第十話 臭い、臭すぎる
(1)
気合い十分で事務所を出て、事務所の入り口を施錠する。さて、いざ沖竹エージェンシーへ! ……とは行かないんだよ。その前に、俺のどたまを十分に回しておかなければならない。なぜか。所長の持ち込んだ話が、最初からどうにもこうにも臭すぎるからだ。
もちろん所長も依頼には裏があると睨んでいて、だからこそ俺に依頼者の背景を調べさせて断ろうとしている。でも、所長が依頼者の身元を事前に確かめる作業は徹底しているはずだ。その所長に炙り出せないものは、所長ほどのキレがない俺にはもっと見つけられない。所長から指示されている一週間という調査期間では、絶対に何も出てこないんだよ。
それを承知の上で俺に依頼を押し付けようとする所長の態度が、そもそも猛烈に臭いんだ。そして臭いことは、所長の態度以外にもう一つある。だからこそ、俺は即座には動けないのさ。
「さて。帰るか」
小林さんが来てからは、調査以外で日中事務所を空けることはなかった。久しぶりのイレギュラー勤務になるな。スーパーで買い出しをしていくか。
カバンからチラシの束を取り出し、それをチェックしながらゆっくりと歩き出す。チラシの端から周囲を注意深く確認しながら。
◇ ◇ ◇
「よっせい!」
両手にぶら下げていた食料品や日用品のビニール袋を一度下ろし、部屋の鍵を開ける。下ろした袋を先に中に入れ、自分が入る前に背後をちらっと見下ろす。
「やっぱりな」
部屋を施錠し、リビングではなくキッチンに移動。まあ、買い物した荷物を冷蔵庫にぶち込むアクションだ。おかしくはないだろう。リビングならともかく、キッチンは外から見えない。監視者にとって死角になるから、俺の行動や言動が読まれる心配をしないでいい。念のためにキッチンの床の上にあぐらをかいて姿勢を下げ、手帳を取り出す。
「所長もなあ……」
まだ白紙のページを見て、でっかい溜息を真っ先に置いた。もし山崎ってやつがフレディのところに行ったなら、フレディはどんな理由をつけてでも最初から依頼を断るだろう。もちろん俺もそうする。なぜか。依頼者の挑発が明白だからだ。
調査させる意図を隠すなら、少なくとも依頼人は自分の見てくれをそれらしく装わなければならない。見るからに遊び人風情のまま妻の不貞を調査しろってのは、いくら沖竹所長がずれていると言っても真意を疑うだろう。だからこそ、こいつ何だの部分が俺のところに飛んで来た。
そういう挑発は、普通は悪意だよな。所長に恨みがあって、絶対こいつをへこましてやるという目的を果たすために罠を仕込む。それなら所長は、必ずそいつの正体を探り当てているはずだ。
コミュニケーション能力はぼろぼろだが、所長の記憶力は尋常じゃない。過去に自分が手がけた案件は、コンピューターに記録するよりも正確に覚えている。その所長の記憶にないわけだから、どこから悪意が飛んできているのか推測しようがないんだ。それが、所長の激しい苛立ちの出どころになっている。
しかし、だ。俺の目から見ると、それは別の構図をくっきり浮かび上がらせる。フレディや俺ならどんな理由をでっち上げても断る臭い案件を、融通の利かない沖竹所長なら渋々であっても引き受けてしまうんだ。挑発姿勢を最初から隠さないのは、所長の意思を力ずくで曲げるためなんだろう。沖竹所長の弱点を突いて、支配下に置く。あのちゃらい男の狙いは、それしかないと思う。
「ふう……」
沖竹所長は恐ろしいほど切れるが、どうしようもない欠点も同時に抱えている。
ブンさんにあれほどどやされ続けたにも関わらず、現場に足を運ぼうとしない。安楽椅子探偵のスタイルを、今に至るまで頑なに貫き通している。もちろん、調査員に指示を出すことで所長が推論を組み立てる材料は揃うし、だからこそ今までとんでもない解決率を誇ってきた。だが、所長の方式には致命的な欠点があるんだ。
