(3)
保育園で静ちゃんをピックアップして、勝山さんの部屋に向かう。
「勝山さーん。中村ですー」
「はいはいはい」
浮き浮きした明るい声が、インターホンから流れてきた。ばあちゃんは、佐伯さんの決断をものすごく喜んでいるんだろう。すぐに玄関ドアが開いて、喜色満面のばあちゃんがひょいと顔を出した。で。佐伯さんの顔を見て、瞬時に真っ青になった。
「ちょ……もしかして」
「田中の逆襲ですよ」
「ひいっ」
ぺたっ。ばあちゃんが、真っ青になって腰を抜かした。
そう。ばあちゃんは、自分も犯罪被害者だ。命に関わる大きな事件に巻き込まれているから、いかに佐伯さんの身の上を案じていても、自分の安全保障が先になる。佐伯さんは、そういうばあちゃんの態度の変化をよーく見ておいてほしい。
「うっそー」
「え?」
ぺろっと舌を出した俺を見て、ばあちゃんが混乱する。
「え? あの?」
「いや、さっきうちの事務員と取っ組み合いの大喧嘩をしたもんで。ちょい、生傷が」
「えええっ?」
とてもそんなタイプには見えなかったんだろうな。ばあちゃんが、ぱかっと口を開けて絶句してる。佐伯さんは、ばつが悪そうだ。
俺が佐伯さんを諭したのと同じさ。ばあちゃんにも、佐伯さんの虚像の奥をきちんと見てもらわないとならない。形式的な後見人じゃない。同居者だからね。
「さて。少しだけ話をさせてください。あとはお二人でよろしくってわけにはいかないですから」
「そうね。お願いします。ゆうかちゃん、入って」
「おじゃまします」
おじゃまします……か。それをいつ変えられるか、だな。
◇ ◇ ◇
まず、状況説明から行こう。二人が並んでソファーに座ったところで、床にべた座りした俺はすぐに話を切り出した。
「勝山さん。佐伯さんは、つい先ほど勤めていたお店を退職されました」
「あら、お仕事を辞めたの?」
ばあちゃんが、驚いたように佐伯さんを見つめる。
「店長が、どうしようもなくすけべでねえ」
ずりっ。ばあちゃんがずっこける。
「うわ……」
「性犯罪被害者である佐伯さんが、安心して働ける環境じゃないんです」
「そうよね」
「で、次の職を探す前に、一度まともなところで就労体験をさせたいんですよ」
「うんうん」
「そのような前提で、サポートをお願いできればと思ってます」
「分かりました」
「で」
「はい」
俺は続きを言わずに、佐伯さんの発言を促した。佐伯さんは、必要な説明を俺が代行してくれると思ったんだろう。わたわた慌ててる。
車内でちゃんと説明したでしょ? 困ったもんだ。でも、俺は助け舟を出さないよ。これが宿題の第一歩さ。やらされる宿題は、結局身につかない。そんなのにいくら時間を割いても意味がないんだ。
ぐずりだした静ちゃんを抱えたまま、固まっていた佐伯さんだったけど、ソファーから降りて勝山さんの前で正座し、深く頭を下げた。
「わたしを……置いてください。お願いします」
思わずがっくり来ちゃった。はああっ、だめだこりゃ。あれだけ言ったのに、芯から自分を下げる処世術に支配されたままだ。呪縛感が半端ないわ。こらあ……改善にうんとこさ時間がかかるな。
俺の呆れ顔と佐伯さんの切羽詰まった表情を見比べていたばあちゃんだったけど。
さすがは年の功、俺が期待していた模範解答を言葉にしてくれた。
「まあ、やってみましょ。たった三日間じゃ何も分からないわよ。予想外のことがこれから必ず出て来るわ。そういうのも含めて楽しまなきゃね」
ばあちゃんが佐伯さんを丸抱えしてしまうと、最悪の共依存になりかねない。でも、ばあちゃんは慎重だ。ちゃんと佐伯さんとの心理的距離を確保しようとしてる。それだけで、俺はすごく安心できる。
「まだお二人にいろいろ言っておきたいこと、考えてもらいたいことはあるんです。でも、私自身もたんまり宿題を抱えているので、その消化を優先させてください。手続きや生活補助に関する相談はいつでもお申し出ください。できる限り対応しますので」
「ねえ、中村さん」
「はい?」
ばあちゃんが首を傾げた。
「中村さんの宿題って?」
持ってた手帳を掲げてみせる。俺は探偵であって、民生委員やカウンセラーではない。本業をなんとかしないと、自分の人生がおしまいになっちまう。本当なら、人助けしてる余裕なんかないんだ。
「商売ですよ。まだ出たとこ勝負で、先の見通しが全く立っていません。今は綱渡りもいいとこですから」
◇ ◇ ◇
マンションから事務所に戻って、小林さんの携帯に電話をかける。
「ああ、小林さん? 中村です。どうだった?」
「……」
しばらく沈黙が続いた。
俺が小林さんに課した宿題は、佐伯さんと取っ組み合いして傷だらけあざだらけの状態で帰った時の、両親の反応を観察しろ、だ。これまで両親や弟のじゃぶじゃぶの気遣いでふやけ切っている小林さんは、両親がとんでもなく心配してくれると予想したんだろう。
甘いな。警察沙汰になっているわけではなく自分の足ですたすた帰ってきたのなら、事件性があるなんて考えないよ。いくら両親が心配性でも、それくらいはわかるはずさ。じゃあ、親はどういう反応を示すと思う?
「あんたに……ケンカできるような友達なんかいたの……って」
ぶぶっ! 思わず吹き出した。いや、ご両親の反応は予想通りなんだ。それにショックを受けてる小林さんの呆然ぶりが、どうにもおかしい。
「はははっ! いや、そんなもんだよ。大人になってからの取っ組み合いってのは、ほとんどの人が経験しないことなんだ。ご両親にも聞いてみたらいいよ」
「あ……」
「記憶にないっていうはずさ」
「そっか」
「ケンカしたことよりも、ケンカできるくらい自分の感情をぶつけられる相手がいたこと。ご両親の驚きは、その一点集中だと思うよ」
「うーん」
どうにも納得できないって感じだな。まあ、いい。自他の間にどういう意識や感情の落差があるかを、こういう宿題で考えて欲しいのさ。何もかも全部ぶん投げて、自分の中に逃げ込んでしまうんじゃなしにね
「明日はいつも通りの出勤な」
「はい」
「今日は湿布貼って、ゆっくり休んで」
「はーい」
よし、と。さあ、子供たちを迎えに行こう。
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