(3)
「げほっ! まあ、臭えトイレだ。所長も、こういうところをケチって評判下げないようにせんと」
おんぼろビル相応のおんぼろトイレで、その上掃除がいい加減と来てる。まあ、できるだけ表に出たくない客は、探偵社なんてところには極力長居したくないわけで。特別な事情がない限りトイレに立てこもることはないだろう。汚いトイレだと文句を言うようなご立派な人物は、そもそもここに来ないってことだ。
苦笑しながら、便座の蓋を上げずにそのまま腰を下ろす。尻ポケットの手帳を引っ張り出して、臭い臭いとぶつぶつ文句をぶちかましながら、推論を書き並べて行く。
正直、所長の依頼は承けたくない。所長が山崎という男の依頼を臭いと感じるように、俺も所長の依頼が臭くてたまんないからだ。臭いのは、所長が何かを企んでいるからじゃない。所長の体臭がもともとどうしようもなく臭いから。体臭ったって本当に臭いわけじゃないよ。臭いのは、どうしようもなく腐ったままの思考回路の方だ。
所長がファクトを並べて推理を動かし始めたら、その間に何が挟まっていようがブルドーザーのように真実に向かって突き進んで行く。そこには白か黒しかない。所長が解決済みの案件にゼロを書く癖。それは、案件としての全消去を意味する。ブンさんの時ですら、そうだったんだ。もちろんゼロにしたから全て忘れるというわけじゃないよ。記録としてはちゃんと残してあるんだ。でも、案件としては二度と俎上に乗せない。
そのからっからに乾いたビジネススタイルは、客の安心感を醸成する。どんなに難しい調査であっても白黒をはっきりつけてくれるというだけじゃない。事後に後腐れがないからだ。沖竹ではアフターに一切タッチしないからね。まあ、そこは経営者のビジネス思想の違いだから、所長の好きにしてくれていい。ただ……こういう時に困ってしまうんだよ。
調査会社のトップとして、全てを白黒、ゼロワンで割り切るやり方がダメだとは言わないさ。ただ所長のやり方にはリスクと弊害があるのに、それを頑なに認めない。その腐った思考回路だけはどうにもならん。腐臭が俺にしかわからないならともかく、そいつは誰にでもわかってしまう。だから腐臭を嗅ぎつけたろくでなしに食いつかれてしまったんだ。
「ふうっ」
腕組みして、昔のことを思い返す。
ここでの修行時代に、馬鹿げた騒動があった。家出した豚娘を連れ戻せという安田っていう富豪の依頼。連れ戻すなんてのは「調べる」という業務の範疇に入っていない。その時俺とブンさんは、騒動の解決を調査会社の業務に組み込めるかどうかを考えた。難しかったら引き受けないさ。でも、俺らは機転を利かせて案件を瞬殺した。何の危険もないし、背景もその後の流れも全部見通せたからね。
だけど、所長だけは筋論……すなわち、親父の依頼は依頼になりえないという筋に恐ろしいほど固執した。だから「やるなら君の責任でやれ」と俺に放り出したんだ。
ブンさんは、感情が極端に薄味な所長を、実の親からすら見捨てられた犯罪性向の強いやつというバイアスをかけて見ている。つまりブンさんが所長を鍛えた動機は、あくまでも更生なんだ。
でも……俺の見方はブンさんとは違う。いや、見方を変えない限り臭い所長とは付き合えない。所長の奇妙な性格は、倫理観がどうのという以前に、生涯変えようのない『個性』なんだ。アスペルガー症候群と言った方がぴったり来るんだろうが、何をどう表現したところで解決にはつながらん。所長の『個性』を侵食せずにどう解決に導くか……俺にはどうしてもそういう視点が要る。この年になって、ようやくそれに気付いたんだ。
なぜ、気づくのにそんなに時間がかかってしまったか。俺の感情が所長の冷徹さ、頑迷さに捻じ曲げられてしまったこと。ブンさんの言動のバイアスがかかってしまったこと。そして、俺と所長が上司と部下の関係を解消し、個人と個人という乾いた付き合いになってしまったからだ。