高度な対人関係の構築を極端に苦手にしている所長は、事務所に引きこもることで人絡みのトラブルが発生するリスクを下げてきた。でも、それがゆえに自分の身辺に今起こっている事象を感知できない。所長には、危機感知センサーが最初から備わっていないんだ。
俺がすぐに沖竹エージェンシーに向かわなかったのは、つけられていることに気付いたからだ。事務所を出てここに来るまでに、俺が気付いた視線の主は少なくとも二人。所長に見せられた写真の主ではなく、別人だ。そして二人ともいわゆる『プロ』ではない。佐伯さんの監視をやってた連中くらいのちんぴらレベル。もしフレディがその場にいたら、ゼロコンマん秒のレベルで即察知されるくらいダルな連中だ。
その監視は本来所長自身に張り付いていたはずで、しかも所長はつけられてることに全く気付いていない。だから所長の起こすアクションが全部連中に筒抜けになっている。俺に監視がついたのはそう言うこと。今回所長の起こしたアクションは、所長にとってだけじゃなく俺にとっても最低最悪だったんだよ。
実際のところ、誰かの監視を逃れながら他の誰かを監視するなんてことは、真逆のアクションの同時実行だから不可能に近い。こちとら一人しかいないんだ。複数人で行動監視されたらどうしようもない。首尾よく監視者をまけたとしても、まくというアクション自体が連中の警戒心を高めてしまう。俺の気配があるうちは、あいつら絶対に尻尾を出さんだろう。
つまり。俺がこっそり調査しようがおおっぴらに調査しようが、依頼者の男は普通に家を出て出勤し、会社で仕事をして、仕事が終われば家に帰る。淡々とそれを繰り返すだけ。所長が不実申告を理由に依頼を断れるような材料は出てきようがない。俺が何をどう調査しても、逆に所長の逃げ場を奪ってしまうことになってしまう。臭いものは何も出てきませんでしたと報告するしかないからね。
「連中は、所長の先手先手で動いてるってことか」
俺は確信する。所長をはめようとする山崎の行動原理は、悪意起点じゃない。所長を支配下において調査させる明確な目的がある、と。
◇ ◇ ◇
俺がキッチンの床に座って手帳にいろいろ書き散らしている間に、スマホに宝井さんに関する観察報告が次々着弾していた。
「仕事ぶりはとてもまじめ」
「おとなしい」
「優しい先生として、子供達には人気がある」
「わんぱくな子供の扱いがへた」
「先輩や園長の指導に逆らわない」
「積極性は足りないかな」
「笑顔は絶やさないけど、声を出して笑わない」
「そもそも声が小さい」
「運動は苦手系っぽい」
「歌もそんなにうまくない」
などなど。まあ、電話でやりとりした時の印象とそれほど違わない観察結果で、沢本さんがついている割に物足りないと言えば物足りない。だが、観察者は素人二人なんだ。最初のステップとしてはそんなもんだろう。引き続き偵察をよろしくと返信しておく。
ただ、一つだけさっきの情報群からわかることがある。いわゆるマリッジブルーということならば、もっとしっかり気分が沈むだろう。仕事でのへまが増え、表情にもはっきりと翳が差すはず。探偵に婚約者のことを調べてくれと持ちかけるくらいだから、気持ちに大きな負荷がかかっているはずなんだ。でも、それが全く表面化していない。
ストレスがかかっていても自分の感情をしっかりコントロールできるくらいタフならば、切羽詰まって俺に素行調査依頼をすることなんかないわけで。俺は、その矛盾がどうにも気にかかる。臭い。そして、情報の中に気になる記述があった。
「同僚や園長の指示に逆らわない。嫌な顔をしない……か」
いや、宝井さんが教諭として仕事を始めたばかりというなら別だ。でも宝井さんの年齢なら、むしろ新人を指導する側に入っていてもおかしくないはず。にも関わらず、平凡な観察者にさえ従順という印象を与えるということは、見た目以上に宝井さんの感情抑圧傾向が強いんじゃないかなあと。じわっと懸念が浮かぶ。
「まあ、そこからはもうちょい先の話だな」
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