(4)
「そうだなー。お客さんが来た時のお茶の用意。それと、資料収集」
「しりょうしゅうしゅう?」
「そう。私が直接偵察活動をしなくても分かることは、ここで全部調べて欲しい」
「あの……どうやって」
「パソコンで、検索で」
「あ、そうか」
「使える?」
「う……練習する、します」
「スマホが使えるなら、それとほとんど同じだからすぐ出来るよ。難しくない。ちょっとやってみようか」
俺はロハでゲットしたリース明け中古パソコンを一つ立ち上げ、それを小林さん用に設定した。
「ブラウザを立ちあげたら、最初にこの画面が出るから……」
「うん」
「あとはここに調べたいキーワードを入れて」
ぱちぱちぱち。リターン、と。ぞろぞろぞろ。
「ね?」
「うん。スマホと同じだ」
「で、これは行けそうってやつは印刷して。プリンターにつながってるから」
その作業をやってみせる。部屋の隅のファックス兼用ページプリンターが、ぺっぺっと紙を吐き出し始めた。
「できそう」
「だろ? 難しくないよ。手順は書いといてね」
「うん」
小林さんが手順を書き取るのを待って、もう一度最初から練習させる。今時の若者は、この手の操作をすぐ覚えるから大丈夫だろう。よし。たったこれだけのことでも、俺一人でやろうとすればかなりの時間を食う。そこを短縮できるなら、すごくありがたい。
「あとは?」
「今はまだ分からない。これから事務所で引き受ける案件が増えてきたら、やってもらいたい仕事も増えてくる。そうなるように祈ってちょうだい」
「うん……」
◇ ◇ ◇
一通りの説明と質疑応答が終わったところで、小林さんの件に関しては一段落。さあ、あとは佐伯さんからの聞き取りと、武田さんからのアクセス待ち……か。どっちが先になるか分からないけど、俺はどちらにも対応しなければならない。俺が動くタイミングが重ならなければいいけどな。俺には身体が一つしかないからね。
「あの……」
腕組みして考え込んでいたら、小林さんがこそっと話しかけてきた。
「なに?」
「わたし……今日はもう帰らないと……だめですか?」
「うん? 別に居ても構わないよ。さっきの説明に納得してくれれば、契約はすでに有効だから」
小林さんが、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「ただね、今二件同時進行になりそうな気配になってる。一方に対応している間にもう一方から電話がかかってきたら、私は同時には対応出来ない。あとからかかってきた方への対応は、君に任せるから」
「あ……」
「マニュアルをよく読んどいてね。私がいない時には、いないですーで済むけど、いる時には君がさばかないとならない。居留守は使えないから」
「う……わ。はははい」
慌ててマニュアルをめくった小林さんが、文面を目で追い始めた。そう。ぼーっとしてる暇はないよ。全体で均せばぼけっとしてられる時間の方がずっと長いと思うけど、今はそういうわけにはいかない。まだ不確定要素しかない状態から行動に移せるところまで。俺自身でさばけるか、それが銭になるかも含めて、短時間でぱぱっと判断していかないとならないからな。
さあ、どっちが先に来る? 俺は、佐伯さんの方が先のような予感がしていた。
佐伯さんをこまして子供を産ませた大物。そいつが実力行使に出ていないのは、佐伯さんが白旗上げるのを待っているからだ。監視が途絶えず、逃げ場もなく、頼れる人もいない。そういう状況をキープしていれば、佐伯さんの心が先に折れると踏んでいるんだろう。
身寄りのない佐伯さんは、境遇が似たりよったりのママ友さんには相談出来ない。園長さんくらいしか頼れる相手がいないんだ。そして、園長さんに打てる手もない。警察が動いているのにどうにもならない状況なら、なんの力も権限もない一般人になんとかしろって言っても無理だ。
打つ手も逃げ場もない。そんな絶望的な状況になってるのにすぐ敵に屈服していないということは、佐伯さんが年齢や境遇に似合わず芯の強い子だということを示唆している。年はほとんど小林さんと変わらないけど、精神構造はまるっきり違うと見た。
問題は……こっちの対応方法なんだよな。
