(2)

「一丁上がり。どうでした?」


 車に戻ってすぐに、助手席で意気消沈していた佐伯さんに聞いてみる。


「佐伯さんが辞めると切り出さなくても、ほとんどの人が自己保身に走った。あのどすけべ店長ですら、身を守るために自分の性欲を封印した」

「……はい」

「それが、人間というものの本性なんです。いいも悪いもない。自己犠牲なんか、絵に描いた餅。誰も彼も自分が一番かわいいんです。それなのに、なぜあなただけが誰かのために自分を取り崩さないとならないんですか?」

「うん」

「辞めるってことは、あなたにとって大事な権利です。今回のことだけじゃない。これからもね」

「はい」

「我慢が美徳なのは、我慢によって得られるものが大きい場合だけです。それで全てを失う恐れがある時は、我慢しちゃだめだ。よく覚えておいてくださいね」


 まあ、普通は逆だよな。我欲むき出しで、他人のものをどうやって横取りしてやろうかと鵜の目鷹の目になってる連中の方がずっと多いんだ。わがままもほどほどにしろとどやすことはあっても、我欲を出せなんてリクエストすることはまずないよ。

 我慢し、隷属してしまう癖。それが佐伯さんの最大にして最悪の弱点だ。いや、芯から何の疑いもなくご奉仕いたしますっていうならそれでもいいさ。でも、佐伯さんの本心は全く正反対。我はとても強いのに、『従順』という処世術がその上を隙間なく覆ってしまっている。このままじゃ、いつか窒息するよ。


 致命的な弱点を解消するためには、勉強と訓練を通して違う処世術を覚え、そいつを意識して使わないとならない。実はさっきのもそうなんだ。退職させるだけなら、俺が佐伯さんの代わりに店に行って事情説明するだけで済む。でも、俺はあえて佐伯さんを同席させた。揉めずに辞めるために、使える手駒はなんでも利用する。その実例を、どうしても佐伯さんに見せたかったからだ。


 小林さんと取っ組み合いをしてしまった結果、顔や身体にいっぱい傷やあざをこさえてしまった。それだけで終われば、痛いという記憶と傷跡しか残らない。でも手加減なしの傷は、自力では作れないんだよ。傷があるなら、それが生々しいうちに手駒として使ってしまおう。そういう貪欲な発想が、これからどうしても必要になる。


「さて。保育園に静ちゃんを迎えに行きましょう」

「あれ? まだ早くないですか?」

「いや、さっきの店だけでなく、まだ交渉先が控えてるんです」

「え?」


 ほら。自分の状況と手駒がまだ全く見えていない。金銭的なバックアップが整ったところで、もう安心してしまっている。お金があっても、それ自体は何もしてくれないよ? さっき俺が事務所で説明したみたいに。自分の欲しいものを取りに行くなら、自分にあるものと足りないものを認識するだけでなく、それらをどう使えばいいのか考えなければならない。

 なぜ勉強をするのか? 宿題をこなすのか? 単に頭をよくするためじゃない。覚えた知識を自分の人生磨きに応用するためだ。ただ詰め込まれるだけで使われない知識なんざ、くその役にも立たん。


 俺はデリカテッセンの駐車場から車を出すと、少し離れたところにあるコンビニの駐車場に車を停めた。


「ふうっ……」


 一度溜息をついて、佐伯さんに話しかける。


「佐伯さん」

「はい」

「あなたの窮地を救ってくれたのは、高校の先生や園長さんといったとても優しい、心配りのできる人たちです」

「はい」

「じゃあ、そういう人たちは神様ですか?」

「……」

「私達と同じ、自分の生活を抱えている人間ですよね?」

「はい」

「ということはね、いつでも神様からただの人に戻るんです」

「そ……んな」

「残念ながら、あなたの人物評価はとんでもなく雑です。小林さんも同じですね。人を、いい人と悪い人という形で単純に二分してしまう」

「う……」


 エンジンを切って、腕を組む。


「小林さんは、ほとんどの人を悪い側に置く。あなたは逆にほとんどの人をいい側に置く。でも、どっちも中間がない」

「……」

「それは、どうしようもなくおかしいんです。気が付いてますか?」

「……うん」


 原因は違うよ。小林さんのは、強すぎる自意識が原因。自分を守ろうとして、全ての人を自分から突き放してしまう。親兄弟さえも、だ。

 佐伯さんのは、頼れる人が誰もいない不安感からだろう。いつも自分のサポーターを近くに置いておきたいから、自分を下げて他者のアクションを受け入れますというポーズを見せる。

