(3)
これまでずーっと俯いたままだった小林さんは、ちらちら顔を上げて俺の方を見るようになった。まあ……暇なんだろ。ここには、自室にあるものが何一つないからね。
「ああ、小林さん」
「はい」
「最初に勤務条件と遵守事項の確認をしておこう。紙をあげるから、それに自筆でちゃんと書いといて。雇用契約書の代わりね」
「うん。あ、はい」
俺が使っている事務机の一番下の引き出し。そこに、普段使いの黒手帳をどっさりストックしてある。俺はその一番奥から、一冊だけ仲間外れになっていたやつを引っ張り出した。
それは、文房具屋からサンプルでもらった中判の革手帳。俺が普段使っている味も素っ気もないビジネス手帳ではなく、ワインレッドのおしゃれな手帳だ。どう見ても女性用だろう。ひろにどうかと思ったんだが、バインダー式のを使ってるから要らないとあっさり断られた。でも、貧乏性の俺は新品を捨てることに抵抗があって、なんとなく今まで残してあったんだ。うーん、どこで何が役に立つかわからんもんだな。
手帳とセットではないんだが、やはりサンプルでもらった細身のノック式ボールペンを付けて。小林さんに手渡す。
おずおずとそれを受け取った小林さんが、おしゃれな手帳をじっと見下ろす。
「あの……」
「うん?」
「これ……もらっていいんですか?」
俺は、事務所の書棚の一つを指差した。そこにはぎっしりと手帳が詰め込まれている。
「月に最低二冊。大きな案件があった時には十冊近く手帳を使う時があるからね。文房具屋から何ダースも手帳を買ってると、サンプルを付けてくれることがあるんだよ」
「へえー」
「こんな赤くてでかい手帳は、おっさんには無理だ」
笑ってもいいものかどうか迷ったみたいだけど、少し顔を傾けて、小林さんがくすっと笑った。さてと。
「まず勤務日。土日を除く平日五日間。勤務時間。基本、朝九時から夕方五時まで。いわゆる、九時五時です。早出や残業はなし。ただ、帰りたくないから休日や時間外もいさせて欲しいって時は、それを認める場合があります。私がここにいる時に限り、ね」
「どして……ですか?」
「いつもは、子供の世話があるからね。保育園への送り迎え、家に帰ってからの子供の世話。それは主に私の仕事だから」
「あ……」
「案件が押してて、休日出勤したり保育時間を延長している場合は、私の退勤まではここにいてもいいけど、私がここを出る時には事務所閉めちゃうからさ」
「分かりました……」
両親からの風当たりが強くなってるから、本当は帰りたくない。今家にある自分の部屋をそっくりこっちに移したい。……って感じなんだろな。それは無理だよ。最初に言ったように、あくまでもシェルター機能の提供は最初だけ。あとは、普通の勤務にするからね。
「あ、今のはちゃんと書いてね。この前の君みたいに、私が言ったことをつらっとスルーしたら次はないよ。叩き出すからね」
「う……」
「でも、書いとけば大丈夫でしょ? 決まりごととか、条件とか、やり方とか、忘れないように」
「あ、はい」
本当は授業受ける時にノート取るのと同じと言いたい。でも学校からこぼれ落ちてしまったこの子に、そういうたとえを出すのは酷だろう。
「お給料。最初は無給です。交通費も出ません。歩いて通えるでしょ?」
「は……い」
「お昼ご飯は、お弁当持参でお願いします」
「……」
がっくりって感じ。自分で料理したことないんだろなあ。そこらへんがものすごーく歪んでるように感じるけど、ひろも姉貴も家事能力はほとんどゼロだった。小林さんだけのこっちゃないね。
「お弁当用意出来なかったら、その時は朝に申告して。お弁当代を支給します」
「いくらですか?」
「五百円」
「わ」
「ただし、月五回までね」
最初からあてにされるのは困る。
「仕事。最初は電話の接受と取り次ぎだけね。やり方は、渡したマニュアルに従って。分からないことがあれば、その都度聞いてください。私がいない時、なんかめんどくさそうな相手だなーと思った時は、さっき私が言った対応で」
「申し訳ございません、所長はただ今外出しております。お急ぎでなければ、改めてご連絡いただけないでしょうか?」
「それでおっけー! ばっちり!」
「はい」
困った時にはその魔法の呪文が使えるから、気楽だろう。
「電話で依頼してくる人は、自分のことは極力知られたくないの。だから君は、相手が誰かを苦労して確かめたり、無理に用件を聞き出したりする必要はないんだ。私に取り次ぐだけでいいの。機械的にさくっとやっちゃっていいからね」