所長の位置付けを見直せば、これまで散々悩まされた所長の不良案件たらい回し癖の意味も変わってくる。
所長は、沖竹エージェンシーでの引き受け基準を満たさない不良案件を次々俺に放り出してきた。その無節操な行為にはずいぶん泣かされたが、所長のアクションの根底にあるのは嫌味や嫌がらせじゃないんだ。俺が退所する時に言った「沖竹で解決できない事件を請ける」という文言を、所長が馬鹿正直に解釈しているに過ぎない。案件を切り分ける基準の中に俺を組み込んだ……ただそれだけなんだ。
今回の件を俺のところに持ち込んだのも、理由は同じだろう。もし所長が一度引き受けてしまった依頼なら、所長は全身全霊で白黒をつけるはずだ。だが、所長は自分の基準に合わない案件は絶対に引き受けない。引き受けないものに注力することを徹底的に拒否する。で。普通は所長が臭いと感じた案件はすぐに底が割れる。これこれこういう理由で「ダメです」と言える。所長は、裏が見えないというケースをまるっきり想定していなかったんだ。
これまで沖竹から回されてきた数々の依頼は、「所長が自力で処理できない」から俺のところに回した。それ以外の深い理由は何もない。今回もそうだろう。そして所長自ら俺のところに依頼を持ち込んだのは、それが単なる依頼ではなく無意識のエスオーエスだと言うことを示唆している。所長は絶対に認めないだろうけどね。
そういう前提を置いて、俺がどうすればいいかを考える。
まず、所長や俺が監視されている以上、所長が期待しているような『ウラ』は絶対にゲットできない。一応足掻いては見るけどね。俺に男の素行を調査させる意味は何もないんだ。所長が事前調査している以上のファクトは出て来ないだろう。つまり所長はスジとして、どうしようもなく胡散臭い男の依頼を承けざるを得ない。
俺ができるとすれば、その後だ。山崎という男が妻の素行調査を依頼していて、それを沖竹が調べれば、クロかシロかどちらかの結果が出てくる。たぶんクロだろう。それを証拠付きで山崎に報告して終わりにするのが通常の流れ。だが、所長の思考を強制的に捻じ曲げたいのなら……山崎のアクションは想像できる。証拠付きで所長にシロの事実を示せばいい。
調査会社としての最大の瑕疵は「わかりませんでした」じゃない。事実と逆の報告をしてしまうことだ。少なくとも、所長自身はこれまでそれを一度も許容していないはずだ。じゃあ、真逆の事実を眼前に突きつけられてしまったら、所長はどうする?
「そういうことだろうなあ……」
勝山のばあちゃんを狙って完全犯罪を企んだ、戸倉という男。所長の性格も戸倉とそんなに違いがないんだ。自分の方法論や価値観に恐ろしいほど強く執着していて、それを頑なに抱え込む。当然、その芯を強制的に曲げられると強烈な反動が出る。戸倉は不完全な自分を消そうとするアクションに執着するようになり、これまで何度も自殺未遂騒ぎを起こしている。
だが、所長には戸倉ほどの美学はない。ナルシストの戸倉と違い、所長の自己肯定感は決して高くないからね。その反面、足元を崩されると自暴自棄に陥りやすくなる。ブンさんがずっと心配していたみたいな白黒反転が起こりかねないんだ。今回罠をしかけている連中は、所長の奇妙な性格を読みきっているということなんだろう。
「ああ、くせえ」
ったく。山崎も所長もこのトイレも、どうしようもなく臭い。俺にまで悪臭がこびりつきそうだよ。ぶつくさ文句をぶちかましながら手帳を閉じ、水を流す。依頼もこんな風に流せればいいんだが、そうはいかんだろう。所長がもうちょい頭を回したくても、ファクトがまだ全然足りない。そして、その調査は絶対に所員にさせないだろう。事前調査の域をはみ出るような調査になってしまうからな。
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