 二人とも、相手の人となりを見て自分のポジションを上げ下げするという努力が全然足りない。小林さんは、自分を神棚に上げっぱなし。佐伯さんは、常に自分を地べたに置こうとする。


 これまで彼女たちは、人物観察に基づく自己調整の訓練をまともにしたことがないんだろう。それは、二人が曲がりなりにも親の庇護下にある場合なら許されるんだが、二人とももう足が地面から離れてしまってる。未熟なうちに離陸してしまったんだ。それなら、墜落しないための飛行訓練をはばたきながらしなければならない。

 まず何より先に、これまでの処世術に重大な欠陥があることをこれでもかと認識してもらわないと。


「あなたは、いい人側にできるだけたくさんの人を置きたい。それは、本当にいい人が多い時には有効です。でも、実際にはどうしようもなく裏目に出てますよね?」

「は、はい」

「どうして裏目に出るんでしょう?」


 佐伯さんがじっと考え込む。


「いい人ってのは、欲がない。見返りを求めない。あなたに、あれして欲しいこれして欲しいと要求しない」

「うん」

「要求されないものは、自分から与えずに済む。あなたは、とっても楽ちんなんです。でもさっき言ったように、神様みたいな人なんかいません。ほとんどの人はいい人と悪い人の間で揺れるんですよ」

「どういう……ことですか?」


 拳を固めて、ハンドルをごつんと叩く。その勢いに怖じて、佐伯さんがのけぞった。


「私は、いつもいい人であろうと『努力』はしているつもりです。でも、私自身は決して『いい人』ではありません。じゃあ、私は悪人ですか?」


 目を伏せた佐伯さんが、ふっと首を横に振った。


「ううん」

「人っていうのは、いい悪いっていう基準では割り切れない、不安定なものなんですよ」


 左手をぐっと握る。


「これをあなただとします」

「はい」


 右手を開いて、拳の上にぽんと乗せる。


「あなたは、いつも自分を一番下に置こうとするんです。目立たず、従順に、規範を守って一生懸命。それは、とてもいいことですよ。周囲の人があなたの姿勢を評価して、手を差し伸べてくれるから」

「うん」

「でもね、それは相手が神様だから通じる方法なんですよ」

「あ……」

「あなたの上にいる人のアクションが慈悲や思いやりに満ちている時。それはあなたを守ってくれます。でもそれが悪意や敵意に変わると……」


 俺が左手の上に置いた右の手のひら。それをぐっと握る。


「あなたへの抑圧や迫害に変わってしまうんです。同じ人なのにね」


 右手が天使から悪魔に変わったわけではない。右手はあくまでも右手に過ぎない。それなら、右手と自分との位置を調整するしかないでしょ?


「佐伯さんは、小さな子供の頃からお母さんの気まぐれな態度に振り回されてきたんじゃないですか?」

「うん。はい」

「機嫌のいい時はすごく優しくしてくれるのに、一旦機嫌が悪くなるととんでもなく八つ当たりされる」


 佐伯さんが、こくこくと何度か頷いた。やっぱりね。


「あなたは、お母さんの不安定さのとばっちりを食わないように、いいところだけを見て悪いところをスルーするようになったんでしょう。それは子供の頃ならまだ有効なんです。でも、これからその手はもう使えません」

「……」


 まだ納得できないだろうな。そういう表情だ。だからこその訓練なんだよ。


「さて。私が先ほど交渉と言ったこと。これからあなたが交渉しなければならない相手。そして、交渉に何が必要かを考えてみてください」


 そりゃあ、一つしかないでしょ。


「勝山さん……ですか?」

「当たり。いいですか? 私は何も助言しません。あなたが勝山さんと気持ち良く共同生活をスタートさせるには何が必要か。それを向こうに着くまでの間によく考えておいてください」

「あ、あのっ!」


 いきなり突きつけられた宿題に狼狽したんだろう。佐伯さんが大慌てしてる。


「ひ、ヒント……は?」


 さすがにノーヒントはしんどいか。


「もう、これでもかと出ていますけどね」


 苦笑する。


「勝山さんはとてもいい人です。でも神様ではありません。ヒントは、それで十分でしょう?」


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