中途半端に自衛策を強化すると、向こうがもっと露骨に圧力をかけてくるかもしれないんだ。子供を預けて働いている勤務先。その職場に、なんらかの良からぬアクションを起こす恐れがある。そうすると、佐伯さんの生活がすぐに破綻してしまう。警察が、まだなんとかかんとかストーカーの過激な行動を抑え込んでる。その間に可及的速やかに強力かつ有効な対抗策を発動させないと、冗談抜きに破滅だろう。
ただ、対抗策は相手が分からないと組み立てられない。大物ってのが具体的に誰か。佐伯さんから聞き出したいのはそれだけなんだ。最低それだけあれば、アドバイスを組み立てられる。
武田さんの方も、そんなに余裕はない。ダンナが浮気の事実をおおっぴらにしてしまった以上、後の対応を急がないと一方的なダンナペースになる。浮気された方が全ての不利益を抱え込むことになるのはどうにも理不尽だが、それが現実だ。ただ、武田さんのケースは俺には扱い慣れたトラブルだ。これまでの経験を活かしていろいろ手を打てる。
でもなあ……。佐伯さんのケース。武田さんのケース。どちらもアドバイスだけで終わってしまうと、一番最悪の自腹切りボランティアだ。どっちかだけでもいいから、依頼にならんかなあ。
ぶつぶつぼやきながら手帳に対応方針を書き並べていたら、事務所の方の電話が鳴った。俺は、黙って小林さんを指差す。
「え?」
「私がいたら、私が電話を取るとは限らないよ。お客さんが来所してて私が対応中なら、君が電話を取らないとならない。練習さ」
「う……そうか」
渋々という感じだけど、小林さんが受話器を取った。テレビ電話っていうわけじゃないから、どんなに不機嫌でもどんなにやる気がなくても、それは相手には見えない。開き直ってやってくれればいい。まだびくびくという感じだったけど、受話器を取った小林さんが、マニュアルを見ながら応対を始めた。
「はい。中村探偵事務所です。小野寺さま、でございますね。お電話ありがとうございます。はい、おります。今所長に代わりますので、少々お待ち下さい」
おおおっ! ばっちりじゃん!
俺は笑顔でオーケーサインを出し、受話器を受け取った。小林さんは、ほっとしている。ファーストコンタクトが済んでいる相手だから、俺も気楽だ。
「お待たせいたしました。中村です」
「あの……今朝ご相談させていただいた件で」
「はい。佐伯さんのご都合は?」
「私が付き添いますので、これからそちらに伺ってよろしいでしょうか?」
「かまいませんが、佐伯さんのお仕事は大丈夫ですか?」
「ひどくストーカーに怯えてて……」
「む! そうか」
「お子さんが急に熱を出したことにして、今日は早退という形にしてもらいました。佐伯さんのお子さんと一緒に、タクシーでそちらに伺おうと思います」
「分かりました。お待ちしています」
電話を切って、すぐに手帳を開く。俺が今朝園長さんに言ったこと。
『自分や家族を危険にさらしてまで、案件を引き受けることは出来ない』
そう。あのセリフは、そのまま園長さんにも当てはまる。もし佐伯さんを庇うアクションが連中に覚られると、他のママさんやお子さん、職員にまで被害が拡大しかねない。しかも、園長さん自身にも危険が及ぶ恐れがあるんだ。かわいそうだという同情や、なんとかしてあげたいという善意だけではどうにもならないことがある。園長さん自身と保育園関係者の安全確保のためには、そういう危機意識を持ってもらわないと始まらないんだ。だから、佐伯さんが感じている恐怖を園長さんも共有したということは、決して悪いことじゃない。
「よし、と」
俺は、すぐに小林さんに指令を出した。
「お客さんが二人見える。お茶の準備をしといて。それと、赤ちゃんが一緒に来るから、仮眠室に布団を敷いといて」
「わ、わかりました」
俺がやれば一瞬で出来る。でも、それを小林さんにこなせるようにしてもらわないと、彼女のためにならん。これまでどうしようもないひっきーだったやつに、いきなり何でも自分で出来るようにしろっていうのは無理だよ。最初は、どうしても具体的な指示がいる。それをこなす中で、必要な知識、常識、判断を身につけていってくれればいい。
段取りが悪くてわたわたした感じではあったが、小林さんはなんとか準備を済ませた。おっけーおっけー。最初はそれで充分。
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