで目を通した所長は、最後のフォローアップオプションをコストカット目的で外さなかった。この件では調査後も俺を噛ます必要性があると考えてくれたんだろう。それなら、俺もフォローアップありの前提で動けばいい。調べただけで終わりにしないといううちの新方針は、今回の件にもしっかり適用される。所長との連携を活かせれば、マンパワーの不足分は補えるはずだ。よし!
「じゃあ、すぐに動きます」
「済まんが頼む」
「ファクトは、分かり次第逐時送りますね」
「了解」
所長室を飛び出した俺は、十数年ぶりに沖竹の調査員をしているような錯覚に囚われた。だが今回の件、俺は一切沖竹の助力がもらえない。そこがあの頃よりしんどい。しかし、上からの縛りがなくフリーに動ける今だからこそ出来ることもあるんだ。そう考えよう。
◇ ◇ ◇
文字になっているファクトはすぐに揃う。わざわざ俺が調べに行かなくても、所長のところに一式あるからね。山崎夫婦の名前、現住所、勤務先を手帳に控え、すぐ夫婦の行動監視に移る。
変装はせず、沖竹から出たままの格好で山崎の勤務先であるオフィスに向かった。向こうがあえて見せようとしているのなら、こっちも行動を顕示しよう。そうしないと向こうにプレッシャーがかからんからな。ダニが二匹くっついてくる図式はずっと変わらない。一方が誰かに電話してるから、現場部隊にへまするなと注意喚起をしてるんだろう。
俺の行動が相手に常時見張られてる以上、俺は連中の猿芝居しか見ることができない。どんなに監視したところで隠された事実が出て来るってことはないはずで、連中も所長もそう思い込んでいる。だが、必ずしもそうじゃないんだよ。
山崎は、隠すことじゃなく見せることで俺らの情報操作を狙っている。どんなに調べたところで、見える部分しかわかりませんよー……そういう手口だ。その手は所長相手なら有効。でも俺は所長じゃない。目をつけるポイントが違うのさ。
演技ってのはあくまでも演技に過ぎない。リアルに限りなく近づけることはできても、ひゃっぱーリアルにすることは出来ない。演技には、どうしても強い不自然さが混じる。本当の日常と違って、行動、言動、仕草、表情の端々に違和感が挟まるんだ。所長につかませようとしている偽のファクトはこれでもかとリアルに仕上げてくるはず。でも、それ以外の地の演技はどうしても雑になる。ぼろが出やすいんだよ。俺が確かめたいのは、そっちの方だ。
俺は調査対象の人物がどんな仕事をし、どんな生活をしているのか、字面以外のことを何も把握していない。山崎や美香の実印象には一切のバイアスがかからないんだ。まず、そいつから確かめるか。今は勤務中のはずだな。仕事場から拝むことにしよう。
それでも。視界の端をうろちょろし続けているダニを見て、どうしようもなくうんざりする。
「臭い猿芝居に付き合わされることになりそうだな。やれやれ」
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