「はい」
「さて。あと、ここで絶対にやっちゃいけないことを書いといてください」
「はい」
小林さんの顔に緊張が走った。
「私やお客さんが話をした内容を、ご家族やお友達に絶対漏らさないでください。秘密厳守」
「は……い」
「その原則を守れなかった場合、最悪あなたやご家族に命の危険が及ぶこともあります。うちの信用がどうのこうの以前に、自分自身がリスクを負うの。だから、絶対に口外しないこと。いいね?」
ごくっ。小林さんがつばを飲み込む音がした。
「わ、わかり……ました」
「あとは」
「はい」
「ないわ」
どてっ。小林さんが前につんのめった。
「はっはっは。まあ、そんなもんです。人の秘密を扱う仕事だから、その情報を外に漏らさない。それ以外の制限は特にありません」
ほっとしたんだろう。ふうっという小さな吐息が漏れた。
「あ、でもね」
「はい?」
「電話の応対をしないとならないから、大きな音で音楽プレーヤーから音を出したり、ヘッドフォンやイヤフォンをするのはなしね。それじゃ、仕事にならないでしょ?」
「あ、そうかあ……」
ちょっと、がっかりって感じ。
「じゃまにならない音量で流しておく分にはかまわないよ。ただし、私のいない時限定ね」
「音楽……嫌いですか?」
「うん? いや、好きだよ。でも、ここでいろんな推理をしたり作戦を立てたりする時には、がっつり集中しないとならない。音が邪魔になるんだ」
「あ、そうか」
「ね?」
「はい」
「それくらいかなあ。あとは、マンガや雑誌持ち込むのも、スマホで動画見たりするのも、好きにしていいよ。お茶とかは事務所のを自由に使って、飲んでいい」
「いいんですか?」
「それは必要だからね」
思ったより制限がないってことで、最初の緊張が解れてきたんだろう。室内を見回していた小林さんの口から、こそっと質問が。
「あの……」
「うん?」
「わたし……いつまでここにいられますか?」
「そうだなあ」
腕組みして、少しばかり思案する。
「一応、三ヶ月をめどに考えといて」
「三ヶ月……ですか」
「そう。それまでの間は、君が秘密厳守の約束を破らない限り出てけとは言わない」
「三ヶ月以上は……」
思わず苦笑してしまう。
「いや、それは小林さんの問題じゃなくてね。ここの問題なんだ。ここが三ヶ月持つか。それがネックなのさ」
ぱかっと大口を開けた小林さんが、手にしていたボールペンを床の上に落とした。
「あのね。私、そしてこの探偵事務所が崖っぷちなのは、小林さんと同じなの。フレディのところみたいな大手ならともかく、ここは弱小もいいとこ。食っていける稼ぎを確保出来るかどうかがものすごく微妙なんだ」
「ひ、ひええ」
一度説明したことなんだけど、最初の時は完全にゾンビになっていて、俺の言ったことなんか全く頭に残っていないだろう。もう一度説明しとこう。
「事務所の新調でこれまでの貯金を使い果たし、奥さんからも資金を借り入れた。これまでは私一人で切り盛りしてたから、自分でまかなえる分でやってこれたんだけどさ。子供がいればそうは行かない。子供の世話でどうしても探偵業に使える時間が限られるから」
「うん」
「私一人でこなせない分を分担してくれる人を入れるなら、どうしても人件費がかかる。請ける仕事と支払う給料のバランスが崩れたらもうアウトなんだ」
「そ……か」
「これまではあんまり宣伝に力を入れてなかったんだけど、そっちも一生懸命やらないとダメだし、請ける仕事の量も増やさないとならない。それを君を入れた形で試してみて、うまく行きそうなら継続。そして、あんまりたくさんは払えないけど給料を出す形で君を雇用する」
「うん。あ、はい」
「でも、そう出来るかどうかは今はまだ分からないってことね」
はあっ。でも、出足がこれだからなあ……。
「まあ、いろいろ試しながらやってみるさ。最初から何もかもうまくいくわけないし」
「うん。あの……」
「なに?」
「電話の応対のほかに、なにか仕事……ありますか?」
お? 思わぬ意欲……いや、三ヶ月以降もここに逃げ込んでいるには、ここがなくなるとまずいってことなんだろ。動機が歪んでるけど、ゾンビのままよりはずっとマシだ。
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